習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ひゃくはち』

2009-12-27 18:39:43 | 映画
 「ひゃくはち」とは、人間の煩悩の数であり、野球の硬式のボールの縫い目の数でもある。たかが高校野球のために自分の人生を賭けてしまう子供たち。しかも、彼らの大多数はプロ野球選手になるわけでもなく、ただ甲子園を目指すためだけに戦う。

 そんなふうに言えばなんだかかっこいいが、この映画の主人公たちは絶対甲子園に出ることはない。彼らのチームは春の選抜大会で甲子園に出場し、なんと準優勝する。今年の夏も甲子園に出場することになるだろう。今年は2人にとって最後の夏だ。この夏に向けて3年間頑張ってきた。だが、彼らはベンチにも入れない。補欠でしかないからだ。

 名門野球部補欠部員。背番号19、20をギリギリで手に入れることが彼らの限界。彼らが試合に出ることはない。甲子園のベンチ入りは18人なので、このまんまでは甲子園行きの切符をチームが手にした時、彼らがグランドに立つ可能性はゼロとなる。なんて非情なことだろうか。でも、それが彼らのどうしようもない現実なのである。どれだけ努力しても、その壁を超えることは不可能なのだ。

 今まで、こんな子供たちを主人公にした野球映画はなかった。弱小チームが強くなるなんてのなら、星の数ほどあるというのに。映画は夢を描くものだからとはいえ、ここまで現実を描いた映画が皆無だったのには(当然かもしれないが)なんだか驚く。この映画の目の付けどころは実におもしろい。

 名門野球部で、3年間補欠として試合に出ることもなく、でも死ぬほどきつい練習を耐え抜いて、しかも、たぶん中学時代はかなり野球がうまくて、自分のプレーには自信があって、それであこがれの野球部に入部したのに、現実はこれである。でも、彼らは最初からそんなことわかっている。このエリート集団の中で、自分たちがレギュラーになれることはない、と。

 それならやめればいいと思う。(僕なら絶対こんなクラブには入らない)

 なのに、なぜ野球を続けるのか。彼らは辞めることなく日々努力を重ねる。そんな彼らを支えているものは何なのか。この映画が描こうとするものは、きっととても尊いことだ。人が何のために生きるのか、ということの答えがここにはあるはずだった。だが、残念ながらこの映画はそこまでには至らない。あと1歩というところでリアリティーに欠く。

 だいたいなぜあんなヤクザみたいな(竹内力である)監督にしたんだろうか。しかも彼はプロ野球のスカウトと癒着していたり、新聞記者もヤクザのような取材で、高校生は隠れて酒、煙草は日常茶飯事。「そんなのはどこの高校の野球部でも同じだろ」なんて言うし。僕にはよくわからないのだが、もしこれが現実なのならなんかあまりに酷過ぎないか。実名で横浜ベイスターズとか出てくるし、神奈川県大会で常勝の名門校なんていうのだから、横浜高とかが、この映画のモデルなのか? まぁ、そんなことはどうでもよろしい。それより映画としての脚色の仕方に問題を感じるのだ。これではいくらなんでも、リアルにはとても思えないからだ。綺麗事ばかりではないことはわかるけど、あんまりな描写が続くと、映画に集中できない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 飛鳥井千砂『アシンメトリー』 | トップ | 『ロルナの祈り』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。