
ガス・ヴァン・サントのこのインディペンデント映画を見ていると、ほっとさせられる。アメリカ映画の良心を見せられた気分だ。ハリウッドのおバカな映画ばかりがアメリカ映画だなんて思ってはならない。メジャーな映画も撮るが彼はあくまでも自己に忠実な誠実な映画を作り続ける。
これは単純なアート系映画なんかではない。作家として彼が今思うことを自分の表現で語る。少年の心の中に分け入って、彼の中にぽっかりできた空白と向き合う。映画はドキュメンタリータッチで彼の行動を追う。ビデオで撮られた心象風景のような映像をはさみながら、事件の核心に迫る。だが、描きたいのは事件そのものなんかではない。この事件によって引き起こされる彼のリアクションのほうなのだ。事件は彼の中にあった空洞を彼自身に認識させる。事故によって人が死ぬ。自分がその事故に関与している。だが、それを警察に言う気にはならない。それは自分が犯人にされることを恐れての行為ではない。供述を取られるのが面倒くさいだなんていうことでもない。他人に対して説明できないことを言葉にするのが嫌だからだ。それは逃げではないか、と言うのはたやすい。だが、警察でしゃべったところで何にもならないことはもう最初からわかっている。
彼はいつもひとりでパラノイドパークへと行く。スケボーをしている不良たちにあこがれているわけではない。純粋に滑る行為が好きだというわけでもない。ここに来ても彼はみんなの前で滑りはしない。ただ、見ているだけだ。自信がないというわけでもない。ただ、ぼんやりと彼らを見ている。
自分と自分を巡る状況に対してどう足を踏み出すか、躊躇している。何が正しいことで何をなすべきなのかわからない。ガールフレンドからセックスを求められてするが、自分からは興味ない。そんなことで満たされるものは何もないと最初からわかっていた。だから、セックスの後、彼女とはすぐに別れる。子供らしくもっと無邪気に生きたらどうか、と大人は言うだろう。だが、そんなこと、なんの意味もない。
彼の荒涼とした心をなだめる術はここには何もない。クリストファー・ドイルのカメラは彼の心を的確に映像化する。だが、ここには答えはない。それでいい。
これは単純なアート系映画なんかではない。作家として彼が今思うことを自分の表現で語る。少年の心の中に分け入って、彼の中にぽっかりできた空白と向き合う。映画はドキュメンタリータッチで彼の行動を追う。ビデオで撮られた心象風景のような映像をはさみながら、事件の核心に迫る。だが、描きたいのは事件そのものなんかではない。この事件によって引き起こされる彼のリアクションのほうなのだ。事件は彼の中にあった空洞を彼自身に認識させる。事故によって人が死ぬ。自分がその事故に関与している。だが、それを警察に言う気にはならない。それは自分が犯人にされることを恐れての行為ではない。供述を取られるのが面倒くさいだなんていうことでもない。他人に対して説明できないことを言葉にするのが嫌だからだ。それは逃げではないか、と言うのはたやすい。だが、警察でしゃべったところで何にもならないことはもう最初からわかっている。
彼はいつもひとりでパラノイドパークへと行く。スケボーをしている不良たちにあこがれているわけではない。純粋に滑る行為が好きだというわけでもない。ここに来ても彼はみんなの前で滑りはしない。ただ、見ているだけだ。自信がないというわけでもない。ただ、ぼんやりと彼らを見ている。
自分と自分を巡る状況に対してどう足を踏み出すか、躊躇している。何が正しいことで何をなすべきなのかわからない。ガールフレンドからセックスを求められてするが、自分からは興味ない。そんなことで満たされるものは何もないと最初からわかっていた。だから、セックスの後、彼女とはすぐに別れる。子供らしくもっと無邪気に生きたらどうか、と大人は言うだろう。だが、そんなこと、なんの意味もない。
彼の荒涼とした心をなだめる術はここには何もない。クリストファー・ドイルのカメラは彼の心を的確に映像化する。だが、ここには答えはない。それでいい。