
今年最初の小説は大好きな大島真寿美さんの新作。何よりもまずこのタイトルにそそられる。自分の人生は果たして「本当の人生」だったのか、なんて問われて「おおよ」と答えられる幸せな人はなかなかいないだろう。まぁ、普段ならそういうふうに言えても心が弱っているときには、「もっとほかの人生があったのではないか」と誰もが想像するはずだ。
「本当の人生」なんてない。わかっていることだ。「今ある人生」しかないのだ。それが「本当の人生」なのだが、なかなかそれを肯定しきれないのも事実だろう。人は「もしも」を想定する。特に、失敗ばかり続くと、「こんなはずじゃなかった」と思う。でも、そこには真実なんかない。自分が選んだ今しかない、ということは誰もが十分に承知している。もしも、を望んで修正しても、きっともっと困難な袋小路に陥るばかりだろう。自分を信じたほうがいい。それで、失敗しても本望だ、と思いたい。
でも、である。小説は「もしも」を叶えてくれる。もちろん、映画も、である。で、この小説もその「もしも、」に言及する。ただし、単純じゃない。だから、おもしろい。小説家志望の20代の女の子、真実が主人公だ。彼女があこがれの作家の家(すごい邸宅!)に弟子入りして入る。夢のような人生の始まり、かと思った。
でも、すぐに挫折する。ありえない。そこには自分の人生はない。作家の小説の中に出てくる猫のチャーチルの名前を当てられて、彼女の世話をしながら生きることになる。なんと3日でリタイアする。それはいくらなんでも早すぎる。でも、そんな思い切りの速さが現代っ子でいい。でも、それで終わるはずもなく、連れ戻される。
作家の家で、今度は自分の人生を生きようとする。なんとコロッケを揚げる、のだ。それまでバイトでコロッケを作っていた。プロ並み(というか、プロ)の腕。小説を書きながらコロッケ屋でずっと働いていたからだ。新人賞を取って作家としてのスタートを切ったけど、そのあとは鳴かず飛ばずであきらめ始めていた。ホリー先生(これがその作家の名前)の家に行き、彼女の面倒を見ることで、新しい人生を始めた。でも、本当はすることがない。家政婦ではなく、ヘルパーでもなく、ただの弟子。弟子、って何をするんだ? よく、わからない。ただ、家でブラブラするだけ。ホリー先生のマネージャーをして、すべてのお世話をしているのは、宇城さんだ。
高齢のホリー先生は、もう小説を書かない。秘密だが、エッセイは宇城さんが代筆している。ホリー先生の介護が仕事のようなものなのだが、(できたら彼女にもう一度小説を書いて欲しい、というのがみんなの願いだ)その先には何があるのか。そこには、本当の人生はない。だが、そこで過ごすことで、見えてくるものがある。
真実だけでなく、ホリー先生や、宇城さん、3人の人生がここには懸かっている。20代、50代、80代という3世代のそれぞれの人生の選択がこの作品の中で描かれる。一体どうなるのか。後、100ページ、楽しみだ。
と、書いた後、帰りの電車で読み終えた。また、泣きそうになるので困った。今の自分と、過去の自分、やがて訪れる未来の自分(でも、それってうちの母親の現在と考える方がリアル)主人公の3人がそれぞれ現在過去未来を象徴する。3世代の3人みんなに感情移入できるなんて、そんな小説はなかなかない。
さらには、小説ってなんだ、という本質的な問題にまでメスを入れてくる。年頭からこんな凄い小説に出逢っていいのか、と思う。生きているってどういうことなのか、その答えがここにはある。破天荒な作品で内容の説明が難しい。でも、だからこそ、これは凄いのだ。