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映画・演劇のレビュー

AI.HALL+小原延之共同製作『oasis』

2009-03-23 20:34:33 | 演劇
 オアシスを探し求めた小原さんの長い長い旅が、ようやくひとつの終着駅にたどり着いた。そのことを心から喜びたい。もしかしたら中絶してしまうのではないかと不安になったくらいだ。リーディングから試演会を経て本公演に至るというプロジェクトだったのだが、なんとかこうして完結して本当によかった。最終的にはリーディングと本公演というオーソドックスな形で終わることになったが、リーディングの段階から今回まで半年を経由し、作品は進化した。リーディング・ヴァージョンは実は試演会を兼ねていた。そこでの手ごたえをリサーチして、幾度となく改稿を重ね、今回の完成版に至る。

 死刑制度へ一石投じるという行為をここまで困難にしてしまったのは小原さんの視点が直線的なものではなく、彼の中でも揺れ続けたことによる。その度に作品全体までもが揺らぐ。そんななか不安定なままこの作品は作られた。何が正しくて、何が間違っているかなんか、誰にもわからない。視点を変えるだけで白が黒になる。そのくらいに微妙なものだ。デリケートな題材を柔軟な視点で、揺らぐことなく捉えた。こんなにも厳しい作品はない。見ていて疲れ果てる。だが、この真剣勝負を目撃することが出来て幸福だった。ここまでひとつのテーマを突き詰めた芝居はない。

 死刑制度に対して反対、賛成の単純な二項対立で見せたりはしない。殺したものも殺されたものも、ここには登場しない。事件の周囲から描く。裁判自体も描かれない。被害者の遺族、マスコミ、弁護士、傍観者(裁判所の近くにあるカフェのオーナーに象徴される)そして、本編には登場しない事件に興味を持つ一般の人たち。

 事件の周辺にいる人たちが描かれる。彼らがこのカフェにやってきて事件の会話をする。それぞれの立場、考えが錯綜する。何が正しくて、何が間違いだなんて関係ない。たどり着くべきゴールなんてない。

 息子を殺された夫婦は事件が引き金になり離婚する。夫(原真)は死刑反対の立場をとる弁護士。息子の死と犯人の死刑とは別問題として捉える。妻(恒川愛子)は我が子の命を奪った犯人の死刑を望む。煽り立てるマスコミとは距離をとるマスター(中嶋やすき)。だが、彼がニュートラルな立場をとっているというわけではない。どちらかというとマスコミの側を象徴するこの事件の母親の手記を執筆したライター(後藤七重)のほうがニュートラルかもしれない。何度も言うように、何が正しくて何が間違っているかというふうに割り切れる問題ではないのだ。

 小原さんはあらゆる角度からアプローチをかける。考えれば考えるほどに泥沼に陥っていく感じだ。この芝居はわかりやすくてすっきりした芝居ではない。これほどに混沌として、先に行くほど袋小路に陥ってしまう芝居はないだろう。突き詰めていくほどにぬかるみに嵌り、出口を見失う。

 クライマックスは、息子を殺した犯人に対して、父親である人権擁護の立場をとる弁護士が、法廷でナイフを突きつけるという事件だ。それをもちろん直接見せたりはしない。しかも、彼は犯人を刺すことが出来ない。殺せないのだ。人間はそう簡単に人を殺したり出来ない、という科白が胸に痛い。だが、犯人は彼の息子を殺している。それも事実だ。事件の後、彼が弁護士(雪之ダン)と向き合うこの静かな場面がすばらしい。2人から目が離せない。

 喫茶店という限定された場面でのやりとりという基本ラインが崩壊しているがそんなこと気にもならない。純化した形でのディスカション劇とでも言えそうなドラマを昇華させるためには仕方のないことだ。わかりやすさとは無縁で、話があっちこっちに飛んでいくのもいい。敢えて求心的な構成はとらない。

 ただ『牛男』と名付けられたサイト、犯人の背後にあるこの闇に、今回はあまり触れられていないのは残念だ。リーディング・ヴァージョンではそこがかなりおもしろかったのに。

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