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映画・演劇のレビュー

『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』

2010-06-26 23:04:35 | 映画
 アメリカンニューシネマを思わせる映画だ。今時こういうタイプの映画は珍しい。甘いだけの映画が横行する中でここまでハードな状況がクールなタッチで描かれていく映画は少ない。『イージーライダー』と『明日に向かって撃て!』を混ぜ合わせたような感触。2人の男たちがバイクで旅するし、男女3人によるロードムービーだから、と言えばそれまでなのだが。ただしここに描かれている閉塞状況があれらの映画を想起するというほうが正しい。お話の骨格以上に、その追いつめられた状況がアメリカンニューシネマっぽい。

 「はつり」という仕事をここまで本格的に描いた映画なんて初めてではないか。だいたい映画の中で、主人公の仕事が、前面に出て描かれることが珍しいのだ。普通仕事は主人公たちの背景でしかない場合が多い。反対に前面に出る場合は、花形職業でそこを起点にしてドラマを作る場合が多い。今回のように生活の中に仕事がきちんとあって、ドラマが動いていくという本来なら当然のことがなぜか映画では特別だったりする。

 彼らが置かれている過酷な状況もまた、普通の映画なら避けて通る設定だ。社会の底辺を生きる人々を描く場合は、『底辺』ということが先にあり、主人公たちはその設定を描くために後から作られた印象を与える。まずテーマありき、なのである。

 だが、この映画は違う。まず、ケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)がいる。そして、彼らがカヨちゃん(安藤サクラ)と出会う。これは、あくまでも彼ら自身のドラマなのだ。そんな当たり前のことがなぜか新鮮だ。

 旅の途中で出会う人たちとの触れ合いがテーマにはならないのもいい。いかにも、という規格には収まらない。幾分安易な展開(普通ならあんな風に簡単にカヨちゃんと再会できないだろ)もあるが、観念的(新井浩史が北海道まで追いかけてきて、しかも銃を持っているとか、はあるが)にはならず、あくまでもリアリズムで展開する。

 ラストも痛ましい。どこまで行っても彼らの生きる国なんかない。社会から弾き飛ばされてどこにも居場所はない。どんどん旅を続けるが、最初から彼らの居場所なんか無かったのだ。網走まで服役中の兄に会いに行くが、それは口実でしかない。目的なんか無かった。ケンタは兄に拒絶され、自分はひとりだということを改めて認識させられる。どこまでもついてくるジュンだって、ケンタにとってはただ疎ましいだけなのだ。絶対的な孤独の中で行き止まりまで、旅するしかない。決着は銃弾による、というのはいささか安易だが、そこで死なさない。惨めなまま生きる。どこまで行っても無意味だろう。やがて死んでいくしかないはずだ。だが、彼らは先を目指す。

 これは、今時、はやらない映画だ。傑作とは言わないが、暗くて気の滅入る映画だ。だが、なぜか心に沁みる。





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