あの静かな傑作『コロンバス』のコゴナダ監督作品の第2作。今回はなんと(一応)近未来を舞台にしたSF作品だ。だが、派手な映画ではない。それどころか、この設定から想像すると地味すぎるくらいに渋い見せ方だ。前回同様(前回はそれ自体が主題のようだったけど、今回はさりげない)お話の繋ぎに建物や周囲実景を適宜挿入するスタイルで見せる。
どこの家庭にも人間そっくりな人型AIがいる時代、AIは家族の一員のように暮らしている。その家庭用AIは育児家事をこなす。そんな家族同様のAIが壊れてしまい、動かなくなる。夫婦の養子としてこの家にやってきた娘はここに来た頃から(だからそれはほぼ、生まれた頃からだ)ずっと彼の世話になっていた。彼のことを兄と思い慕っている。AIの名前はヤン。少女も彼も中国系。両親は白人の父と、黒人の母。そんな4人家族だった。
父(コリン・ファレル)は業者にヤンの修理を依頼するが、もう部品もなく廃棄するしかないと言われる。もちろんそんなことでは娘は納得しない。彼女はこれまでずっとヤンとともに生きてきた。思い出はすべてヤンとともにある。少女はヤンを兄と慕う。というか、彼は兄そのものなのだから。仕事で忙しかった両親よりもヤンのことが彼女にとっては身近な存在なのだ。父親はなんとかしてヤンを復活させたいと奮闘するが、難しい。
父はヤンの中に内蔵されていた記憶を再生する。そこには懐かしい思い出とともに、彼の初恋の相手が登場する。なんとこれはAIが恋を知るというお話でもある。だが、ほぼ冒頭でヤンは死に、以後映画には彼はほとんど登場しない。(もちろん死んでいるから何度か遺体は映るけど短い回想シーンでだけ)だから残された3人のお話になる。しかしそこにはドラマチックな展開は皆無だ。なんとかして彼を生き返らせたと願うがそんなささいな願いすらかなわない。潰れてしまったロボットは廃棄して新しいものと交換すればいい、というわけにはいくまい。彼はもうロボットではない。ずっと一緒に暮らした家族であり、心は人間なのだ。
コゴナダ監督は、甘いファミリーピクチャーか、ちょっとしたハートウォーミングにでもなりそうなこの素材にリアルな感触のアート映画のタッチで挑む。お話を少女の視点ではなく、父親の視点から描く。スタンダード、ビスタサイズ、シネマスコープという3つのスクリーンサイズを自在に使い、電子機器での会話シーン、現実のシーン、記憶再生装置での映像シーンとして使いわける。(ただ残念なのは今の劇場ではシネスコになると、横に広がるのではなく上下がカットされスクリーンが小さくなる)
これは命についての映画である。コゴナダ監督はこの小さな映画を大切に慈しむようにして作った。