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映画・演劇のレビュー

あうん堂『うてなのやどり うき仙人』

2010-07-02 21:44:45 | 演劇
 家がない家族の話だ。ホームレスというわけではない。彼らは意図的に家を持とうとしない。家を失ったわけではないのだ。父(杉山寿弥)と母(小畑香奈恵)。上の娘(奥野彩夏)と下の息子(大竹野春生)。4人家族だ。彼らは卓袱台を囲んで夕食を摂る。今では失われつつあるような昔ながらの一家団欒がある。父が箸をつけるまで誰も食べないし、その次は母で、順番はちゃんと守られる。ただ、彼らには家がない。だから、野宿する。日々、帰る場所が変わる。

 リアリズムのタッチなのだが、話自体はリアルでもファンタジーでもない。この設定ではどうしても観念的なものにしかならない。今時安部公房ではないのだから、この設定自体がありえない。家を持たないで生活する。家がないからおかえりなさいは言わない。でも、ただいま、は言う。行って来ます、も言う。彼らの世話を焼く兄嫁(小室恵)の存在が彼らをファンタジーの住人にはしない。彼女の家にいることにしているから、住民票はある。なぜ、そこまで家を持たないことにこだわるのか。

 「いつまでもあると思うな、職と家」というような感じの家訓が彼らの「やどり」には飾られる。家というものは幻想に過ぎないのか。それとも、家を持つことでそれが家族だと安心する事への戒めなのか。僕たちの拠り所は決して安定したものではない。そんなことはわかっている。たとえ、家があったとしてもそれが安定には繋がらない。ならば、それでも家を持たないことにどれだけの意味があるのか。さらには、彼らの定めたいくつものルールにはどんな意味があるのか。その辺がわかりにくい。

 家のない人たちに対して暴行を加える一般市民の行為。社会生活を乱すということがその暴挙の理由で、ホームレス狩りと同じだ。彼らがバラバラになるきっかけとなるのだが、そこも明確ではない。そのことで何を描きたかったのかわかりにくい。

 自分たちのポリシーで敢えて家を持たないで生きるという覚悟、それにはどんな意味があるのか。他人同士が結婚して家族を作る。やがて、血の繋がった子供たちは独立してここを出ていき、別の家族を作る。そして、この家に残るのは、もともと他人でしかなかった男と女だ。家というもの自体が幻に過ぎないのだろうか。だから彼らは最初から家を拒否したのか。では、帰るべき場所はどこにあるというのか。

 今回杉山晴佳さんが取り上げた問題はいつも以上に本質的で興味深いのだが、あまりに観念的すぎて、今一歩、テーマに深く踏み込めていない。新しく家族になる男(関川佑一)と、従来の家族たちとの関係性もわからない。大体この4人ですら、本当の家族なのか、それすら明確ではない。すべてがあまりに曖昧すぎてとりつく島がない。


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