『父、帰る』のアンドレイ・ズヒャキンツェア監督の第2作、第3作が昨年一挙公開されたとき、ぜひ、見たいと思った。でも、またまた、見逃す。2本1日で見るにはしんどい。だからといって日を分けて見るには上映期間が短い。そんなこんなでどうしようか、と思っているうちに、上映が終わる、といういつものパターンだ。先日DVDになったので、2本まとめて借りよう、と思うけど、これも、また、なかなか決断できないまま、今日に至る。
要するにそれくらいに覚悟のいる映画なのだ。そういう意味でタルコフスキーの映画を見るのと同じような感じだ。(本国ではタルコフスキーの再来、とか言われているらしい。予告編を見て知ったんだけど、なんだかなぁ、である)
2時間37分。ずっと緊張を強いられる。お話自体はそれほど難しいわけではないし、どこにでもあるような家族の物語なのだ。しかし、それをこういうふうに突き詰められると、重い。彼らの中に何があったのかは、明確にならない。想像するだけだ。しかし、決定的な何かがあり、こういう行動に出てしまった。そうすることで、とんでもないことにつながる。行動から結果までは実に丁寧に描かれる。その代わり説明はない。
行動は妻が「ほかの男の子供を身籠った」と夫に告白すること。結果は彼女の自殺。そう書くと、なんとわかりやすい展開か、ということになる。しかし、そこに至るまでの2時間は、気が遠くなるほど(特別な出来事は何もないのに、)濃密で長い。細部のひとつひとつをしっかり見つめることになる。兄とのこと。子供たちのこと。妻の行動。今ではもう誰も住まなくなったこの家(実家だ)に帰ってきたこと。隣人との付き合い。なんでもない日常の積み重ね。しかも、ほんの数日の話だ。だが、妻の告白で心が揺れて、自分がどうしたらいいのか、それすらわからなくなり、でも、表面上は穏やかな状態を装う。
冒頭の兄の事件が、ラストにどう繋がるのかも、暗示に止める。終盤30分の怒濤の展開には驚かされるけど、それすら充分な謎解きでもないし、説明にはならない。わからないものは、わからないまま。
妻の自殺、と書いたけど、それも、はっきりとはさせない。わかりあえないまま、終わる。わかりあえない、ということが、テーマだと、言うとそこまでなのだが、その残酷さに胸が痛む。許すか、殺すか、そんな選択はできない。そこで惑ううちに、彼女が死んでしまう。兄まで死んでしまう。絶望に取り残される。
もう1本の『エレナの惑い』もいつか、見ようと思うけど、今しばらくは無理だ。そこまで僕はタフではない。