ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

座して半畳

2011年03月09日 | 宗幸雑記

 我が家の食卓、六人掛けのもの。
 子供が一緒の折はこの食卓が狭かったが、老夫婦ふたりの静かな? 暮らしの今、少しは広くなった筈なのに、なぜか狭い。

 食事以外に、新聞を読むのも、ミシンを使う作業台も、調べ物も、誰かが「壁塗り」と揶揄する化粧までも、ほとんどこの食卓をテーブル変わりに頼っている。

Photo_4  だから、椅子の周りにはミシンがあったりアイロンがあったり、食卓の上には読みかけの本や調べ物、整理中のファイルやノート、化粧品の箱まであって花盛りの有様。

 暮らしに必要な広さは、“ 座して半畳、臥して一畳 ” もあればいい、と読んだ覚えがある。
 余談だが、その後、“
天下とっても二合半 ” と続き、物に拘っても高が知れている、と戒める言葉だと勝手に解釈している。

 話を戻して、手を伸ばしたら届く範囲に必要な物があるこの状態は、まさに、“ 椅子に座して半畳 ” の世界だとひとり悦に入っている。
 そう、私にとって、少々オーバーだが、神聖にして侵されざるべき場所、早い話が居心地のいい場所なのである。

 考えてみると、好きな茶道も同じだ。
 一服の茶は、半畳の中に必要な道具を並べ、残り半畳に座して動作する。
 座して一畳の中で茶をたて、客は半畳の中で喫する。

 二畳の茶室を作った利休、対人関係の心理的な面を除けば、それが究極の空間だろうことは納得できなくもない。

Photo_3  お茶の席では、寒い時期にお客に暖かさを感じて頂く筒茶碗の季節も終わり、茶室の中にも道具組に動きがある。

 この20日過ぎには、炉の中の五徳を取り出し釣釜(写真上)の準備、炉の中の炭が熱く感じられる翌月20日前には透木釜に変わる。

 先人の言葉に共感しながら、そろそろ、その手順と日程を考えなければ・・・、と思いつつも、初めての春休みを前にしたR君に、「あそびましょ!」のメールを送ろうかなと、パソコンを食卓に置いてしまった。

 冬眠をしていた虫たちが穴から出てくる頃とされる啓蟄。                                                                                                     その翌日の稽古に S さんがお持ち下さった蕗の薹(写真下)、春がすぐそこにある。(

 皆水に浮きぬ手桶の蕗の薹 (星野立子)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 続・ボッティチェリ ‐ ウフィ... | トップ | 閑話休題 ‐ 朝まだき空港で »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宗幸雑記」カテゴリの最新記事