我が家の食卓、六人掛けのもの。
子供が一緒の折はこの食卓が狭かったが、老夫婦ふたりの静かな? 暮らしの今、少しは広くなった筈なのに、なぜか狭い。
食事以外に、新聞を読むのも、ミシンを使う作業台も、調べ物も、誰かが「壁塗り」と揶揄する化粧までも、ほとんどこの食卓をテーブル変わりに頼っている。
だから、椅子の周りにはミシンがあったりアイロンがあったり、食卓の上には読みかけの本や調べ物、整理中のファイルやノート、化粧品の箱まであって花盛りの有様。
暮らしに必要な広さは、“ 座して半畳、臥して一畳 ” もあればいい、と読んだ覚えがある。
余談だが、その後、“ 天下とっても二合半 ” と続き、物に拘っても高が知れている、と戒める言葉だと勝手に解釈している。
話を戻して、手を伸ばしたら届く範囲に必要な物があるこの状態は、まさに、“ 椅子に座して半畳 ” の世界だとひとり悦に入っている。
そう、私にとって、少々オーバーだが、神聖にして侵されざるべき場所、早い話が居心地のいい場所なのである。
考えてみると、好きな茶道も同じだ。
一服の茶は、半畳の中に必要な道具を並べ、残り半畳に座して動作する。
座して一畳の中で茶をたて、客は半畳の中で喫する。
二畳の茶室を作った利休、対人関係の心理的な面を除けば、それが究極の空間だろうことは納得できなくもない。
お茶の席では、寒い時期にお客に暖かさを感じて頂く筒茶碗の季節も終わり、茶室の中にも道具組に動きがある。
この20日過ぎには、炉の中の五徳を取り出し釣釜(写真上)の準備、炉の中の炭が熱く感じられる翌月20日前には透木釜に変わる。
先人の言葉に共感しながら、そろそろ、その手順と日程を考えなければ・・・、と思いつつも、初めての春休みを前にしたR君に、「あそびましょ!」のメールを送ろうかなと、パソコンを食卓に置いてしまった。
冬眠をしていた虫たちが穴から出てくる頃とされる啓蟄。 その翌日の稽古に S さんがお持ち下さった蕗の薹(写真下)、春がすぐそこにある。()
皆水に浮きぬ手桶の蕗の薹 (星野立子)
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