星野ジャパン 夕べはやってくれました。頑張れ!少々寝不足です。
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オリンピックが好きなのは父親譲りかもしれない。
ラジオで 途切れ途切れに流れるメルボルンオリンピックの頃から、「お前も聞け!」と聞かされた。
体操日本と言われ「鬼に金棒、小野に鉄棒」のキャッチフレーズを生んだ小野選手やそして、浜田出身の竹本正夫が活躍したのを覚えている。
中学二年生の時のローマオリンピックも、水泳の山中毅、そして同じ水泳で 浜田出身の福井誠選手の活躍を伝えるラジオにしがみついて、憧憬と興奮と、感動で聞いていた。
しかし なんといっても私の一番好きなオリンピックは高校2年生の時の「東京オリンピック」である。
くしくも先日 北京オリンピック前にテレビで放映していた市川崑監督の「東京オリンピック」のドキュメンタリー映画を見て益々その思いが強まった。
「記録か芸術か」で当時相当論争があったけど、女子体操のチャフラフスカなど「人間の表情と肉体の機微」といったらいいのだろうか、その映像は美しく素晴らしい。いやーホント実に いい映画なのです。今見てもつくづくそう思う。
そして 北京の夜空のもとで繰り広げられた絢爛豪華な一大映像ショーに目を見張りながらも、東京オリンピックの秋晴れの真っ青な空が素晴らしいと思えたのだ。
東京オリンピックの開会式はショーでなくて、「式典」だった。
国立競技場にファンファーレがなる。
聖火ランナーの坂井義則クンが長い階段を駆け上がり、聖火台に着火する。(白黒テレビにかじりついてみた当時を思い出す。)
青空に色とりどりの風船が放たれ、鳩が放たれ、航空自衛隊の飛行機が五輪のマーク描き出す、なんだかそれだけで 当時の私たちは夢と希望と、そして酸素を胸いっぱいに吸い込んだように新鮮な気分だった。
1964年、敗戦から19年目、大人たちはみんな、様々な形で戦争を知る人たちばかりだった。敗戦でボロボロになった日本が、アジアで始めてのオリンピック「平和の祭典」の開催地になったのだから、感慨もひとしおだったろう。
とその記録映画を見ながら私は思い、その一方でオリンピックの開催の為に町を壊してビルの解体作業の映像が流れると、当時でもそんな事が問題になってたんだ。
そういえば、私がオリンピックの翌年上京した時、父方の義理の兄が「近所のスーパーも高速道路に引っかかって立ち退き、大金が入ったらしい。」と話していたっけ。
「昭和30年代通信」の作者 永倉万治も言っていた。
トリニダード・ドバコなんて国はこの時初めて知ったと、そしてこの時ほどアメリカの国歌を聞いた事はなかった、とりわけ水泳におけるアメリカ選手は滅法強く、自由形のショランダーなどはこ憎らしいばかりだったと・・
そして オリンピック最終日 全国の不良少年も、思わず純情になってしまった。そして夕闇の降り立つ国立競技場の電光掲示板に浮かんだSAYONARAの文字に、胸がいっぱいになり、意味もなく、僕らは、ガンバロウと思ったのもだった。と・・
戦争を知らない私たち団塊の世代、平和の祭典が行なわれている真っ最中の今日 63回目の終戦記念日を迎える。
この日が来ると引っ張り出す本がある。
当時19歳の医学生だった作家の山田風太郎の「戦中派不戦日記」なのだが、
15(水)炎天
帝国ツイニ敵ニ屈ス。
ただこれだけなのだけど、これだけの短い文章の中に、当時の若者が滅びを知りつつこれからどうすれないいのか、不安と、それでも生きていかなければならない、自分たちがこの国を守っていかなければならない、そのような気概を感じるのだけど・・
このままずーっと戦争の悲惨さを伝えていかなければならない、それが私達の義務だと、痛切に感じるのです。
曇り 33℃
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ラジオで 途切れ途切れに流れるメルボルンオリンピックの頃から、「お前も聞け!」と聞かされた。
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中学二年生の時のローマオリンピックも、水泳の山中毅、そして同じ水泳で 浜田出身の福井誠選手の活躍を伝えるラジオにしがみついて、憧憬と興奮と、感動で聞いていた。
しかし なんといっても私の一番好きなオリンピックは高校2年生の時の「東京オリンピック」である。
くしくも先日 北京オリンピック前にテレビで放映していた市川崑監督の「東京オリンピック」のドキュメンタリー映画を見て益々その思いが強まった。
「記録か芸術か」で当時相当論争があったけど、女子体操のチャフラフスカなど「人間の表情と肉体の機微」といったらいいのだろうか、その映像は美しく素晴らしい。いやーホント実に いい映画なのです。今見てもつくづくそう思う。
そして 北京の夜空のもとで繰り広げられた絢爛豪華な一大映像ショーに目を見張りながらも、東京オリンピックの秋晴れの真っ青な空が素晴らしいと思えたのだ。
東京オリンピックの開会式はショーでなくて、「式典」だった。
国立競技場にファンファーレがなる。
聖火ランナーの坂井義則クンが長い階段を駆け上がり、聖火台に着火する。(白黒テレビにかじりついてみた当時を思い出す。)
青空に色とりどりの風船が放たれ、鳩が放たれ、航空自衛隊の飛行機が五輪のマーク描き出す、なんだかそれだけで 当時の私たちは夢と希望と、そして酸素を胸いっぱいに吸い込んだように新鮮な気分だった。
1964年、敗戦から19年目、大人たちはみんな、様々な形で戦争を知る人たちばかりだった。敗戦でボロボロになった日本が、アジアで始めてのオリンピック「平和の祭典」の開催地になったのだから、感慨もひとしおだったろう。
とその記録映画を見ながら私は思い、その一方でオリンピックの開催の為に町を壊してビルの解体作業の映像が流れると、当時でもそんな事が問題になってたんだ。
そういえば、私がオリンピックの翌年上京した時、父方の義理の兄が「近所のスーパーも高速道路に引っかかって立ち退き、大金が入ったらしい。」と話していたっけ。
「昭和30年代通信」の作者 永倉万治も言っていた。
トリニダード・ドバコなんて国はこの時初めて知ったと、そしてこの時ほどアメリカの国歌を聞いた事はなかった、とりわけ水泳におけるアメリカ選手は滅法強く、自由形のショランダーなどはこ憎らしいばかりだったと・・
そして オリンピック最終日 全国の不良少年も、思わず純情になってしまった。そして夕闇の降り立つ国立競技場の電光掲示板に浮かんだSAYONARAの文字に、胸がいっぱいになり、意味もなく、僕らは、ガンバロウと思ったのもだった。と・・
戦争を知らない私たち団塊の世代、平和の祭典が行なわれている真っ最中の今日 63回目の終戦記念日を迎える。
この日が来ると引っ張り出す本がある。
当時19歳の医学生だった作家の山田風太郎の「戦中派不戦日記」なのだが、
15(水)炎天
帝国ツイニ敵ニ屈ス。
ただこれだけなのだけど、これだけの短い文章の中に、当時の若者が滅びを知りつつこれからどうすれないいのか、不安と、それでも生きていかなければならない、自分たちがこの国を守っていかなければならない、そのような気概を感じるのだけど・・
このままずーっと戦争の悲惨さを伝えていかなければならない、それが私達の義務だと、痛切に感じるのです。
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