暖かな春のような長閑な午後、久しぶりに新川沿いを散歩してみた。
枯れた雑草の中に、密やかに咲いていた薄ピンク色の木瓜。よく目を凝らさないと見過ごしてしまいそうな、小さな蕾に思わずカメラを向けた。
これからの季節、色々な花は待ちきれずに咲き乱れ、美しい姿で人々を楽しませてくれる。
大輪でアピールする花は、時には美しすぎて、見る者の一切の注釈を拒絶するが、小さな花は、人が見ようと見まいと、凛としてすべてを完結しているように感じて私は好きだ。(写真をクリックしてくださいね。)
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私が子供の頃東京にいた話は何度もしたけど、この1月6日は私の一番下の妹が東京で生まれた日なのです。
でまたまた 私事で、人様には面白くもなんともない話しなのですが、私が話しておかないと、妹は永遠に自分の生まれた状況を知りえるすべがないので、プレゼントのつもりで、思い出しながらぽつぽつと書いていくね、そばかずちゃん。
昭和28年1月6日(火曜日)
その年私たち家族は、板橋のバラック屋でお正月を迎えた。
当時 何がなくても数の子だけはあったような気がする。そしてお煮しめも、
手綱こんにゃく、短冊切りにしたこんにゃくのタテに切れ目を入れて その中に端をくぐらせて手綱のようなかたちにする。その手伝いをさせられた思い出があるのだ。
雨が降ったり、雪が降ったりすると、遊ぶ路地は敷き詰めた石畳がぐらつき、石の下からぐちゅぐちゅと、泥が跳ね上がり面白がって二つ下の妹と遊びパンツを泥だらけにしてよく怒られた。
お正月気分も抜けないその日は雪だった。朝起きると 外は絵本のクリスマスのように白く雪に覆われた家々があり、スレートの屋根も波打って見えた。そして普段見慣れている景色と違って見えて、冬の日光は目に眩しかった。
お昼過ぎ、祖母は産婆さんを迎えに言った。
そして私たち姉妹にミカンを一つず渡して「外で暫らく遊んでおいで!」と家を追い出されてしまった。
雪の積もった外で、二人してしゃがんで 雪の上に絵を描いたり 雪だるまを作ったりして遊んだ。
「さぁさ お入り」といわれてやっと家に入れてもらったのは、3時過ぎだったと思う。
そこで「また女だよ。」と祖母が言ったのを聞いた。
その時 大きな色の黒い真っ赤な女の赤ちゃんを始めてみた。これが新しい家族なんだ、私はなんだか不思議なおもいで見つめていた。
父は男の子が欲しくて仕方がなかったらしい。お前が男の子だったらなぁと、事あるごとに 私に言っていたも覚えている。
それだけに今度こそは!と思っていたのだろう。
男の子の名前ばかり考えていたらしく、その落胆ぶりは目に余るものがあった。
狭い部屋で家族みんなで枕を並べて寝ていた時、ある夜目が覚めた私は、「そろそろ名前をつけなくてはならないよ。」と母。
「面倒くさいから昭和の和を取り“和子”でいいか?」
慌てて目をつぶり聞いてない振りしていたが、何か秘密を聞いたようでドキドキしたその会話を、今でもはっきり覚えている。
それで和子と名前がついた。
この話には後日談があり、それぞれ大きくなった時「どうして私の名前はつけたの?」と聞く事がある。
私の場合は、両親が朝鮮で結婚した時、近所にとても可愛くて、聡明な女の子がいたからその名前を貰ったと、そして、二番目の妹は、母方の祖父がつけたらしくて、父の母(つまり一緒に住んでいた祖母)の名前を一字とってつけたと、その問題の妹は、「みんなで仲良く和を保てるように平和の和から取ったんだよだよ。」と言った時、私は家族平和のために板橋の夜中の事は封印するつもりでいたけど、時効です。
そして、雪の昭和28年の冬は、ラジオ歌謡で高英夫の「雪の降る町を」が流れていた。その歌と雪の東京が本当にマッチして、今もあのメロディが流れると 昭和28年の雪の板橋を思い出すのです。
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