乙女高原ファンクラブ活動ブログ

「乙女高原の自然を次の世代に!」を合言葉に2001年から活動を始めた乙女高原ファンクラブの,2011年秋からの活動記録。

第21回乙女高原フォーラム

2024年01月21日 | 乙女高原フォーラム
 1週間ほど「大雪に注意」と天気予報に散々脅かされ続けましたが、結局、当日は暖かい雨。助かりました。イベントの当日に雨が降って、ありがたかったというのは、初体験だったかも。
 11:30にスタッフが集合して準備を始めました。会場の大会議室前のロビーに受付場所を作ったり、演台の準備をしたり、プロジェクターとスクリーンを設置したり。講師の岩科さんをお迎えし、交替でお弁当を食べて、準備をさらに進め、開会を迎えました。

 山梨市観光課長の土屋さんの司会で開会行事が始まりました。山梨市長の高木さんと山梨県峡東林務環境事務所長の深水さんからご挨拶をいただきました。お二人とも乙女高原の行事には必ず出席してくださいます。

 そして、植原がマイクをバトンタッチし、会を進行しました。まず、植原がパワーポイントを使いながら乙女高原ファンクラブの活動報告をしました。
 この中で一つ、訂正したいことがあります。それは乙女高原の気温測定についてです。2015年のデータが不備だったので、てっきり、「甲府で1m以上の大雪」の年だと勘違いしていまいましたが、大雪はその前年の2014年でした。乙女で気温測定しているデータロガーは「1時間おき」に設定すると85日つまり3ケ月弱連続で測定できます。「甲府で1m以上の大雪」があった2014年は、ちょうどうまい具合に85日間が大雪の期間中になったので、この期間もデータが取れました。一方、翌2015年もじつは結構な雪が降っていたのですが、この時は、データ回収・再設定のタイミングが悪く、1月~2月下旬までのデータが取れませんでした。ですから、スライドに出てきた「2015年が大雪のためデータが不備だった」というのは事実ですが、この大雪というのは「甲府で1m以上の大雪」のことではなく、その翌年のことで、誤解を産む表現になってしまいました。ご承知おきください。

 次に、井上さんからパワーポイントを使って訪花昆虫調査についての報告をしていただきました。
 乙女高原には春から秋にかけて100種類以上ものさまざまな花が咲きます。それらの花にどんな昆虫がきて、受粉をおこなっているのか、花と昆虫の関わりを調べるのがこの訪花昆虫調査です。乙女高原に鹿柵ができる前の2013年、麻布大学学生の加古さんがこの調査を行いましたが、鹿柵設置後にどのような変化が見られるか、また花と昆虫の関わりについて、麻布大学いのちの博物館名誉学芸員の高槻成紀先生のご指導の下、2020年から行っています。ぜひ多くの方に参加していただきたいと思います。花がきれいに咲くのも虫たちが一生懸命働いているからだと思うと、感動します。いろいろな花が咲いて、いろいろな虫たちがいる乙女高原の多様性、すばらしさを改めて感じる機会にもなります。今年も調査が計画されています。花や虫がわからなくても大丈夫。1回でも半日でも都合のつく範囲で大丈夫です。やってみませんか?とても楽しい調査です。ぜひ多くの皆様のご参加をお待ちしています。

 3番目に乙女高原フェローの今年度の認定者の発表と認定証・記念品の贈呈を行いました。乙女高原フェローとは「乙女高原が大好きな人」のことで、具体的には、乙女高原の活動に10回以上、参加された方です。お店のスタンプカードみたいなカードがあって、これにハンコを押していき、10個集まったら、あなたは乙女高原フェロー・・・というわけです。今回は奥平さん、篠原さんご夫妻、高槻さん、松林さんの5名が認定されました。代表世話人の角田さんが認定証を読み上げ、フォーラムにご出席の篠原さん夫妻に認定証と記念品のマグボトルをお渡ししました。ちなみに、これで乙女高原フェローは28人になりました。

 そして、いよいよ今回のスペシャルゲスト岩科 司さんのお話です。プロフィール紹介を日本高山保護協会事務局長の山本さんがしてくださいました。岩科さんのお話についてはメルマガ次号からご紹介しますので、楽しみにしていてください。講演後、岩科さんにはそのまま残っていただき、会場からの質問に答えていただきました。

 閉会行事では乙女高原ファンクラブ代表世話人の角田さんがお礼のあいさつをし、植原が諸連絡をして、司会の土屋さんが会をお開きにしてくださいました。
 会場を片付けたら、部屋を移して茶話会を行いました。20人ほどが残ってくださり、お一人お一人、一言ずつ、感想やご自分のお考え、活動などを話していただきました。こうして、第21回乙女高原フォーラムが無事終わりました。参加者は合計70名でした。
 受付に置いた「令和6年能登半島地震義援金」の募金箱には合計1万1千円が寄せられていました。後日、山梨市の義援金に加えていただきます。
 また、今回はなんと12名もの入会者がいらっしゃいました。ありがたいことだと思いました。
 個人的には・・・もうコロナも5類になったことだし、「打ち上げの懇親会、やりてー!!」と叫びたいところです(笑)。講師の岩科さん、スタッフの皆さん、本当にご苦労様でした。ありがとうございました。

岩科 司さんのお話

1 日本列島や乙女高原の植物の起源

※第21回乙女高原フォーラム(1月21日)で岩科さんがお話しされたことを植原が文字起こししました。内容は変えずに、言い回しを多少変えたところがあります。ですから、文責は植原にあります。

 ただいまご紹介いただいた岩科です。私、出身は山梨です。日川高校卒業までは山梨在住でした。母親は健在でして、今年102歳です。たぶん、今日参加された皆さんの中には、自分と同じころ日川高校に通っていた方がおられるんじゃないかと思います。私の一つ上に、もう亡くなられたプロレスラーのジャンボ鶴田さんがいます。一つ下には、今、日本大学の理事長をしておられる林真理子さんがいます。今、ラジオ深夜便という番組の第三月曜日「深夜便かがく部」というコーナーをもう6年近くやっています。ですから、ほとんどの人は私と初対面かもしれませんが、ひょっとすると、声だけは聞いたことがあるという方が、この中に1人か2人はいらっしゃるかもしれません。

 今日は「乙女高原の植物はどこから来たのか」というお話と「地球温暖化が植物も含めた、もちろん、人間も含めた自然界に、どんな影響を与えているのか」というお話をしていきたいと思います。「百聞は一見に如かず」ですので、写真をたくさん用意しました。写真を観ながら、理解していただければと思います。

 今、私たちが住んでいる日本という国に、どれくらい植物があるのかというと、被子植物・裸子植物・シダ・コケ、それらを含めて7,451種です。おもしろいのは、日本の植物の中で、どれくらいの植物が日本にしかないか(=固有種)ということです。7,451種の中の1,862種、すなわち25%が世界中で日本にしかない植物です。ということは、私たちが日ごろ見ている植物の4種に1種は世界中で日本にしかない植物です。
 ところが、悲しいことに、環境省が指定している絶滅危惧植物、レッドデータブックに載っている植物ですが、約1,770種あります。23.7%になります。ということは、私たちが日ごろ目にしている、日本にしかない植物も4種に1種ですが、残念ながら絶滅しそうな植物も、私たちのまわりにある植物の4種に1種ということです。
 日本の全植物7,451種というのがどれくらいすごい数字なのかというと、日本とだいたい同じ面積のイギリスに自生している植物がだいたい1,600種、南半球のニュージーランド、ここは地形も日本によく似ていますが、2,000種です。これらと比べると、7,451というのがどれくらいすごい数なのか、わかっていただけると思います。
 原因は、日本は北から南まで南北に長い国であるということ。気候帯は、一番北は北海道の亜寒帯から、一番南の沖縄の亜熱帯まであります。また、こんな国は世界に2箇所しかないと思いますけど、真冬に何メートルもの雪が降ります。この日本海側にたくさん降る雪によって、独特の環境が生まれていて、それに生える植物も独特です。また、私は今、高山植物保護協会の会長をやらせていただいていますが、こんな小さな国なのに、標高3千メートル級の高い山があります。これらのことが7,451種という植物を育んだ原因になっています。

 では、われわれの身の回りにある植物がどこから来たかということですが、いろいろあることはあるんですが、大きく分けると4つあると私は考えています。

1.地球が寒冷だった時代(氷河時代)に北から南下し、日本に分布を広げた植物
 地球の氷河時代は4回ありました。古い方からギュンツ、ミンデル、リス、ウルムです。一番新しい氷期がウルム氷期で、だいたい1万年ちょっと前くらいまでです。ですから、地球上にもう人類はいて、マンモスがいたころです。日本に北から来た植物は、その前に日本に来た植物もあるようですけれど、多くのものはウルム氷期に日本に来たと考えられています。
2.地球が温暖な時代(間氷期)に、南から北上し、日本に分布を広げた植物
3.日本がアジア大陸と陸続きだった頃に、偏西風あるいは動物(おもに鳥)に運ばれて日本に分布を広げた植物
4.意図的に、あるいは非意図的に人類によって日本に分布を広げた植物
 私たちが一番問題にしている植物、いわゆる帰化植物です。

 この中で、いわゆる高山植物と言われる植物、あるいは、乙女高原の標高では高山植物は見られませんけど、乙女高原のようなところの植物は、「1」か「3」、それから「4」で、「2」というのはほとんどないです。

 「1(氷河期に・・・)」の一つがヒオウギアヤメです。アヤメ科の植物です。アヤメには外花被と内花被が3枚ずつありますが、内花被がすごくちっちゃくなってしまって、一見、3枚の花びらがあるように見えます。ヒオウギアヤメはもともと北にあって、氷河期に日本までやってきた植物です。もともと北にある植物は周北極要素の植物と呼ばれます。シベリア、北欧、カナダと、北極のまわりに分布している植物です。ヒオウギアヤメは周北極要素の代表的な植物です。日本の植物図鑑を見ると、ほとんどの周北極要素の植物には「分布が中部地方以北」と書いてあります。これらの植物はもともと北にあって、日本に分布域を広げて来た植物たちであることがほとんどです。
 ゴゼンタチバナ。ミズキ科の植物ですが、周北極要素の植物で、北極の周りにぐるっと分布域があって、そこから日本の中部地方まで下がってきています。クロユリも代表的な周北極要素の植物の一つです。
 シラネアオイは、もともとはシラネアオイ科に分類されていましたが、新しい分類体系ではキンポウゲ科に属しています。現在の分布は大震災があった北陸地方から多雪地帯を通って北海道までの日本海側で、いわゆる豪雪地帯の植物です。どんな植物と近縁なのか、長い間わかりませんでした。日本にはこれと近縁の植物はなくて、最近、遺伝子の分析でやっとわかったのは、学名Hydrasis canadensisという植物がシラネアオイと一番近縁であることがわかりました。この植物は北米大陸のカナダを中心に分布しています。シラネアオイとHydrasis canadensisのもともとの起源は北極のほうにあって、片方は北米大陸、もう片方は東アジアに分布を広げてきて、それぞれがそれぞれに分化して、特有の植物になったと考えられています。
 キタダケソウは北岳の山頂付近の限られた場所にしか生えていない植物ですが、「キタダケソウ属」の植物となると、ヨーロッパ、中央アジア、ヒマラヤ、シベリア、日本などに十数種あって、いずれも分布は不連続で、局所的です。日本にはキタダケソウ以外に、北海道のアポイ岳だけに分布するヒダカソウ、同じく北海道の崕(きりぎし)岳にしかないキリギシソウがあります。残りの種はシベリアの方に生育地があります。カザフスタンからキリギスあたりに天山山脈というがあります。私が調査に行ったところ、そこにキタダケソウ属のCallianthemum alatavicumという植物がありました。種小名は「アルタイ山脈の」という意味です。花はキタダケソウによく似ていますが、葉っぱの切れ込み方はすごく複雑で、キタダケソウと違いました。もっと違っている点は、キタダケソウは北岳の一角に少ししかありませんが、こっちは、足の踏み場もないほどたくさんありました。絶滅危惧ではありません。氷河が削ったモレーンがあるようなところにありました。とても美しい景色のところだったんですが、クマが出る、オオカミが出る、テントは閉めておかないとサソリが入るといったところでした。ここで1ケ月間、テント生活をしました。

 「2(温暖な時代に…)」の代表選手の一つがグンバイヒルガオです。海岸の砂浜で見られる植物です。地球が温暖化したころに南から日本にやってきた植物というのは、たいがいは、たねの散布様式が海流散布といって、たねや果実が水に浮いて、海流に乗って日本に到達しました。もともと南にあった植物ですから、内陸の乙女高原のようなところには、こういう起源の植物はほぼありません。
グンバイアサガオのほかには、例えばハマアズキがあります。ゴバンノアシはまだ石垣島と西表島までしか到達していません。碁盤の足のような形の実がなります。まだ石垣島とかまでにしか到達していないので数が少なく、絶滅危惧種です。

 「3(日本がアジア大陸と陸続きだった頃に、偏西風あるいは動物に運ばれて…)」の植物たちは、北から来た植物たちと区別がなかなか難しいです。ですけれど、明らかに北から来たのではなく、陸続きだったころに中国の方から来たと考えられている植物としてアオキがあります。そのへんにいっぱい生えていますから、皆さんもご存知だとは思います。近縁種として日本にはアオキとヒメアオキしかありませんが、ヒマラヤに行くと、この仲間が何種類かありますので、陸続きだったころに日本に渡って来たのではないかと考えられます。
 ヤマブキは日本ではよく見かける植物ですが、分布はとても狭くて、日本と中国のほんの一角にあるだけです。一方、ヤマブキによく似たシロヤマブキは、ヤマブキとは起源が全然違っていて、中国の方に分布が広くて、日本には中国地方の一か所くらいにあるだけです。いずれにしても、中国大陸とのつながりがある植物ではないかと考えられています。両種ともバラ科の植物です。
 小さな、3cmくらいの花で、エヒメアヤメというアヤメ科の植物があります。これも大陸起源だろうと考えられています。日本では関東や関西にはなく、一番東で岡山や広島、あとは九州や四国に分布しています。牧野富太郎が愛媛県で発見したのでエヒメアヤメと命名しましたが、もともとタレユエソウという名前があったので、タレユエソウと命名すべきだったと牧野が記述しているらしいのですが、もう絶滅危惧植物に指定されていて種名の変更が難しいので、この名前になってしまいました。

 「4(意図的に、あるいは非意図的に人類によって日本に…)は一番問題です。例えばシャガヒガンバナです。皆さんよくご存じだと思います。シャガは古い神社など、ちょっと暗い場所によく生えています。これはもともと日本起源の植物ではなく、自生地は中国です。日本にいつ頃入ってきたかはわかりません。このようにいつかはわからないけれど、他所から日本に来た植物を史前帰化植物といいます。中国のものは2倍体ですが、日本のものは3倍体です。染色体は普通一対・二組ずつあります。これが交配のときに半分に分かれて一組になります。でも、3倍体だと、どうやっても半分に分かれることができません。ですから、受精ができず、タネができません。日本にあるシャガやヒガンバナはタネができません。なんで、こういう植物が入ってきたかというと、ガラス用品や陶器を運ぶ際の緩衝材、詰め物として使われ、それで日本に入ってきたのではないかと言われています。こういう経緯で日本にやってきた、皆さんに馴染みのある植物がありますよ。名前もそれらしい名前です。シロツメクサ、アカツメクサです。ツメクサは「爪」草ではなくて「詰め」草です。緩衝材として日本に入ってきたと思われます。別なケースとしては、家畜の餌として入ってきたかもしれません。
 セイヨウタンポポも典型的な帰化植物で、どこでも見られます。詳細な調査をしたら、セイヨウタンポポのほとんどは、センヨウタンポポと、関東ではカントウタンポポ、関西ではカンサイタンポポとの雑種ということがわかっています。こうなりますと、帰化植物そのものよりも厄介ということになります。
 オオハンゴンソウが一面に咲いている写真です。北海道で撮りました。この植物は法律で取り引き・栽培すべて禁止されています。外来種の中でも、動物は悪さをするじゃないですか。例えばカミツキガメは噛まれると痛いじゃないですか。だから、対処・処分しようと思うんです。でも、オオハンゴンソウなんか、きれいなんですよ。植物園協会の会長をやっていた時も「あったら抜いてください」と言い続けてきましたが、きれいなので問題です。放置しておくと、こんなにはびこってしまいます。こうなると、オオハンゴンソウの群落の中には日本の植物は一つもないです。
 アレチウリも厄介な帰化植物です。花はあまりきれいとは言えませんが、今、日本のちょっとした湿地に行くと、これがはびこっています。「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」の指定生物になっています。
 まだ規制の対象にはなっていませんが、きれいな花を咲かせる帰化植物ホテイアオイも放っておくと、あっという間に増えます。

 ここからは、乙女高原に馴染みのある植物を紹介します。
 まずブナです。皆さん、ブナを普通に見ていると思いますけど、じつはブナは日本固有種です。世界中で日本にしかないんです。ブナがどのように日本にやってきたかは、じつは、よくわかっていません。わかっていることは、ブナは地球上で日本にしかない植物であるということです。
 もっと、皆さんが普通に見ていて、日本固有の植物というと、スギです。スギも日本だけの植物です。だから、スギの花粉症になるのは日本人だけです。
 乙女高原でよく見る植物の一つにヤナギランがありますね。アカバナ科の植物です。分布は北海道・本州中部以北ですから、もともと北にあって、日本に分布を広げた植物です。実際、ヨーロッパに行っても、アメリカ大陸に行っても、まったく同じ植物があります。アカバナ科の植物で、皆さんがよく見る植物として、帰化植物のメマツヨイグサやヒルザキツキミソウがあります。
 クガイソウはもともとゴマノハグサ科に分類されていましたが、最近のDNAによる分類でオオバコ科になりました。オオバコ科は今まですごく小さな分類グループだったのに、今は、ゴマノハグサ科のほとんどがオオバコ科に入って、大きなグループになりました。クガイソウの分布は本州だけでなく、シベリア、ウスリー、朝鮮、中国東北部などで、おそらく北からやってきた植物です。
 ツリガネニンジンの分布は樺太、南千島、北海道から本州にかけてです。これも北から分布を広げた植物でしょう。ツリガネニンジンの仲間はヒマラヤでも結構見かけます。シベリアにもたくさんあります。特徴は、釣り鐘型の花を咲かせることと地下部に大きな芋があることです。
 タムラソウの分布はヨーロッパからシベリアにかけてで、日本では本州から九州までです。タムラソウの仲間の植物は、シベリア、天山山脈、中央アジアでたくさん見ました。どれもアザミによく似ていていますが、トゲがないので、さわっても痛くありません。キク科です。これも北から来た植物です。
 オタカラコウ、マルバダケブキの仲間はシベリア東部や樺太、中国、ヒマラヤ、日本では本州から九州にかけて見られます。乙女高原ではマルバダケブキがよく見られます。これらは北から来た要素が大きいと考えています。この仲間は、今、食害がたいへんになっているシカが食べない植物です。そんなに強い毒があるとは思えないのですが、シカが食べません。ですから、減少してないものが多いです。
 ハバヤマボクチは北海道にはなくて、本州の福島より南と九州にあります。よく似たオヤマボクチは中国中南部と北海道西南部、本州の青森から岐阜、それから飛んで四国に分布しています。この仲間は北から来た可能性がないわけではありませんが、おそらく日本列島がアジアと陸続きだったころに来た植物ではないかと私は考えています。というのも、これらに近縁の植物を、皆さんは野菜として食べています。それはゴボウです。ゴボウは根を食べますから、花を見たことのある人は少ないかもしれませんが、花を見るとハバヤマボクチやオヤマボクチに関係が近いことがわかります。私は軍用トラックを改造したバスで、シベリアからカザフスタンとかキルギスまで3,000km南下したことがありますが、その途中、「世界で最も内陸である場所」を通りました。東西南北どちらに行くにしても、海に出るまで5,000kmあるというところです。人工物といえば100km以上まっすぐな道路と、道路脇の送電線だけで、あとは荒地が延々と広がっています。もう一つだけ人工物が見えるのですが、それは夜になって夜空に見える人工衛星の光です。ここはセミパラチンスクという場所で、ここでテントを張ったのですが、旧ソ連が原爆実験をしていた場所です。こんな広い場所なので原爆実験が行われたのですが、地元のガイドに「原爆実験、どこでやったんだ?」と聞くと、西だか南だか150kmの場所でやってたんだと言ってました。帰ってきて、日本の原子力の専門家に聞いたら、「岩科さん、完全に被爆しています」と言われました。こんな場所にゴボウが生えています。
 アマドコロという植物は広い意味でユリ科です。北海道から九州にかけて日本全国にあります。この仲間は中国、朝鮮にもありますので、ヒマラヤの方から大陸を経て日本にやってきた可能性が強いと思います。
 ハクサンフウロや乙女高原にもあるタチフウロについて。タチフウロは日本では本州・四国・九州にあって、アムール、中国東北部、朝鮮にあります。それに似ているハクサンフウロですが、フウロソウの仲間ではタチフウロより分布域は広いと思いますが、分布は本州中部地方以北ですから、北から来たと考えられるフウロソウです。タチフウロがどちらから来たかは、この分布からは判断が難しいです。
 マツムシソウは細かく分類することができてしまうんですが、広義のマツムシソウの分布域は沖縄を除く日本全国です。マツムシソウ科を見ると、地中海沿岸から西アジアに多く分布しておりますので、おそらくマツムシソウ科の植物は西の方から日本にやってきたのではないかと思います。
 皆さんよくご存じのアヤメは日本では沖縄を除く日本各地にあります。あとは、シベリア東部、中国東北部、朝鮮半島に分布しています。これに近い植物は韓国から中国にかけていろいろあります。さきほど見ていただいたヒオウギアヤメは周北極要素といって北から日本に南下して来た植物だと思いますが、アヤメは西の方からヒマラヤ・中国を越えて日本に到達した植物の一つではないかと思います。
 キンポウゲ科のオダマキですが、乙女高原にあるのはヤマオダマキで、それよりもうちょっと高い高山帯で見られるのがミヤマオダマキです。日本にはオダマキの仲間は3種か4種しかありません。ヤマオダマキは沖縄を除く日本各地の山地で見られます。花全体がクリーム色のものからかなり赤味を帯びたものまで変異が大きいです。ヤマオダマキより高いところに行くと見られるのがミヤマオダマキで、私たちが栽培しているオダマキの原種だと思います。分布は本州中部と北海道、南千島、樺太で、私はシベリアで見ています。ヤマオダマキがそうかはわかりませんが、ミヤマオダマキはおそらく北にあったものが南下して来たのだと思います。
 ウマノアシガタ、別名はキンポウゲですが、どちらかというと雑草性の強いキンポウゲ科の植物で、分布は北海道西南部から九州・沖縄まで。海外だと中国、朝鮮です。北半球全体に広く分布していますので、ルーツを明らかにするのは難しいのですが、中国東部から来ている可能性の方が強いかなあと思います。
 リンドウの仲間では、乙女高原にあるのはリンドウです。リンドウは分布が広くて、本州から奄美大島まであります。よく似ているエゾリンドウは本州中部以北と北海道、千島、樺太に分布していて、おそらくリンドウの仲間全体が周北極要素の植物だと思われます。私たちが普通に栽培しているリンドウは、じつはリンドウの栽培品種ではなくて、原種はエゾリンドウかオヤマリンドウです。リンドウはてっぺんにしか花を付けませんが、そのほかはてっぺんだけでなく、その下の葉の付け根にも花を付けるんですよね。花をたくさん付けるんです。たいがいはオヤマリンドウの栽培品種です。
 リンドウは秋の花の代表選手ですが、フデリンドウは春の花です。リンドウよりはるかに背が低いです。分布域は北海道から九州、南千島、樺太、中国、朝鮮です。ミヤマリンドウは北海道に行くとたくさんあります。大雪山系・旭岳のふもと、ロープウェイの終点のところには、足の踏み場もないほど群生しています。ミヤマリンドウの分布域は本州中部以北から北海道ですから、北から来た植物だと思います。
 秋の七草のひとつオミナエシはオミナエシ科です。日本では北海道から九州、そのほかシベリア東部、中国、朝鮮に分布していますから、北から来た植物ではないかと思います。
 日本のウスユキソウの仲間で一番きれいだと言われているのは、蛇紋岩で有名な岩手県の早池峰山に生えているハヤチネウスユキソウで、これは世界で早池峰山にしか生えていません。ハヤチネウスユキソウに一番似ていると言われているのがヨーロッパのエーデルワイスです。皆さんの年代だともちろん知っておられると思いますけど、映画「サウンド・オブ・ミュージック」で流れたのが「エーデルワイス」という曲です。ヨーロッパでエーデルワイスの仲間というと、このエーデルワイス1種だけです。一方、日本にはウスユキソウの仲間が10種類くらいあります。その中でウスユキソウが一番分布が広いです。ウスユキソウの仲間がたくさん見られるのはヒマラヤ山脈です。ですから、分布の中心、もともとこの仲間が生まれたのはヒマラヤ山脈で、大陸伝いに日本にやってきて、日本の山地に定着したのではないかと思います。
 ノコギリソウの分布は日本では本州から北海道、外国ではシベリア東部、カムチャツカ、アリューシャン、北アメリカと、むちゃくちゃ広いです。ヨーロッパに行っても、ちょっとしたところにノコギリソウはいっぱいあります。アメリカに行ってもあります。シベリアに行ってもです。これは間違いなく北から日本に来た植物です。そんな中で、エゾノコギリソウというのは、ノコギリソウより花びらがいっぱいあって、きれいに見えます。分布は本州中部以北と北海道、シベリア東部、カムチャツカ、千島、樺太ですから、ノコギリソウの仲間はみんな北から南下してきた植物と言えます。
 シモツケとシモツケソウは名前も雰囲気も似た植物ですが、シモツケソウの方は分布が本州の関東以西と四国、九州の太平洋側ですから、これはもう典型的で、大陸から来た植物と言えます。
 コオニユリの仲間はどれも美しい花を咲かせますから、好きな方が多いんじゃないかと思います。コオニユリそのものの分布は沖縄を除く日本中と中国東北部、朝鮮です。コオニユリによく似ていて、私たちが栽培するオニユリという植物があります。このオニユリは古い時代に中国から渡来したというのが有力な説で、おそらくコオニユリなども大陸に沿って渡来した植物だと思います。オニユリについては、本来の分布が日本にあったかどうかも疑われていて、シャガやヒガンバナと同じく、史前帰化植物の仲間かもしれません。
 木本のズミです。沖縄を除く日本全国にあります。ズミの学名は、Malus toringo(マルス トリンゴ)と言いますが、トリンゴはコリンゴがなまったもので、小さなリンゴという意味です。ズミはリンゴの仲間(マルスがリンゴ属)ですから、コリンゴがヨーロッパに伝わったときに、よくあることなんですが、日本の発音を聞いたままに書いてしまっで、こうなったんだと思います。ズミの実は鳥が大好きですから、鳥が実を食べて、どこかにたねの入った糞をすることで、分布を広げてきたので、どこからどう来たかはよくわかりませんが、大陸に起源をもっているんではないかと思われます。
 ニガナもウマノアシガタと同じく雑草性が強いですよね。乙女高原にも咲いていますが、日本全国のいたる所にいっぱい生えています。ニガナの面白いところは、単為生殖をするところです。単為生殖とは、交配しなくても、つまり、めしべの先に花粉が付かなくても、実ができることです。ニガナは単為生殖できるので、どんどん増えてしまいます。そうしたことから、雑草として捉えられてしまいます。皆さんが食べている果物の中にも単為生殖をしている植物があるんですよ。それはイチヂクです。イチヂクは花粉がなくても実がなります。イチヂクの仲間の野生種はどうやって花粉が運ばれると思いますか。私たちがイチヂクの「実」と呼んでいるのは、じつは実ではなく「花托」と呼ばれている部分で、花托の内側に花が咲きます。イチヂクをよく見ると、先端にちょこっと穴が開いていますね。穴からイチヂクコバチというハチが入るんです。このハチは中で繁殖するんです。中で卵を産んで、孵った幼虫がイチヂクを食べて大きくなり、蛹を経て成虫になると、メスのハチだけイチヂクの外に出るんです。オスは中で死んでしまうんです。イチヂクの仲間は世界に何百種もあるんですけど、みんな、それぞれの種に対応したそれぞれのイチヂクコバチがいます。イチヂクはイチヂクの種類が違うと、イチヂクコバチの種類も違ってしまうんです。日本のイチヂクはもともと中近東にあったものです。日本で栽培しても、中近東のイチヂクコバチは日本にはおりません。そこで、人間がイチヂクを品種改良して、単為生殖能力のある個体を選抜したので、日本の栽培イチヂクは、花粉がなくても花が咲けば勝手に実がなるものだけになったんです。

 【乙女高原の植物たちのまとめ】
・乙女高原の植物はだいたいのものが北方起源のものですが、これらは、もともと北にあった植物ですから、暑さに強いわけがないんです。暑さに弱いので、温暖化が進めば絶滅あるいは減少の危機があります。
・これまで寒かったがゆえに侵入できなかった植物がたくさんあります。特に雑草性の強いものです。温暖化が進むと、こういう植物が入ってこれるようになってしまいます。平地の植物あるいは外来植物が入って来て、本来の植生をグチャグチャにしてしまうということが起きてしまいます。


2 地球温暖化と植物の未来

 ここからは、まったく話か変わります。温暖化の話です。温暖化と植物についてどんな話をしようかと考えた時に、まっさきに頭に浮かんだのがキリマンジャロでした。
 私は2017年にキリマンジャロに行きました。それまでも年間に5~6回、海外に行っていましたが、学会か調査のためで、自由に動き回ることができませんでした。定年退職したら、年に1回は海外の山に登ってやろうと思いました。最初に選んだのがキリマンジャロです。選んだ理由は単純です。アフリカに行くのなら、アフリカの一番高い所に行ってやろうということです。キリマンジャロは標高5895m。6000mにちょっと足りないくらいです。世界三大有名山岳というのがあるらしくて、エベレスト、富士山、キリマンジャロだそうです。
 
 キリマンジャロの登山口は標高1600mです。そこから、途中で高度順応しなくても2泊か3泊、高度順応した場合は4泊かけて標高5895 mの頂上を目指します。
 キリマンジャロは赤道直下にありますから、登山口付近は熱帯雨林です。木々にはコケや地衣がいっぱい付いていて、うっそうとしたジャングルが広がります。平地には、大きなバオバブの木も見られます。ツリフネソウ類の花も見ました。ホウセンカの仲間ですね。日本のツリフネソウといえば、ツリフネソウ、ハガクレツリフネ、キツリフネの3種しかありませんが、世界にはこの仲間が結構たくさんあります。「こんなきれいなツリフネソウはないな」と思って写真を撮りました。キリマンジャロ周辺固有の植物でImpatiens kilimanjariという学名が付いています。緋色のスカーレットのツリフネソウです。こんな植物がキリマンジャロ麓の熱帯雨林で見られました。
 3000~3600 m付近になると灌木帯になります。富士山と同じくらいの高さですが、ここは赤道直下ですから、この標高でも灌木景観です。灌木帯には、たとえばジャイアントセネシオというキク科植物が生えています。高いもので背丈は3mくらいになります。この仲間は日本にも雑草でいっぱいあります。ジャイアントセネシオは3000~3600 m付近のかん木帯のどこにでもあるわけではなく、川が流れているようなところにあります。要するに水が得られるようなところです。1~2mくらいの背丈のジャイアントロベリアという植物もあります。サワギキョウの仲間です。見た目はまったく違いますが、花の形を見るとサワギキョウにそっくりです。このような植物が灌木帯の中にポコポコと生えています。
 さらに登って4500m付近になると、砂漠景観が広がっています。ここまで来ると、生えている植物はPentaschistis minorというイネ科植物のみになります。乾燥地帯ですから、そもそも植物が生えられるような環境ではありません。このような環境にも耐えられる植物はこれ一種のみだと思います。
 頂上に立つと、麓は熱帯ですが、ここは-10℃、寒いです。稜線上を登ると、キリマンジャロの雪が見えます。赤道直下なのに、氷河があるんです。私が5700~5800mの稜線で見たのは5mくらいの高さの氷河でした。キリマンジャロの氷河は1912年から2007年までの95年間で85%が消滅し、遅くとも2033年には完全に消滅すると予想されています。
 ところが、頂上の温度というのはここ何年かで劇的に上昇してはいないんだそうです。氷河が無くなる理由は「温度が上がるから」ではありません。今の世界の環境を見てもわかる通り、温暖化が進むと、今まで起きなかったような大雪・大雨が降るか、とんでもないような乾燥化が起きます。キリマンジャロでは、温暖化に伴って生じる乾燥化によって、雨(雪)が降らず、その結果、氷河が無くなっているのだそうです。
 さきほど見たジャイアントセネシオはキリマンジャロとケニア山くらいにしかない植物ですが、生えている場所はちょっとした湿地、川が流れているような所です。氷河が無くなり、川に水が供給されなくなると、絶滅してしまいます。キリマンジャロでは、温暖化に伴ってこのような現象が起きています。

 2019年、インド北部の山に行こうと思い、インド北部出身のアメリカの研究者仲間に「今度、あなたの故郷に行くよ」とメールしたら、すぐに「あそこはとてもナイーブな土地で、危ないからやめろ」と返信がありました。インド北部のさらに向こうはパキスタンで、インドとパキスタン間にはまだ国境がありません。あるのは国境ではなく、停戦ラインです。つまり、今も戦争状態です。私が行こうとしていた場所は特に複雑で、中国領からは仏教徒が、パキスタン側からはイスラム教徒が入ってきます。インドは元々ヒンズー教です。3つの宗教が混じりあっていて、非常に危険です。
 ここにあるストック・カンリという山に登りました。標高6153 mの山です。それまで6000mを越える山は登ったことがなかったので、この山を選びました。さすがにこの歳だと7000とか8000mだとハードルが高いので目標を6000mにしました。4900mのベースキャンプから稜線に出て、稜線の上を歩いて山頂を目指しました。夜の10時にアイゼンやピッケルを持ってベースキャンプを出発し、エベレストに5回登ったという地元のガイドとザイルを結んで登りました。頂上に着いたのは朝の10時、ベースキャンプに降りたのが午後4時ですから、標高差1200mを16時間かけて登って降りてきたことになります。さすがにこの時は、テントに着いて、物を持とうとしたら、力が入らずに、物がストンと落ちてしまいます。「これはもう休まなきゃだめだ」と思って、そのまま寝てしまいました。「さすがに6000mを超える山は、簡単に上れる山ではないなあ」と思いました。
 この山も乾燥地帯にありました。4000m付近では、渓谷の真ん中に川が流れていて、川に沿う形で登山道が付けられていて、ベースキャンプまで登っていきます。こういうところには植物はほとんどありませんが、川沿いではいろいろな植物に出会えました。たとえば、Geranium himalayenseというフウロソウです。乙女高原でいうとタチフウロですね。花の大きさが5cm弱くらいです。フウロソウにしては、本当に大きくて、きれいです。名前にヒマラヤが入っていて、ヒマラヤ山脈でよく見られる植物です。Rosa webbianaというバラ科植物は、日本でいうとタカネバラに似た花です。ゴマノハグサ科のLancea tibeticaも咲いていました。一見、なんの仲間かわからなかったのですが、後で調べたら、こんな学名の植物でした。
 こういうところには、きれいな花を咲かす植物ばかりではなく、イラクサ科のUrtica hyperboreaという植物もありました。植物体のいたるところがトゲだらけで、このトゲは刺さるだけでなく、毒もあります。ですから、刺されると本当に痛いです。この谷には家畜が入ってきますが、この植物は絶対に食べません。ガイドにも「これだけは絶対にさわるな」と言われます。イラクサということで思い出すのは、パプアニューギニアに行ったときのことです。市場に行ったら、売ってるんです、イラクサ科の植物を。何に使うか聞いてみたら、肩に貼って、肩こりを治す薬だそうです。これを肩に貼ったら、とんでもないだろうなと思いますが。
6000m近くになると、植物がどうこうという世界ではありません。ガイドとザイルで結ばれずに滑落したら、たぶん1000mくらい落ちて、間違いなく死んでしまうような所です。そうなると、たぶん、遺体の収容はされないでしょうね。頂上に立つことができました。
 ストック・カンリ山はベースキャンプより上は氷と雪の世界でしたが、ここも環境の変化が進んでいました。私たちが行った年はたまたま雪が多くありましたが、話を聞いたら、前の年は雪がまったくなくて、頂上に登るのに苦労したそうです。雪があるとアイゼンとストックで登れるので、登りやすいんです。雪がないほうがかえって大変です。
 ここでも、植物は流れている川の水分を利用して生きていました。ですから、山の上の氷河が無くなってしまえば、当然、供給される水も無くなり、それらの植物は絶滅していきます。ああいうところは夏の間は、地元の人たちが家畜を連れてきて放牧します。植物が無くなれば、家畜の餌も無くなります。温暖化が進むことで、植物はもちろん、まわりまわって人間にも影響が現れるということです。

 このように、地球温暖化が進むと、積雪量の減少から乾燥化・砂漠化が起き、積雪からの水分を糧にしていた植物たちがなくなりますが、反面、乾燥化・沙漠化が進むと、とんでもない水害が起きることもあります。水害による環境破壊も起きてしまいます。このように、温暖化が進むと、相反した悪影響が生じます。
 また、温暖化によって、これまで侵入できなかった動植物が侵入できるようになり、生態系の破壊を産むことになります。先ほど、日本の帰化植物の話をしましたが、現在は交通機関が発達していますから、人は地球上のどこへでも行くことができ、今までだって、人の往来があると、人の服に付いていたり足に付いていたりしたり、あるいは家畜の餌にまぎれて、外来植物は入ってきましたが、今は本当にたくさんの植物が入ってきたり、逆に日本から海外に出てしまったりしています。
 そんな外来植物の9割9分までは、新たに入ってきたとしても、新たな生息地はもともとその植物の生息環境とは違うわけですから、いずれは絶滅します。ほんの一握りの植物だけが繁殖に成功します。その植物の自生地であれば、その植物を食べる動物やその植物に寄生する菌類がいるので、その植物が大繁殖することはないのですが、たまたま、新天地で繁殖できれば、そこには敵がいません。菌もいません。ですから、異常繁殖してしまいます。外国から入ってくることに成功する植物はほんとうに少ないのですが、ひとたび入ることに成功すると、オオハンゴンソウのように爆発的に増えてしまいます。

  【全体のまとめ】
 18世紀半ばから19世紀にかけて産業革命が起こりました。人類はそれまで農耕生活を送っていたわけですが、工業の発展によって、環境が急激に変化しました。産業革命から今まで、せいぜい200年経つか経たないかくらいなのですが、この間に、それまでの地球の歴史の何千年分もの環境の変化をもたらしてしまいました。あまりにも環境の変化が早すぎて、生物、特に動植物は環境変化に適応できません。
 生物にはときどき突然変異が起こります。でも、突然変異によって生まれた生物の性質は、その時の環境に適しておらず、絶えてしまうことがほとんどです。でも、たまたま、環境の変化が起きていると、突然変異によってその環境に適した性質を持つ個体が生き残って、やがて新たな種になることがあります。これまでは、地球の環境が少しずつ変化し、それに従って、動植物も少しずつ姿かたちを変えていって、今日の地球に至っています。植物についていえば、乾燥地帯から、山の上から、湿潤な熱帯地域から、水の中から、現在の地球上のすべての植物を合わせると、30万種あるといわれています。地球環境が少しずつ変わっていって、それに合わせて少しずつ変わっていき、30万種です。
 ところが、このわずか200年の間の急激な環境変化には、動植物はついていけません。特に世代交代の時間が長い動植物であればあるほど、突然変異の起きるスパンが長いですから、環境の変化についていくのが難しくなります。環境の変化に一番ついていきやすい生き物は、ウィルスと菌類です。コロナ・ウィルスを思い描きますが、ウィルスを生物と言っていいかという課題もあります。ウィルスと菌類は1日に何世代も世代交代が起きています。スパンが短いので突然変異も多く、あっという間に環境に適応してしまいます。抗菌剤をつくっても、あっという間に耐性菌が出てくるのは、世代交代が早く、その分、突然変異も生じやすいからです。

 特に、高山植物は現在でも稜線に近いところに生育しています。世界の一番上にいるわけです。日本で植物が生育している一番高いところは北岳の3100mです。これらの植物は、これ以上温暖化が進むと逃げ場がなくなってしまいます。あとはもう、この世から消えてしまうしかありません。

 人類も含めた動物は、すべてエネルギーを植物に依存しています。生物学では、葉緑素を持っている植物は独立栄養生物といいます。緑の植物は、お日様の光をエネルギーに、二酸化炭素と水を原料にして栄養素を作ることができます。それに対して、人間を含めた動物は従属栄養生物です。自分で栄養を作ることができない生物です。自分で栄養を作れないので、栄養を作れる植物を食べて栄養とするか、植物を食べた他の動物を食べて栄養とするかしないと生きていけません。ですから、人間を含めた動物すべては、植物がないと生きていけません。
 現在、私たちが使っている衣食住全部含めて、もともとの植物をたどれば、野生の植物です。野生の植物から、人間が知恵を使って、人間が利用できる植物をつくってきました。
 その中には、地球上の生き物の中で、人間だけが行っている植物の使い方もあります。それは、「植物をながめることによって心を癒す」という使い方です。これは人間だけがやっていることです。サルが花を見てうっとりしたという話は聞いたことがありません。
 野生の植物がなくなるということは、私たち人間が、自分自身の首を絞めていることになりはしないかと思っています。

 最後です。地球の環境を破壊したのは人類です。だけど、それを修復できるのも人類・・・だと信じます。
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第20回乙女高原フォーラム「生態系スチュワードシップで草原を守る」鷲谷いづみさん

2023年01月29日 | 乙女高原フォーラム

 3年ぶりの乙女高原フォーラムでした。一昨年はコロナのため、かなり前に中止を決めましたが、昨年はちらしを印刷し、配り始めたタイミングで中止判断をしました。忙しい中、準備に費やした労力を返してくれ!!と言いたくなりました。でも、コロナ相手ではどうしようもありません。ゲストをお願いした鷲谷さんには中止・延期・・・中止・延期で3年間もお待ちいただきました。「3度目の正直」です。お待ちくださり、ありがとうございました。

 さて、フォーラム当日はとてもいい天気でした。11:30にはスタッフが集まり、準備を始めました。市・県・ファンクラブ合わせて21人もの方がスタッフとしてフォーラムを支えてくださいました。ありがたいことです。


 13:00からフォーラムの開会行事が山梨市観光課長・土屋さんの司会で始まりました。山梨市長・高木さん、山梨県峡東林務環境事務所長・伴野さんのあいさつに引き続き、ファンクラブ・植原がフォーラム開催についての説明と、鷲谷さんのプロフィール紹介をしました。いつものフォーラムだとファンクラブの活動報告などもしていたのですが、コロナ対策として開催時間を短くするために割愛しました。とはいえ、「草原の里100選」に選ばれたことは報告しておきたかったので、そんな話をしていたら、長くなってしまいました。そして、いよいよ鷲谷いづみさんのお話が始まりました。

(文意を変えないよう注意しながら、分かりやすいように少し表現を変えたところがあります。文責は植原にあります)


○鷲谷いづみさん 「生態系スチュワードシップで草原を守る!」○


・乙女高原ファンクラブについては二十何年前から存じ上げていました。東大にいた頃、こちらにお世話になってマルハナバチの研究をした学生がいました。ただ、なかなか接点がなく、こうやってお顔を合わせることがありませんでした。フォーラムの講師としてお声を掛けていただいたわけですが、コロナ禍の中で中止・延期が続いて、今日が「三度目の正直」です。張り切ってお話をさせていただきます。

・タイトルを見て、「何のことだろう」と思われるかもしれません。聞いたことのない言葉だと思います。「生態系スチュワードシップ」という言葉を覚えておく必要はありませんが、今、世界で自然環境を守ろうというときに、どんなことが話題になっていて、どんなことを重視しながら活動しているのか、そういう広い範囲での環境保全活動のための考え方をいくつかご紹介していきます。

●今日の話の流れです。
1. 地球環境保全をめぐる科学的認識と政策の今
・国際的にも国内でも重要なテーマになってきている地球環境保全への科学的な認識がどうなっているかと、それに基づいて国際的には政策が決められるわけですが、どんな国際的な政策が出てきているかというお話を、いくつかキーワードをお示ししながらお話をします。

2. 生態系スチュワードシップのルーツと草原
・生態系スチュワードシップという言葉は最近使われるようになってきたのですが、その精神はもう20世紀の初めくらいからあって、西洋における自然再生の取り組みを支えてきた倫理であり、思想です。その中で、草原がとても重要な場になっているので、そのことをお伝えしたいと思っています。
・私は生態学の研究をしておりますが、生態学の根本に生態系スチュワードシップがあったのですが、生態学が発展する中で忘れられている側面もあります。私は保全生態学を1990年代から重視し、それが日本でも発展するようにしたいと思ってきたのですが、保全生態学って、考えてみると、生態学の本流なんです。
・草原が人類にとって、今の皆さんにとってどのように重要なのかを話の全体の中で伝えていきたいと思います。

3. 自然再生推進法にもとづく「自然再生」と市民科学
・多様な主体が協力しながら自然環境の保全や劣化した生態系を取り戻していく活動が、世界中で展開されていますが、それは何か一つの市民団体だけがやっているとか、国だけが、地方自治体だけがやっているというわけではなくて、研究者も関わりながら、協力のもとで実現しています。日本にはそれを支える「自然再生推進法」という法律があります。それに基づく、いい形での自然再生事業も各地で行われております。その事業にはどんなメリットがあるのか等をご紹介します。

 


●1-1 人新世と環境危機の科学的評価

・人新世(ひとしんせい あるいは じんしんせい)という言葉は、今や地球環境に関する文献を読むと、必ず出てきます。人新世は地質時代の名称の一つです。今の地質時代は完新世です。今から1万年前に始まりました。環境が安定しているのが特徴です。極の氷から空気を抜いて、過去10万年前から今までの温度環境の変化を調べてみると、それまでには氷河期が何度もあったりしたんですが、1万年前からグラフの上下動が極端に少なくて、比較的温暖で、安定した気候が続いていることが分かります。これが完新世です。完新世は安定環境なので、農業が可能でした。来年のことが予測できないと農業は成り立ちません。そして、文明の発展が促されました。

・ところが、今、温度がどんどん上がってしまっています。これが人新世です。人間の活動がもたらした、変動する環境です。かつては恵み豊かなシステムで、来年どうなるか予測もしやすかったのに、今はとんでもない、今までなかったような災害が起こるようになっています。たいへん厳しいシステムになってしまいました。それが地球の現状です。

・地球環境の現状を、温度以外のいろいろな面から明らかにするために、地球の限界を定めて、今、何がどの程度になっているかを評価する研究が行われました。その代表的なもので、いろいろなところに引用されているのが、ロックストロームら29名の科学者が地球の限界がどういうものかを検討し、それと現状とを比較・評価した研究です。

・2009年の『ネイチャー』誌に発表されたものを見ると、安全限界を大きく超えているのが「生物多様性の危機」でした。絶滅種と絶滅危惧種の数で評価しています。「気候危機」も超えています。これは分かりやすくて、二酸化炭素濃度や温度の上昇が指標になっています。

・「窒素の循環」も超えています。窒素が多くなりすぎているんです。なぜかというと、空気中の窒素を固定して肥料を作って、農地にまいているからです。半世紀の間に、生物が利用できうる窒素量の2倍以上になっています。あちこちで、栄養過多の問題が起きています。現代の農業がおもな原因です。伝統的な、家族で行うような農業から、工業的な、大規模な農業になりました。ヨーロッパ諸国が植民地を作って、そこでプランテーションを作って、自国で消費するものを作らせるようになったことがルーツです。地元の人がその地に合ったやり方で生産するというやり方から、他の国で消費するために、環境に配慮なく生産するようになったことで、肥料由来の窒素が増えているのです。これを見ると、農業の在り方も考えないといけないということが判ります。

・日本では関心があまり高くないのですが、化学物質による問題って実はとても大きいものです。出生率にも大きく影響している可能性があります。いろいろな問題が起きていますが、評価ができないのです。あまりにたくさんの化学製品が使われて、環境中に放出されているので、その中のごく一部しか評価できていないのです。ですから、この項目は「未評価」になっています。

・いずれにしても、地球の限界を超えているということは、環境に関心があって、科学的にそれを理解しようとする人の共通認識になってきました。


●1-2  SDGsとドーナッツ経済モデル

・様々な指標が地球の限界を超えている現状の中、人類の持続可能性、地域の持続可能性を考えると、環境の問題は無視することはできません。そこで、SDGsの中にも環境の目標が取り上げられています。

・SDGsは一つ一つの目標をバラバラに取り上げればいいというものではありません。いろいろな問題・目標を統合して解決していかなくてはなりません。乙女高原ファンクラブは自然環境の保全に取り組んでおられるので、この場には生物多様性の保全や気候変動への対策に関心のある方が多いと思うのですが、それを社会の諸課題と連携させて実践を作っていくことが重要です。国連のSDGsはそんな意味を持ったものです。

・地域の自治体が実践していく上で、それを導く経済的な理論として「ドーナッツ経済モデル」があります。英国の女性経済学者ケイト・ラワーズが提案しています。

・ドーナッツの外側には地球の限界を踏み越えている問題が描かれています。「気候変動」「生物多様性の喪失」「窒素・リンの付加」「土地利用転換」が挙げられています。土地利用転換とは、里山的な土地がそうでない土地へと変わっていることで、熱帯雨林がパームヤシのプランテーションに代わっていることが国際的には一番関心がもたれています。このドーナッツの外へは踏み越えてはいけないのです。

・ドーナッツの内側には人間の尊厳に欠かせない食料・水・健康・教育・働き方・人としての平等な扱いなどの不足を書いています。ドーナッツの内側にも踏み込んではならないのです。

・ドーナッツの外にも内にも踏み出ないで、ドーナッツの中だけでの暮らし・経済を目指そうという経済モデルです。成長よりも本当の豊かな暮らしと持続可能性を追求するのが新しい地域づくりの理念であるというモデルです。2020年4月、オランダのアムステルダム市はポストコロナ経済回復に向けた都市政策にこのモデル採用を宣言しています。


●1-3 生物多様性条約とポスト2020世界生物多様性枠組み

・国際的な環境保全に関する条約ができたのは1992年の国連環境会議(地球サミット)で、ブラジルのリオデジャネイロで行われました。生物多様性条約と気候変動枠組み条約が採択されたのですが、この2つは「地球環境保全のためのふたごの条約」と言われています。

・生物多様性条約について確認しておきます。この条約がめざしているのは、(1) 生物多様性の保全、(2) 生物多様性の構成要素の持続可能な利用、(3) 遺伝資源の利用から生じる利益の公正で衡平な配分・・・の3つです。(3)は発展途上国の関心が高いです。遺伝資源を先進国が持っていって利益を上げるけれど、その資源を持っていた国には何の恩恵ももたらさないという問題があります。

・条約ができたときには「生物の多様性(biological diversity)」という言葉でした。今では生物多様性(biodiversity)という言葉が広く使われています。アメリカのウィルソンという研究者が作った言葉です。ウィルソンはアリの研究者で、最近亡くなられました。日本でも生物多様性という言葉が広く使われています。

・条約の第二条に生物多様性の定義があります。「生命にあらわれているあらゆる多様性」です。これでは分かりにくいので「種内の多様性(遺伝的多様性)、種の多様性、生態系の多様性を含む」という注釈がついています。これらすべてが今、急速に失われつつあります。

・「種内の多様性」というのは地域によって違うということも含まれます。皆さんはホモ・サピエンスですが、アフリカのホモ・サピエンスとはちょっと違います。ここには山梨市の方が多いと思うのですが、同じ地域でも1人1人違いますよね。背の高さも顔も心意気も。全部、生物多様性の「種内の多様性」です。こういうことはふだんあまり認識されませんが、種内の多様性があって、はじめて、生物は環境の変化に応じて進化することができます。進化の可能性を保証しているのも種内の多様性です。

・「種の多様性」は一番分かりやすいです。多様な種がいれば多様性は高いということはなんとなくわかるんですけど、重要なことは、それらの間に多様な関わりがあるということです。種の多様性というと、一つ一つ独立した種があると考えがちですが、そのつながりの多様性をも大切にすることが肝心なんですね。

・「生態系の多様性」は、森があり・・・、草原があり・・・、里があり・・・っていうことです。そこにはいろいろな生物が住んでいます。それぞれの生きものに特有な生息(動物)・生育(植物)環境(ハビタット)を提供してくれています。

・生物多様性条約は10年ごとに目標を決めて、締約国が努力していますが、目標達成の失敗が続いています。2010年に日本(名古屋)で第10 回の締約国会議(=COP10)が開催され、「2010年までに生物多様性の減少スピードを顕著に減少させる」という2010年目標を「おおむね失敗」と評価さぜるをえませんでした。

・また、COP10では新戦略計画「愛知目標:2020年までに実現すべき20の目標」を決めました。例えば、目標1は「遅くとも2020年までに、生物多様性の価値と、それを保全し持続可能に利用するために可能な行動を、人々が認識する」でした。残念ながら、これらも2020年から続く生物多様性に関する会議で「おおむね失敗」と評価せざるをえなくなっています。

・そこで、今度は「ポスト2020 世界生物多様性枠組み」が話し合われています。議論の結果、去年の12 月、「昆明・モントリオール生物多様性枠組み」として採択されました。なぜ「昆明・モントリオール」かというと、本当は2020年に中国の昆明で締約国会議が開催されることになっていたのですが、延びて、しかも中国はゼロ・コロナ政策だったので、とても中国で開催するわけにはいかず、カナダに変更されました。

・これまで10年ごとに2回失敗していて、国連ではSDGsという目標も掲げられておりますので、その達成のためにも「2050年までに自然との共生を実現する」というビジョンを出しました。日本では政策によく「自然との共生」という言葉が使われていますので、日本人にはなじみのある目標です。

・このビジョンに向けて意欲的に取り組まなければならないので、そのための枠組みを作ることになりました。「2030年までに生物多様性の喪失を止め」「2050年までに生物多様性を回復させる」という枠組みです。国連レベルでは「回復」が新たに重視されるようになりました。2020年から2030年までの10年を「生態系回復のための10年」と定め、単に喪失を止めるだけでなく、回復させるんだという意気込みが政策文書の中に表れるようになってきました。

・昆明・モントリオール目標(個別目標)の例として、「30 by 30」があります。これは「2030年までに、地球上の陸地と海洋の面積の少なくとも30%を保護区もしくはそれ以外の有効な保全手法OECM(Other area-based Effective Conservation Measure)のもとにおく」というものです。保護区は野生生物や生態系を守る一般的な手段だったわけです。日本やアメリカだと国立公園がおもなものです。それだけではとても足りないので、それ以外に「有効な」対策が取られる場所を作っていこうというものです。採択されましたので、日本では環境省が30 by 30をどう実現するか検討を始めています。国立公園以外で確保しなければなりませんから、いろいろな自治体やNPO、企業が保有している土地をOECMに組み入れていく必要があります。

・そのほかの個別目標として、「侵略的外来種の導入を半減、それらの種の排除あるいは根絶」「(窒素・リンによる)栄養汚染を少なくとも半減し、農薬を少なくとも2/3に減らし、プラスチック廃棄物の排出は0に」といったものがあります。

・生物多様性条約には世界のほとんどの国が参加していますが、米国は未加盟です。米国は野生動物の保護や国立公園の管理をしっかりやっている国ですが、生物多様性条約の3つ目の柱「遺伝資源の利用から生じる利益の公正で衡平な配分」が米国内の企業にとってマイナスになるので、加盟していません。ですが、「30 by 30イニシアチブ」にはバイデン大統領が宣言して、かなり積極的に取り組もうとしています。「30 by 30イニシアチブ」には、去年の秋の段階で、世界の100ヶ国以上の政府が参加し、実践すると宣言しています。

・米国の30 by 30の主要なねらいには、「汚染されていないきれいな飲料水の供給」が第一に挙げられています。そして、「野生生物の保護」「生態系の多様性の維持」「気候変動の緩和策としての炭素の吸収」です。米国では、現在保全されているのは8%のみと評価しています。国立公園における野生の保護では世界のトップランナーかもしれませんが、それでも8%です。日本ではCOP10が契機となった「SATOYAMAイニシアティブ」に見られるように、人が関わってきた自然の重要性が認識されてきましたが、米国でも、今まで強調してこなかった「身近な自然」の保全・再生に力をいれる方向にかじを取っています。人々の幸せや暮らしの持続可能性を考えたら、それこそ自然環境保全を中心にするべきだという大きな考えの流れの中に米国も入ってきたということです。


●1-4 気候変動対策と生物多様性保全の望ましい連携

・ふたごの環境条約である生物多様性条約と気候変動枠組み条約は、それぞれ科学をベースにして政策を進めていかなければなりませんので、そのための組織が作られています。よく知られているのは「IPCC」です。これは「気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change)」のことで、各国政府の気候変動に関する政策に科学的な基礎を与えることを目的に、多くの科学者が参加しているパネルです。1988年に設立されて、 195の国と地域(EU)が参加しています。

・生物多様性条約に関しては、だいぶ遅れて、2012年に「IPBES(イプベス Intergovernmental science-policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services・・・生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム」が作られました。同じPですが、IPCCがPanel、IPBESがPlatformと違っているところがミソです。パネルは「壇上に専門家が並んでいる」感じ、プラットフォームは「いろんな人が議論する」そんな感じです。時代が進んで、専門家だけでは解決できないという認識があるということです。139か国が加盟しています。EUも加盟しています。ドイツがかなり尽力しました。

・IPCCは、気候変動が起こっている確からしさを常に加えながら記述をしてきました。2021年の報告書によると人間の影響が⼤気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには「疑う余地がない」と言っています。1990年には「気温上昇を生じさせるだろう」という表現でした。今までのデータを見ても、今までに起こっていることを見ても、疑う余地のないところまできています。⼈為によって引き起こされている気候変動により、自然の気候変動の範囲を超えて、自然や⼈間に対して広範囲にわたる悪影響と、それに関連した損失と損害を引き起こしていると強調しています。

・「温暖化を1.5℃までにとどめる」というのが国際的な目標になっています。これを越えたら、もう気候を安定させることはできなくなるという限界です。これを越えたら、気候の暴走が起きてしまって、反転させる機会が失われてしまいます。だから、1.5℃が国際的な目標なんです。

・今のところ、二酸化炭素はどんどん増えていて、世界は「1.5℃までにとどめる」という道筋にいません。1.5℃の道筋に乗せるためには、世界の二酸化炭素排出量を、遅くとも2025 年(なんと再来年!!)までにピークに打たせて、減少させなければなりません。2030年までに2019年比で4割削減させ、2050年代初頭には二酸化炭素を差し引きゼロ排出にする(ネットゼロ)ことが必要になります。

・そのための対策は様々あります。排出を減らす方法もありますし、排出された二酸化炭素を速やかに吸収して隔離するということも必要です。エネルギーをなるべく使わないようにする省エネもあります。全ての部⾨・地域において早期に野⼼的な削減を実施しないと1.5℃を達成することはできません。今でさえ気候変動の影響で困っている地域・困っている人がたくさんいるのに、1.5℃が達成できなかったら、もっとひどいことになります。

・IPBESは、生物多様性の人への恩恵を中心に検討を進めていますが、IPBESとIPCCがバラバラではダメだという機運が高まってきて、IPBESとIPCCの合同ワークショップが2020年に開催され、昨年2022年春に報告書が出されています。そういった報告書って、ほんとに分厚いんですが、エッセンスだけ紹介します。このままでは人類は地球上に住み続けられなくなってしまいます。人類が住み続けられる気候を維持することが最も重要ですが、地球温暖化の制御と生物多様性の保護は相互依存する目標です。地球温暖化が暴走したら生物多様性の保全もできなくなってしまいますし、暴走させないための様々な取り組みの中では生物多様性の保全が有効な手段になります。

・ちょっと脱線しますが、アフリカの森林地帯にマルミミゾウというゾウが住んでいます。マルミミゾウが気候の制御にとても重要だという論文が出されました。マルミミゾウは何世代も続くけものみちを歩いて、食べ物を探しているのですが、そのけものみちのまわりを調べればどんな植物を食べているかが分かるし、糞を出しますから、糞を拾えば、どんな種類の種子を分散して、森の生長を助けているかが分かります。それらを調べ、膨大なデータを分析したり、フィールドワークで糞を千何百個も拾って調べたりしました。その結果、マルミミゾウが葉や枝を食べるときは、森の形成を妨げるような先駆樹種を食べていて、実を食べて種子を分散しているのは、森の本体をつくるような、大きく、幹にたくさん炭素をため込むような木の実で、そういう森が形成されるのを助けていました。論文には、マルミミゾウがいなくなったら、森の炭素蓄積は8~9%減ってしまうとありました。マルミミゾウの保護をすることが気候変動にとっても重要ということです。このように、生態的な関係を調べていくと、分かってくることがたくさんあります。気候変動によって生物多様性が脅かされる・・・という関係だけではないんですね。このように相互に関連していることなので、気候変動と生物多様性は総合的に達成していくことが、持続可能で、公平な人の暮らしに欠かせないということです。

・最近の保全の実践などで世界的に重視されている考え方は、気候・生物多様性・人の社会を一体のシステムとしてみることが重要だということです。目標は「人類が住み続けられる気候、生物多様性の維持」であり、それらに同時に対応できるような対策が大切になります。


●1-5 草原や湿原は、炭素の隔離によって気候変動に有効

・草原を守ることは、草原に関わるこれまでの営みや草原に住んでいる動植物を守るというイメージが強かったと思いますが、地球環境を守ることにもつながっています。ヨーロッパではカーボン・ファーミング(Carbon Farming)という言葉が使われるようになり、米国にも影響しています。これは、農林業を含む土地利用・管理における「ネットゼロ(炭素排出差し引きゼロ)」に関するキーワードです。「欧州環境ビューロー(EEB:European Environmental Bureau)」というヨーロッパの170以上の環境市民団体を束ねるNGOの政策提言はEUの政策決定で重視されるのですが、その文書にカーボン・ファーミングの定義があります。それは「土壌や植生への炭素の隔離を増加させる土地管理の実践」です。

・ファーミングとあるので農業や牧畜業をイメージしがちですが、ここで、もう一つ主張していることは、「欧州においてネットゼロをめざす上でもっとも優先度の高いカーボン・ファーミングは、泥炭湿地の保護・再生である」ということです。日本にいると泥炭湿地と聞いてもピンとこないかもしれません。一方、火入れで維持される草原の再生・利用ももっとも有効なカーボンファーミングの一つであると思われます。

・光合成と呼吸とは逆向きの化学反応です。光合成は二酸化炭素と水から、光エネルギーを使って炭水化物などの光合成産物と酸素をつくることですが、これを担っているのは生態系の中で生産者(植物)のみです。それに対して、酸素を使って光合成産物である呼吸基質を水と二酸化炭素にし、生きるための化学ネルギーを得て、生命活動に使うという呼吸は、すべての生物が行っています。

・植物しか行わない光合成はあまり温度が高いと抑制されます。乙女高原の植物だったら、おそらく光合成のピークは15~20℃くらいだと思います。ところが、呼吸は植物を含む、すべての生き物がしています。植物も夜は呼吸だけです。土壌中の多様な微生物もみんな呼吸をしています。ですから、土壌の呼吸って無視できません。また、呼吸は高い温度で促進されてしまいます。光合成が阻害されてしまう温度でも促進されてしまいます。

・温暖化が進行すると、正のフィードバックが起こってしまいます。温度が高くなると(呼吸が促進されるので)空気中により多くの二酸化炭素が出て、より温暖化が進み、さらに呼吸が進み・・・という悪循環です。また、土壌に葉や材が供給されると、いろいろな生物が分解しながら、呼吸して二酸化炭素を出してしまいます。熱帯林は炭素を固定しますが、温暖化が進むと、二酸化炭素の発生量のほうがかえって多くなってしまうことにもなります。

・一方、土壌に炭素を隔離して(生物が利用できないように)貯めようとするなら、土壌を嫌気的な条件(酸素がないような状況)にするか、光合成産物を炭化させてしまう(炭は生き物が利用できない)ことが必要です。泥炭湿地にはその理想的な仕組みが成り立っています。微生物学で明らかになっていますが、高温で、土壌が湿ったり乾いたりを繰り返していると、呼吸は促進されてしまいます。一方、常時湿っていれば、嫌気的条件となり、酸素が足りないのですから呼吸が押さえられます。泥炭湿地はミズゴケの遺体が積もっていって、高層湿原を形成します。ここでは、生産者が炭素を固定しますが、分解者がどんどん分解してしまうことはないので、土壌に有機炭素を貯めることができます。土壌に炭素を貯留するためには炭素が分解されないよう、炭素循環からの隔離が必要です。

・火入れ草原では、植物が焼けて、生き物が利用できない細かい微粒炭になり、黒い土ができます。

・湿地と火入れ草原の保全・再生は生物多様性にとって重要なので、湿地だったらラムサール条約があって、そこに登録した湿地では保全活動をがんばっています。草原には森林にはない生物多様性を守るための管理がなされていたりしますが、それだけでなく、気候変動対策「ネットゼロ」としても重要ということです。

・本当に湿地や火入れ草原でネットゼロの取り組みができるのか、科学的に計画を立てて、モニタリングをしていかなければなりませんが、この分野の科学は遅れています。測ったり、論文を書いている人は多くありません。湿地や草原の炭素貯留能を測って、それがある程度確保できるような管理をしていくことが大切です。炭素量を測ればいいので、生き物に関する指標を測るより簡単です。ちょっとした機械があればできます。生物多様性については、目印になるような生き物・絶滅危惧種の保全状況などを指標にして評価していくことが必要だと思います。生態系が人の社会にもたらす恩恵を生態系サービスといいます。その重要性は認識されていますが、それは、おそらく、人が減っているところで、どうやって自然をうまく生かして、人と人とのきづなですが、地域にいる人同士のきずなはもちろん、よその人とのきずなを結んできてもらうこともとても重要なテーマなので、何が生産できましたということよりも、きずなの深さ豊かさをいろいなやり方で評価するのがよいと思われます。

 

 

●2-1 生物多様性政策における非欧米文化の強化

・IPBESでも「生態系サービス」という言葉が使われているんですけど、IPBESは「生態系サービス」から脱却する雰囲気があります。科学をはじめ欧米の文化で成り立ってきた政策がとられてきたのですが、欧米ではない文化を取り入れて、そこで培われてきた文化や知識を重視しようという機運が大きくなってきました。

・自然と人間との(位置)関係ですが、今の科学を生み出して、生物多様性の政策への影響が強いキリスト教・イスラム教は、ヒトの自然に対する優位性が前提になっています。よくも悪くも、自然界を人間が支配しているという前提です。人が困らないように、生態系サービスを賢く利用あるいは保護しようという発想になります。

・一方、宗教でいうとヒンズー教・仏教ですが、それ以外に、⼈間と自然とは対等であるとする多くの先住民文化の見方が広まっています。たとえば、生物多様性の政策には北米の先住民の文化などが大きな影響を与えています。「サービス」というのは人間が上にいるような目線になっているので、「自然の恵み」という言い方に変えた方がいいといった考え方もあって、2019年のIPBES地球規模アセスメント報告書では、「生態系サービス」ではなくて「自然の恵み (Nature's Contribution to People)」という言葉を使い始めています。IPBESでは生態系サービスという言葉が使われてきて、これからも使われると思いますが、欧米文化的な表現から置き換えられた言葉が取り入れられつつあります。それから、自然との関係において人の幸福や利益を追求することに関しては、「自然との共生」という言葉を国際的にも使ってきましたが、「母なる地球との共生」という言葉で表し始めています。


●2-2 科学で自然を守る:生態系スチュワードシップ

・西欧で発達した自然科学を基礎としながら、北米先住民の価値観と知識の影響のもとに生物多様性保全の科学(保全生態学など)が発展してきたと言えます。で、自然とヒトとの関係を表す言葉ですが、自然を人が支配するということではなく、対等のものとして守っていくという意味の言葉が使われるようになってきました。それが「生態系スチュワードシップ」です。

・1920年代、初期の生態学の実践はすでに倫理的には「生態系スチュワードシップ」に則っていました。2010年にカナダの研究者であるチェイピンらが書いた『生態系スチュワードシップの原理』という教科書があります。カナダは米国よりももっと先住民を重視した政策を持っています。先住民のことをファーストネイションと呼んで、訴訟などが大変ではあるんですが、テリトリーの土地の管理権を認めたりしています。ですから、こういう本がカナダから出てくるというのは、しごく納得のいくことです。

・「スチュワード」というのは執事・世話役ということです。ある程度いろんなことを理解していて、お世話ができる者のことですから、これは動物など他の生き物では無理で、なれるのは人だけです。自然のスチュワードになるというのは、そんなにエラそうなことではありません。自然と人とは対等だけれど、お世話ができるのは人・・・ということです。それまでの科学、あるいはヨーロッパの人たちが世界中に出かけてやってきたことというのは、「科学と技術で自然を支配する」ということだったのですが、「科学ベースで自然を守る」という倫理的な姿勢のことを、ここでは「生態系スチュワードシップ」と呼んでいます。この言葉を使っていく必要はないんですけど、そういう発想に戻りつつあるというか、なりつつあるということは押さえておいたほうがいいと思います。


●2-3 科学が支える草原・湿原の自然再生のはじまりと生態学

・環境倫理に取り組んでいる人は、アルド・レオポルドの著作をバイブルのように扱っています。「土地倫理」という言葉が重視されています。そのレオポルドですが、もともとは米国の森林官で、国有林の管理の仕事をしていましたが、その後、ウィスコンシン大学の教授になりました。大学に生態学の学部はなかったため、農業経済学部の教授として生態学の研究や教育に従事していました。ナチュラルヒストリーの視点、つまり、進化的・生態的視点から、科学にもとづく生態系の保全・再生の実践に取り組んだ最初の科学者です。自然界を「互いに関連しあう要素の複雑なシステム」として見ていました。これは生態学としては当たり前のことですが、このころは新しい考え方でした。

・レオポルドは自然のシステムが壊れていくのを目の当たりにしました。広範囲な農地開発をすると、そこがダスト・ボウル(砂嵐)地帯になってしまいます。レオポルドは著作『砂の郡の暦』で、砂嵐に苦しむ地域とともに、まだ残っているプレーリーの自然を美しく描写し、プレーリー固有の植物の消失など、不健全化した生態系についても言及しています。野生の要素が失われていくことを危惧して、自然のシステムのダイナミズムを保全・再生することを提案しました。ある動物など、ただ自然の要素の何かを守るのでなく、システムを観て、システム全体を保全するという自然の守り方です。

・「自然の征服者としての人間」という見方はそれまで当たり前でした。米国がまさにそうで、未開の原生的な自然のあるところにヨーロッパから入っていって、広大な農地を築いて、自然を征服して富を築くということをやってきました。そういう見方に対して、「生物社会の一部として人間社会がある」という見方を提示しました。一時期、生態学ではこういうことはあまり言わなかったのですが、保全や自然再生の中では、こういう考え方が当たり前になりつつあります。生態学と社会を統合する視点です。それが、土地倫理です。

・新島義昭さんが訳した『野生のうたが聞こえる』の中でも取り上げられています。共同体の中で倫理が成り立つのは、それぞれの個人が共同体の一員であるということによっていますが、土地倫理は、共同体という概念の枠を人間社会の個人だけでなく、土壌、水、植物、動物、つまりはこれらを総称した「土地」にまで拡大した倫理をさします。これを見ると、これはまさに生態系のことを言っているんですね。そのころはまだ生態系という言葉は一般的ではありませんから、レオポルドは「土地」という言葉で「生態系」を表現したのです。

・「土地倫理は、ヒトという種の役割を、土地という共同体の征服者から、平凡な一員、一構成員へと帰すのである。これは、仲間の構成員に対する尊敬の念の表れであると同時に、自分の所属している共同体への尊敬の念の表れでもある。」西欧的な科学だけでなく、北アメリカの先住民の考え方が色濃く反映して、レオポルドの「土地倫理」に至ったわけです。もう一度強調しますが、まだ「生態系」という言葉はなかったので、ここで「土地」と言っているのは、並べてあるものからして「生態系」そのもののことです。ですから、今でいえば、これは「生態系倫理」と言えて、生態系スチュワードシップはその倫理に支えられた実践といえます。

・生態系スチュワードシップとはこのようなものですから、当然、自然再生も範疇に入ります。プレーリーの自然が劣化しているんなら、それを回復させるのが重要だということになりますよね、共同体の一員として。そこで、レオポルドは科学研究として世界初の自然再生に取り組みました。自分1人ではなく、ウィスコンシン大学に、そういうことができそうな人を招いて始めました。荒廃した放棄農地に、プレーリー生態系(草原)を再生させるという実験です。他にも自然再生の試みはいっぱいあったかもしれませんが、「初めての科学的な自然再生」とはっきり言えるのは、このレオポルドの実践です。

・自然再生の初期の写真を見ると、興味深いんですけど、火を入れています。プレーリーの種子をそのまままいても芽は出ません。レオポルドの実験では、かなり火を使っています。大学として実験を始めたのは1935年からです。現在まで継続しています。ウィスコンシン大学ではもっといろいろなところで自然再生を試みています。レオポルドの財団があって、そこにレオポルドが始めた再生地をミュージアム的に展示しているところがあって、見ることができます。再生には長い時間が必要なんですね。科学的に検討しながら、少しずつ行いました。一時期、生態学がそうではないことを重視したので、少し違う面が強調されたことはありました。

・「生態系」という言葉を提案した人はタンズレー(一般的にはタンスレー)という英国の生態学者です。この人はすごくおもしろい人なので、詳しく話したいのですが、時間が迫っているので、短く話します。タンズレーは植物学者で、生態学や植物学の学会を初めて作って、いろんな雑誌を発行したりしました。そればかりか心理学にも興味を持ち、フロイドのところに行って一緒に研究したりしました。ケンブリッジ大学とオックスフォード大学で教鞭を執っていたんですが、最後のころはネイチャー・コンサーバンシーという保全地の管理などをする協会のトップに立った人でもあります。

・1920年代からケンブリッジ大学が関わっている湿地の再生地があります。フェンと呼ばれる東イングランド特有の泥炭湿地なんですが、日本の里山みたいな感じのところです。ヨシ原・スゲ原を資源として活用してヨシで屋根をふいています。2000年代になって「グレート・フェン・プロジェクト」という国家プロジェクトが始まりました。東イングランドには長く続いた再生プログラムがいくつもあるので、それをネットワーク化するような国家プロジェクトです。泥炭地を農地として開発すると、水が失われて、溜まっていた有機物が分解されて二酸化炭素の大放出源となります。また、地盤が沈下してしまいます。そうなると、災害に弱い土地になってしまいます。災害対策としても、湿地の再生は重要なのです。


●2-4 草原の生態系スチュワードシップにむけて

・生態系スチュワードシップを実践するとすると、対象とする生態系だけでなく、人の社会との関連にも注目するというのが、自然再生を考える際の基本です。ですから、地史やヒトの営みの歴史を振りかえります。それから、なにもかも調査はできないので、その地のシンボルや指標となるものを見出し、モニタリングしていきます。モニタリングについては、世界的にも市民科学がとても重要だということが認識されています。米国・英国では、国が市民科学を促すことを重視しています。乙女高原ファンクラブは模範的な市民科学団体ですので、これからもぜひ活躍してください。できれば、泥炭が溜まっている湿地があるかどうか、火入れ草原があるのであれば、火入れが炭素を隔離する効果がどれくらいあるかを調べるとよいと思います。

・火入れしている草原って人類にとってすごく重要です。考古学が発展してきて、微粒炭という細かい炭を含む黒い土が世界中に分布していることが分かってきました(黒ぼく土)。アマゾンというと密林というイメージですが、アマゾンの森林地帯にもそういう場所があることが分かってきました。日本では縄文時代以前から植生管理の手段として火が使われてきました。日本のような気候帯だと、自然には草原は発達しません。人が火を入れることによって、草原を発達させたり維持したりして、樹林化を防いできました。草原を維持することで、狩猟がしやすくなり、明るい草原の縁が好きなキイチゴ類やサルナシが採れます。これらはビタミンCが多く含まれています。また、屋根をふくためのカヤが取れました。草原がないと暮らせなかったんです。時代によって草原の何が資源として重要かは替わってきましたが、草原が維持されてきた地域が、日本にはたくさんあります。

・草原はここ数十年間に急激に喪失されています。森林は増えているくらいなのに、草原・湿原・湿地は減っています。サクラソウも草原に咲く花です。世界遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つ、函館市南茅部遺跡群では、海岸段丘があって、段丘上に集落跡が発掘されています。その中の一つ、大船遺跡には深さ2m、幅11mを越える巨大な縦穴式住居跡がありますし、著保内野遺跡からは国宝になった高さ40cmほどの土偶が見つかったりしています。集落の背後に、細かい炭が混ざった土である黒ボク土がずっと続いています。黒ボク土には植物由来のケイ酸体(プラント・オパール)が含まれているのが普通です。これは、イネ科植物が焼かれた証拠です。こういう草原で、縄文の暮らしが成り立っていたことが分かります。


●2-5 古来恵み豊かな身近な自然だった「持続可能な」草原

・昔にさかのぼっても草原は重要だったことがわかるのは、一つは万葉集ですね。奈良時代の後半に、それ以前の130年くらいの間の歌が載せられています。万葉集4,500首のうち植物を詠んだ歌は1,500首なんですが、その中で一番多いのはハギです。ウメやマツが多そうですが、そうではなく、ハギ。ウメ118首、マツ79首、タチバナ68首、サクラ50首、ヨシ50首ですが、ハギは141首、ススキも47首あります。ハギとススキの両方が登場する歌もあります。「人皆は 萩を秋と言う よし吾は 尾花が末を 秋と言はむ(万葉集 作者不詳)」秋を特徴づけるのはハギかススキだったことが分かります。ハギってどんな植物かというと、生態学的には火の好きな植物といえます。発芽のためにも火が必要ですし、火入れされたところでがんばる植物ですね。こういうことから、古代においては、火入れ草原が最も身近な草原だったことが分かります。

・万葉集を編纂したかもしれない山上憶良の秋の七草の歌、「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなへし また 藤袴 朝顔の花  山上 憶良」。少し前までは私たちにとって七草はピンとくるものでしたが、今の子どもたちはなかなか分からないかもしれません。いずれも草原や林縁の植物です。これらが古代の人々にとって、一番身近な植物だったということがわかります。

・私の好きなサクラソウを見てみると、生育地がだいたい火山の山麓なんですが、古代に大きな牧があったところです。昔は戦のためにも、交通手段としても、農耕にも馬がとても重要で、馬を育てる場所を「牧」といいます。国設の牧もあったし、地方ごとに私設の牧もあったようです。火入れ草原の自然再生を、日本ではがんばっています。


●3 自然再生推進法にもとづく「自然再生」と市民科学

・自然再生の取り組みには、劣化させている原因を取り除くとか、今、各地でまん延していて影響が大きいのですが、外来種を取り除くなどがあります。また、自然を再生して、地域のにぎわいを回復させるようなこともテーマになっています。生態系と生態系につながっている社会全体に目を向ける取り組みが世界的には広まっています。日本でもそのような事業が増えています。ポイントになるのが「科学」と「参加」です。科学的にやらないとうまくいきません。市民科学が条件です。そして、多様な主体が参加することです。

・日本では自然再生のための法律が2002年に作られました。自然再生推進法です。この法律による自然再生の定義は「過去に損なわれた生態系その他の自然環境を取り戻すことを目的として、関係行政機関、関係地方公共団体、地域住民、特定非営利活動法人、自然環境に関し専門的知識を有する者等の地域の多様な主体が参加して、河川、湿原、干潟、藻場、里山、里地、森林その他の自然環境を保全し、再生し、若しくは創出し、又はその状態を維持管理すること」です。こういう目的で行われる事業を自然再生事業というのですが、必須なのが、自然再生協議会という、自然再生の計画を作ったり、事業の評価をしたりする組織体です。この法律に則って実施されている自然再生事業は全国で27あります。草原で言えば、熊本県の阿蘇、兵庫県の上山高原などがあって、一番最近協議会が設立されたのが岡山県真庭市の蒜山(ひるぜん)高原です。NPOが中心となってできました。

・「自然再生のために協議会を作って、国に認められなくても、いろいろな方法があるじゃないか」と思われるかもしれません。実際、いろいろなところでこの法律の枠外で自然再生が取り組まれています。一方で、法律に基づく協議会を作るメリットもあります。実施計画を作ったら、それを国に上げて審査されます。審査が通れば、国として認めたフォーマルな事業になります。NPOが手を挙げた地域でも、だいたいは地方公共団体が入ったりだとか、例えば外来種のことだったら環境省が関わるだとか、森林のことだったら農水省が関わるだとか、インフラ整備に関わることだったら国交省だとか、行政機関が関わってきます。この法律は環境省・農水省・国交省の3省が共同管理しています。

・環境省のホームページやパンフレットで自然再生事業の活動内容が紹介され、英語での発信もなされています。フォーマルな形での発信です。毎年、協議会が集まる会議が行われていて、今年は石垣島で開催されました。各協議会から2名分の旅費が用意されます。自然再生に関わる人が集まって、交流ができます。それから、自然再生専門家会議との情報交換もできます。私もこの会議に関わっていますが、何か課題が出てきたら、そこに行って、現地を見せてもらったり議論したりします。全国会議にも参加して、自然再生に関わっている人たちと交流しています。自然再生に関わる専門家の間でも情報交換がなされています。いろいろな主体が事業に関わるので、その相乗効果が期待できます。地方自治体の政策とNPOの実践が相乗効果を生むわけです。

・科学に基づいた計画や実践が必要ですが、乙女高原ファンクラブにはしっかりした市民科学があるので、クリアしていると思います。ですから、山梨市や山梨県と連携したら、すぐにでも協議会が立ちあげられるんじゃないかと思います。

・市民科学という言葉をずいぶん使いましたが、国際的にも、環境保全では市民科学がトレンドになっています。市民科学とは「市民がデータの収集・分析・評価で主導的な役割を果たす科学の営み」ですが、専門家が一緒に考えたりということがあります。情報技術が発展していますので、情報技術をもつ人あるいは研究者と協働すれば、データを蓄積したり、発信したりすることもやりやすくなると思います。生物多様性市民科学は「生物多様性保全の取り組みと連携した市民科学」であり、今では、市民科学を専門で扱う国際的なNGOがあったり、国際誌が発行されたりしています。

・乙女高原でのみなさまの実践のますますのご発展をお祈りいたします。

   (終わり)


 鷲谷さんのお話が終了後、Q and Aの時間を取りました。

【質問】韮崎市の甘利山倶楽部で活動しています。乙女高原と同じく草原の保全活動をしています。SDGsが始まって7年経ちました。残り7年で目標に到達しなけれはならないという状況です。期間の半分が過ぎて、SDGsが効果を表しているのかどうかをお聞きしたい。

【答え】全世界の全地域で取り組まなければならないことなので、まだ評価はなされていないようです。ですが、先ほどお話しましたが、オランダのアムステルダム市のように、政策にしっかり取り入れる努力をしているところも、世界を探せばいくつかあるのではないかと思います。きっと山梨市も韮崎市も、草原再生とか市民の活動があるんだったら、それらを核にしながら、他の取り組みもそこに入れていって、SDGsへの取り組みを統合的に進めることができると思います。自然環境に関心のある人がほかの分野にも目を向けて一緒にできないかどうかを考えていくことが重要ではないでしょうか。


【質問】火を入れると植物が燃えるので、二酸化炭素が増えるんじゃないかと思うのですが、温暖化対策に有効であるというのが先生のお話でした。そこをもう少し詳しくご説明いただけますか。

【答え】火入れも、地域・気候帯・これまでどれくらい燃やしてきたかで、全然効果が違います。日本で、毎年火入れしているようなところですと、火は地表を走って、枯れ草などを燃やして、炭にして、土壌に入れてくれています。ちょっと脱線しますが、活性炭って健康にいいじゃないですか。植物にとってもそうなので、サクラソウなど絶滅危惧種にとって、いい効果があります。
 何もしなかったら、時間はかかりますが全部分解されて二酸化炭素として放出されてしまいますが、火を入れれば、燃えて二酸化炭素として出てしまう部分もありますが、炭として固定される部分もあり、トータルでみると、そのままにするより火入れをした方が有効です。
 昔は森林も二酸化炭素を吸収して炭素を固定すると言われていましたが、土壌などを考慮すると、そうでもないことが分かってきました。今、早生樹としてキリを植えるところが多くなってきました。キリだったら、伐って家具を作れば、炭素を固定しながら何世代も使えます。樹木だったら、土壌に多くの葉や枝が供給されて分解されないうちに伐って、長い期間使うとか、炭を焼いて、バイオチャー(炭)として農地に入れて土壌改良剤として使うといった取り組みがなされています。
 炭は安定した物質なので、メリットがあります。炭焼きは温度管理とか大変ですが、火入れはサーッと草原を火が走っておしまいです。そういう観点で火入れのことを考える人は少ないんじゃないかと思います。今こそ、やるべきではないかと思います。草原の再生に取り組んでいるのなら、そういう研究にも取り組むようアドバイスしています。蒜山でも、そのようなお話をしました。県の研究所でもそういう研究がなされるといいなと思います。世界でもやられていますが、論文としてはまだ出てきてないです。一回の火入れで炭がどれくらい増えるかは、そんなに難しい測定ではないと思うので、火入れは草原再生に必要なだけでなく、地球環境問題にも貢献していることを、草原のメリットとしてアピールできると思います。この場に、市長さんも所長さんも来られているし、市民の皆さんも話を聞いてくださっているし、乙女高原もぜひ自然再生事業に名乗りを挙げて欲しいと思います。今までやってきたことを簡単な文書にまとめれば、それで十分だと思います。


 閉会行事では、乙女高原ファンクラブ代表世話人の角田さんからお礼のあいさつがあり、同じく代表世話人の三枝さんから諸連絡があり、記念すべき第20回乙女高原フォーラムが無事終了しました。
 スタッフみんなで後片付けをしたあと、反省会という名の交流会をしました。いつものフォーラムだと「希望者はだれでも可」で行うのですが、コロナ対策として「スタッフの希望者のみ」でゲストの鷲谷さんを囲みました。1人ひとことずつ発言していただき、最後に鷲谷さんからメッセージをいただき、すべてのプロクラムを終了しました。鷲谷さん、スタッフの皆さん、参加者の皆さん、本当にご苦労様でした。

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須賀 丈さんをお迎えして、第19回乙女高原フォーラム開催

2020年01月26日 | 乙女高原フォーラム

須賀 丈さんをお迎えして、第19回乙女高原フォーラム開催🍀

~草原を守れば、つながり復活?!~

 

朝はまだ雨が降っていました。所によっては雪だったようです。フォーラム会場の「夢わーく山梨」に続々とスタッフが集まってきたので、着々と準備が進められました。例年だと廊下に受付場所を設けますが、今日は寒いのでホールの後方に受付場所を設けました。その隣を展示スペースとしました。「須賀さんの本コーナー」、「ファンクラブのコーナー」「県有林のコーナー」の3つを設けました。講師の須賀さんは前日の夜に山梨に入り、ホテルに一泊していただきました。今日の午前中は万力公園の中を歩き、霞堤を見て来たそうです。

 午後1時、市観光課武川さんの司会でフォーラムが始まりました。高木市長は他の公務のため欠席。メッセージが代読されました。その後、ファンクラブ植原が進行を担当しました。まず、ファンクラブ代表世話人の三枝さんがスライドを見せながら乙女高原ファンクラブの1年間の活動報告をしました。次に、乙女高原案内人の山本さんが自然観察交流会と夏の案内人活動の報告を、これもスライドを見せながら報告。楽しい写真をどんどん見せるというやり方でした。続いて、乙女高原フェローの説明と、フェロー認定者への認定証・記念品贈呈です。説明は山本さん、贈呈はファンクラブ代表世話人の古屋さんでした。

 そしていよいよ、今回のスペシャルゲスト須賀 丈さんのお話です。井上さんの講師紹介後、「草原を守れば,つながり復活?!」のお話が始まりました。お話終了後、会場からの質問に答えていただきました。マイクを司会の武川さんにお返しし、古屋さんのお礼の言葉、ファンクラブ世話人の芳賀さんから諸連絡があり、フォーラムが終了しました。片付け後、会議室をお借りし、有志で須賀さんを囲んだ茶話会を行いました。なんと22人も残ってくださいました。つけものやお菓子を頬張りながらお茶を飲み、情報交換しました。さらにさらに、今回は2次会も開催。駅前の飲み屋さんで打ち上げを行いました。こちらには6人が参加しました。こうして、今年も充実した乙女高原フォーラムが終了しました。

以下、植原が録音を聞きながら文字起こしをしました。話し言葉をそのまま書き言葉にするとわかりにくいところは修正しました。したがって、文責は植原にあります。

 

◆大阪で生まれ、長野に暮らしています

 私が勤めている環境保全研究所は長野県立の研究所で、私はそこで昆虫の生態を担当しています。2004年に長野県のレッド・データ・ブックを作った折に、絶滅危惧種の多くが草原に生息地を持っていることに気が付きました。昆虫を守るためには草原環境を守らなければならないことに気づいたわけです。と同時に、草原を守ることは想像以上に難しいということにも気づきました。というのも、かつては草刈りや野焼き、放牧によって維持されてきた草原ですが、現在の生活では、草の利用はほとんどなくなってしまいました。そんな中で、どんな取り組みをすれば草原の保全が可能なんだろうか?-というところから興味を持ち始めました。

 その当時、すでに乙女高原ファンクラブの活動は行われていまして、2009年に乙女高原をこっそり見せていただきに来ました。そのころから、皆さんの活動がたいへん参考になるなと拝見させていただいていました。送っていただいた資料やさきほどの活動報告を見せていただき、改めて、皆さんの活動を仰ぎ見るような気持ちになったわけですが、私は、活動を率先してやるというよりか、県の職員そして研究者ですので、市民と行政と研究者をつなぐような立場で、コミュニケーションをどうとっていけばいいのか、いかにして草原の価値を社会で共有していくか、そんなことを考えながらお話をしたり、文章を書いたりする機会が多くありまして、そんな経緯から今回お招きいただいたのかなと思います。私がおもに活動している霧ケ峰は、乙女高原と同じような課題を抱えています。それにも触れながら、お話を進めていきます。

 私は大阪生まれです。万博開催のときは幼稚園児でした。その翌年に環境庁(当時)ができました。その翌年の72年にはストックホルム国連人間環境会議(環境に関する初めての国際会議)が開催されました。当時は、環境問題というと公害の時代でした。光化学スモッグが出て、学校が休みになるなんてこともありました。当時、大阪で子ども向けの観察会を開催する大人たちがいて、そんな会に参加したことから自然に興味を持ち、山登りを始め、高校では山岳部に入りました。
 長野県に来たのが1996年、バブルが終わり、低成長の時代でしたが、長野はまだオリンピック前でしたので開発が進められていて、オリンピックが終わったとたんに開発が終わって経済がどんどん縮小する時代になりました。

 私が子どものころは人口が増えて、経済も発展していく裏側で、自然がどんどん開発されていきました。私が育ったのは千里ニュータウンというところですが、里山を壊して造成された住宅地です。ですので、当時は、自然保護というと開発から自然環境を守る、いかにして開発させないかというのが中心でした。

 ところが、私が長野に来て、特に2000年以降は人口減少が始まり、草原の問題に象徴されますように、人が自然に手を入れなくなったことによって、失われていく生き物たちがいることが目立つようになってきました。

 私は大学でハナバチの研究をしていましたから、いろいろなところで観察すると、高山にも草原にもマルハナバチはいるのですが、種類が違います。大学のころはミツバチの研究もしていましたからマレーシアやインドネシアにも行きました。場所が違えば、生えている植物が違うし、そこに来る昆虫も違います。このように土地ごとに違った植物や昆虫の集まり・生物群集があって、特有の生物多様性が成り立っている、しかもそこに人の暮らしや文化もかかわっているということに興味を持つようになりました。特に、草原の保全を考える上では、人の暮らしとか歴史・文化をよく考えないといけないと考えるようになりました。

 

 

講演のポイント
 現状→グローバル化が進み、産業社会の中で様々な問題が起きている。
    地域の自然と文化が分断されつつある。
 提案→草原の価値をみんなに見えるようにする、体験化することによって
    自然と文化をつなぎなおすことができないかな。

講 演 の 内 容
 1 why  なぜ草原とのつながりなのか?
        地域の方々が持っている生活の知恵や知識などの在来知に注目したい。
 2 what 草原の何とつながるか
        草原利用の歴史と文化
 3 how  具体的にどんな方法でつながりなおしていけばいいのか。

◆地域の自然と「在来知」

「もの」から「こと」へ ● 山梨県も同じだと思いますが、長野県では人口減少が始まっています。歴史上、類のないよう速さで人口増加が起こり、そのあとで、また同じようなスピードで人口減少が起こり、高齢化も進んでいます。見方を変えれば「成長」から「成熟」へということだと思います。物は足りたので、違う形で社会を充実させていく時期だと思います。その指標の一つとして家計消費があります。1970年ごろは家計の多くは物を購入して所有することに使われていましたが、ここ数十年の間に質が変化しておりまして、サービスに対する支出が増えています。言い換えれば、物は十分足りていて、手に入れたいと思っている価値の物差しが「もの」から「こと」へ変わってきているといえます。これは草原の「草」をどうとらえるかということとつながってきます。

 また、「田園回帰」と言われているのですが農山漁村に定住したいと思っている都市住民があらゆる年齢層で増えています。山梨県も長野県と並んで、首都圏で調査すると「移住したい」という希望者が多い県です。

 外国人旅行者も急増しています。外国の方々が日本に来られるときに、何を求めてくるかというと、里山の文化というのがあるんじゃないかなと思います。木曽には中山道が通っていまして、古い宿場町があります。近年、外国の旅行者が急増しています。妻籠と馬籠を結ぶ峠道を歩いているハイキング客の7割は外国人です。その方たちが飛騨街道に入ってきますと開田高原で、そこから岐阜県に向かうわけです。そこで、地元では英語も併用したマップや案内板を作っています。私は外国人になったつもりで丸1日、開田高原を歩いてみました。馬を祀った馬頭観音があったり、ソバ畑があったり、御岳山が見えたり、キキョウの花が咲いていたりと、とてもきれいな景色でした。ここで街灯を見かけました。馬のレリーフがかざりで付いていました。だけど、今、開田高原に行っても、馬はいないんです。「これはなんだろう?」と、おそらく外国人の方は思うのではないかと思いました。

旅人視点で考える ● 「旅人にとって田舎の風景ってなんだろう?」という視点で考えてみたいと思います。フランスの田園風景を見ると、日本のものとはあきらかに違います。自然は場所によって違いますし、異質性を感じさせてくれる要素にもなります。農村の風景であれば、そこに自然と文化とのつながりが、地域の郷土色として感じられます。ある意味で、固有性です。郷土料理もそうですね。それがその瞬間あるだけでなく、過去から未来へとつながっていく時間の流れの中でできあがったものであり、旅人はそこに行って、それに出会うわけです。そこにしかない風景や文化は、その地域にしかない資源ですから、これらをうまく使えば地域の発展に役立つ財産として使えるわけです。

 風景の背後には生物の成り立ちがあって、それを考えるには生物多様性という言葉が便利です。生物多様性は地球上の生物がつくりだす、さまざまな環境の全体を言い表すものですけれども、地域に着目すると、その地域が持っている自然の特色ということになります。その中には遺伝子から種・生態系といろいろなレベルでの多様性があるわけですけれど、そのようにして、地域自然を丸ごと見る、あるいは地域の自然の、他とは違う特色を見るという視点につながると思います。

 そういう視点で地球上を旅する人のことを考えると、そもそも私たち現生人類ホモ・サピエンスは約7万年前にアフリカから世界各地に広がっていきました。約1万年前までには南米の端までたどり着きました。その間にはいろいろな環境があって、それぞれの地域で生きる術を見出してきました。その地域に固有の文化を発展させてきたということでもあります。そのような地域ごとの文化や自然の中には、現在まで続いてきているものもあります。

生物文化多様性 ● そういった特色を求めて、今でも旅する人がいるわけです。私たちが外国に行ったときにも、それを感じるわけです。地球環境の多様性から生まれる人間生活の多様性のことを、最近、生物文化多様性というようになってきています。これは言語の多様性、これは地球上には全部で6000くらいあるといわれておりまして、その地域の言語に結び付いた文化があり、その文化と結びついた生物の多様性があるわけで、言語と文化と生物それぞれの多様性の結びつきを生物文化多様性と呼ぶわけです。具体的には、日々の生活の中で生物資源を利用するための知識や知恵というふうにも考えることができます。

 韓国の釜山とインドネシアのスラウェシの魚市場に行きましたが、海域が違えば住んでいる魚が違います。当然、水揚げされて市場に並ぶ魚も違います。それが生物学的に違うだけではなくて、その土地固有の言葉で魚を呼び合って売り買いし、その土地固有の調味料等で、その土地固有の調理をし、郷土料理を作るわけです。その時に使われる言語や知識というものが「在来知(伝統知)」と呼ばれるもので、生物文化多様性の中身を決めているものです。地域の生活・文化・言語に根差し、周囲の環境や生物の利用や信仰などにかかわる体系化された知識です。

 長野県のある山村には3種類のダイズの品種が植えられてれいます。この中には伝統的な品種もあれば、農業試験場で近代的な育種技術によってつくられたものもあります。それぞれ味も違いますし、利用の仕方も違います。それぞれの畑に合った品種はどれかということを耕作する人は判断してつくっているわけです。つまり、科学的な知識と在来知が混じりあった形で今でも日本の山村では農業が営まれているわけです。

 近年、ダイズの品種は画一化しつつあります。そうなってくると、在来知も失われていくことになります。多様な品種があって、多様な知識があれば、環境が変わったとき、あるいは、経済的な環境が変わったときも、対応できるクッションになるといわれていますが、画一化するとそういった柔軟性も失われるのではないかとという懸念が広がっています。

ローカル資源利用からグローバル資源利用へ ● 日本は江戸時代まではローカルな資源を利用する農耕社会でしたけれども、この100年あまりの間にグルーバルな資源利用をする産業社会へと大きな変貌を遂げました。歌川広重「冨士三十六景」“甲斐大月の原”には、キキョウやオミナエシなど草原性の植物が描かれています。当時の人たちはこういった草を刈って肥料にしていましたので、こういった景観が普通に見られました。


 そうやって日本の消費生活が外国からの資源を利用するようになって、海外の生物資源を損なっているということが起こっています。これは日本だけのことではありませんが、グローバルな産業社会が共通に持つ課題として指摘されています。エコロジカル・フット・プリントという指標があります。人一人が生きていくのに必要な自然環境の量を面積として表したもので、日本人は6/7が海外、残りの1/7だけが国内の資源を利用しています。そういうことを通して、海外の自然や文化にも影響を与えているのが現在の私たちの生活なわけです。 今は、こういった景観が見られなくなりましたよね。これは資源を外国から買うようになったということと関係しています。日本の近代化100年の歴史そのものが資源利用をグローバル化していく歴史でもあったのです。アメリカの環境歴史学者のトットマンという人が書いています。その中で里山・農村に暮らす人々の日々の知識そのものも在来知から科学的な知識へと置き換えられてきました。

 その一方で、里山の自然には手が入らなくなり、失われつつあるわけですけど、かつて生物資源を利用していた在来知は森林でいうと二次林(里山林)、草原でいうと半自然草原と結びついていました。今では人の手の入らない自然林・自然草原と、人工林・人工草地という二極分化したとらえ方が一般的ですが、中間にある二次林・半自然草原が人々の生活と結びついた在来知の場であったわけです。

在来知から科学知へ ● 長野県のある場所で圃場整備があり、景観が大きく変わりました。畔が広くていろいろな野草が咲いていました。その中にはかつては薬草として使われたものもあり、絶滅危惧種であるホンシュウハイイロマルハナバチがいる場所だったのですが、整備でいなくなってしまいました。圃場整備をするには科学的な知見が必要ですから、科学知が導入されて、農村の景観が変わり、暮らしも大きく変わりました。このことによる恩恵があった一方で、失われた在来知や自然もありました。その両面を見る必要があると思います。

 長野県では昔、普通に盆花の風習がありました。研究所で聞き取り調査をやっているのですが、キキョウやオミナエシやナデシコなどの野草が先祖の魂の依り代となり、お盆が終わると、野辺送りをするわけです。野の風景の向こう側にあの世があるわけですから、身近にある野の風景そのものが、ある意味、あの世ともつながる空間として意味をもっていたのかなあと想像するわけです。こういったことで、周りの景観と結びついた心の世界、そういった意味での文化も失われてきた可能性があります。こういう行事は高度経済成長の時に衰退し、簡略化されました。今は盆花をホームセンターで買ってくることが多くなりました。

 山里の民宿の食事でもフキや川魚など山里ならではの食材も出ますが、刺身とかエビとか他所からの食材も出てくるわけです。たいへんなごちそうですが、ここの風土を感じさせてくれる食べ物というとフキや川魚だと思うわけです。現在の日本の農村の生活の中で、地域や生活、自然に対する利用の在り方というのはこういうふうに、外の生物資源と身の回りの生物資源の利用が混じりあっているのが普通なのではないかと思います。民宿のメニューはその象徴だと思います。

生物多様性の危機 ● 生物多様性には4つの危機があります。第一の人間活動や開発による危機は、私が子どものころによくあったものです。今でもありますし、問題がなくなったわけではありませんが、むしろ、第二の人間活動の縮小による危機や、第三の外来種など、人間が生態系に持ち込むものによる危機、さらには、気候変動による第四の危機があり、かつての開発を防ぐという形のものだけでは対応できない、新たな自然環境への脅威が出てきています。

 私は半分行政におりますのでよくわかるのですが、第一の危機への対応のしくみはすでに行政の中にあるんです。十分に機能しているかどうかは皆さん意見があるかもしれませんが、環境アセスメント制度や国立公園制度など、担当者がいて、対応する体制というのは一応できています。

 だけど、第二、第三、第四の危機については、まだ行政の中に確立した体制は、少なくとも地方自治体レベルでは確立していないのが普通です。長野県では「生物多様性ながの県戦略」の見直しの時期にかかっています。2012年に作って2020年までの行動計画を立てておりますので、今年が見直しの時期なんですけど、それにあたって、県内の市町村の担当者にアンケートをしました。「皆さんの市町村で生物多様性にとってどんなことが重要な課題ですか」。一番多い回答が外来種です。外来種はターゲットがはっきりしているので、行政の人にもわかりやすいです。ちゃんと駆除できるかどうかは別として、何をすればいいかはイメージできます。これから外来種対策はある程度できてくるだろうなと思います。

 むしろ難しいのは第二の危機と第四の危機です。第四の危機は地球全体の足並みがそろわないとどうにもならない問題です。長野県や山梨県など山がある県だと、周囲の暑くなった環境で生き延びられなくなった生き物が山に登ることで生き延びられる、山が逃避地になる可能性があります。景観を連続させることで、逃避地として機能させる必要があります。できるできないは別として、やるべきことは第四の危機もイメージできます。

 ところが、第二の危機については、自然環境をどうにかするという問題ではなく、私たちの生活というか生き方にかかわるような問題なので、難しいなあと思います。それが草原にかかわってきます。

 乙女高原でもマルハナバチの観察をされていますが、長野県にもマルハナバチはたくさんいまして、10種類います。口吻の長いものと短いものがありまして、短いものは浅い花、長いものは深い花に適応しています。マルハナバチの中で絶滅の危険性が高く評価されているのは、高山・亜高山に分布域があるニッポンヤドリマルハナバチ・ナガマルハナバチと、半自然草原に分布域があるクロマルハナバチ、ホンシュウハイイロマルハナバチ、ウスリーマルハナバチです。高山・亜高山の環境は今後、急速に気候変動によって生息環境が変化していきます。すると、生息しにくくなる可能性がありますが、その因果関係などは実証できる段階ではありません。情報不足という状態にあります。


 二次草原をどうすれば守れるかということを考えたときに、地域づくりと広い意味で位置付けるしかないかなと考えています。地域づくりで欠かせないのが人々の参加です。参加するためには何が必要かというと、場所とコンセプト、どこで、なにをするかということです。例えば、乙女高原で、乙女高原の自然を守るといったことです。それによって、そこにしかない地域の資源を守るという発想が考えられます。景観や文化や在来知を守ろう、それはいろいろな知識や人とのつながりで守ろうということを今、考えています。 それに対して、半自然草原を主な生息場所とする3種は採草地やスキー場、田畑の畔のような環境にしか生息できないものですから、こういった環境がなくなると、ほぼ生息できなくなります。どうやったらこういうものを守れるかということですが、管理放棄による森林化などが絶滅危惧の背後にあり、さらにその背後にはローカルな資源利用からグローバルな資源利用に変わったという人類の文明全体の転換があります。その結果として生物多様性と地域文化が同時に消滅しつつあるということです。このような草原性の希少種としてマルハナバチ以外でも植物、チョウなど多くの生き物が知られています。

 

 

ここまでのまとめ  Why? なぜ草原との“つながり”か?… 1. 地域の自然と「在来知」

近 代 化・グローバル化 →生物多様性と地域文化の危機
地域資源: そこにしかない自然と文化のつながり →景観・文化・在来知
在 来 知: 生活の基盤,歴史の遺産 →“つながり”で守る自然と文化

 

 

◆草原利用の歴史と文化

地質年代でみると ● 今から6600万年前、ユカタン半島の近くに巨大隕石が衝突し、恐竜が滅びました。それで中生代が終わり、新生代が始まりました。今も新生代です。いろいろなデータから、新生代の前半は、全般的に温暖であったといわれています。後半になって、寒冷化しました。温暖だった時代を古第三紀、寒冷になった時代を新第三紀と呼んでおります。その最後に第四紀という、さらにさらに寒冷化した時代になりました。寒くなったというより、寒暖が極端に繰り返される気候になった時代で、これが現代につながる第四紀です。

 気候変動に関する国際的な政府間組織であるIPCCが定期的に報告書を出していますが、その第5次報告書の中に、新生代を通じた二酸化炭素の推定値のグラフが出ていますが、新生代の初めに上がって、そして下がっています。二酸化炭素の量が多かった時代は気候が温暖であったので、温暖だったことが先か、二酸化炭素の量が先かは、簡単には言えないんですけど、その相関関係は分かっています。さらに、植物の化石などから気候変動の歴史がわかります。

 新生代の前半には、熱帯林が高緯度地方、今の北海道やイギリスなどでも見られたということが化石などからわかっています。後半になると、温帯林が南下し、北極の近くにあったブナ林やナラ林が、寒冷化に伴って温帯まで下がってきました。その時代の後半になって、草原環境が広がりました。このように、地球が寒冷化して温帯林や草原が広がることによって、マルハナバチが北半球で分布を一気に広げました。

 日本列島が形成されたのは新第三紀の中頃で、第四紀になって高山が形成されました。そうやって、地球が寒冷化する歴史に乗っかって、マルハナバチや草原性の植物たちが日本列島に入り込んできました。

 ちなみに、この6000万年の歴史の中で考えると、今の二酸化炭素濃度はかなり低い状態ですので、地球環境でいうと、これから温暖化するということはたいしたことではないと思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。現在、地球の温室効果ガスは400ppmを超えていますが、この濃度になったのは過去80万年なかったことです。ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのが20万年前ですから、それより前です。人類の誰も体験したことのない濃度ということです。ということは、人類が体験したことのない気候状態になりつつあるということです。このまま放っておくと、100年200年で1000ppmを超えるといわれていまして、このあたりが熱帯林に覆われていた時代と同じになります。人類が文明を築き始めたのが7000前からですから、その間、誰も経験したことのないシステムを人類は作りつつあるということです。私たち人類社会のシステムが経験したことのない気候システムを私たちは作りつつあるということですので、地球環境にとっては大したことではないけれども、人間社会にとっては、まったく予想できないことに直面しなければならない可能性があります。

 寒冷化することによってマルハナバチや草原の植物たちが日本列島に入ってきました。第四紀になると氷期と間氷期が繰り返されるわけですが、氷期には日本列島周辺では寒冷で乾燥した気候でしたので、草原が広がります。間氷期や現代も含まれる後氷期は温暖で湿潤な気候になりますので、森林が広がります。

なぜ草原は残ったか? ● 私が持った疑問は「草原はなぜ残ったか?」ということです。かつて、人が田畑を切り拓いて、肥料として草や木を伐っていたので草原ができたということはわかります。謎は別のところにあります。例えばオオルリシジミという草原性のチョウがいますが、日本にしかいない亜種です。大陸には別亜種がいます。1万年以上、どうやってオオルリシジミは生きてきたのか? 縄文時代に草原があっただろうか? どうやって縄文時代の草原は生きてきたのか?

 他にもキジムシロ、ワレモコウという草、チャマダラセセリというチョウがいますが、これと同じものが中国の温帯草原にもいるそうです。中国の温帯草原にいるものが、長野の開田高原にもいるのはなぜか?

 よく言われているのが、半自然草原は火入れをしたり、採草したり放牧したりすることで維持されていたということです。明治時代には国土の30パ-セント以上が草地だったという人もいますが、ここでは17パーセントという数字を使います。これは黒ボク土という草原性の土壌が国土に占める面積です。その半自然草原が現在では1パーセントに減っています。草原のタイプによって生えている植物も違います。写真の自然草原は高山植物の生える自然草原ですが、そこにはチングルマのような高山植物が生えています。人工草地にはコスモスのように人が植えた植物が生えます。半自然草原にはキキョウのような半自然草原特有の植物がみられます。こういう半自然草原の生態系が1万年間、どうやって生き残ってきたかなんです。

 日本の高地面積と人口を重ね合わせたグラフを見ると、ほぼ重なっていまして、江戸時代には耕地面積と人口が急増します。この時代に刈り敷きという、草を刈ってきて田畑の肥料にするというなりわいが大きく拡大したことが明らかになっています。放牧が日本で始まったのは古墳時代からであると考古学的な資料から言われています。とすると、放牧、草刈以外の草原の維持は火入れしか考えられないのですが、火入れはそれ以前からあったのだろうか?と思ったのです。

黒ボク土は火入れによって ● 1999年に、このことを強く主張する論文が出ました。その後、多くの議論を経て、今ではほぼそうだろうといわれていますが、黒ボク土は縄文時代以降に生成し、長く草地だった場所にできる。その中に微小な炭がたくさん含まれる。火入れが黒ボク土の生成に関与しているということです。かつての土壌学では、黒ボク土が草原土壌だということは認められていましたが、それが人間の火入れとかかわっていることは考えられていませんでした。ここ20年の議論でほぼ定説になりました。黒ボク土が霧ケ峰にもあります。霧ケ峰の北に和田峠があり、この近辺では黒曜石という遺物が出ます。旧石器時代から縄文時代にかけて狩猟につかわれた矢じりの原料として使われていました。日本各地に運ばれていたこともわかっています。矢じりの形が時代によって変わるので、発掘してみると、旧石器時代の黒曜石の矢じりが地面の下のほうから出てきて、その上から縄文時代の黒曜石の矢じりが出てくるわけですが、旧石器時代から縄文時代に変わるところで、土の色も黄土色から黒く変わっています。黄土色なのはローム層、黒いのが黒ボク土です。黒ボク土が火入れによって生成されたとすると、縄文時代に入って火入れが始まったということです。実際に測ってみると、黒い部分の一番下が5000年前、縄文時代中期であることがわかりました。そこから化学成分の変化を見ていくと、連続的に変化していることがわかりました。ここでは縄文時代から連続して野焼きが行われてきたことがわかりました。このころから野焼きが続いてきたから、霧ケ峰は今でも草原なんだということです。

 開田高原では野焼きが今でも行われておりまして、草原のがけを見ると、そこに分厚い黒ボク土があるのがわかります。野焼きをすると夏には草が大きく育って、開田高原ではそれを馬の餌に利用しています。同時に、そこが多様な動植物の生息地になっていて、昆虫の希少種もいます。

 黒ボク土の全国的な分布をみると、古代から近世にかけて放牧地であったところとほぼ重なるとことがわかってきました。

万葉集と草原 ● 万葉集に野の風景がたくさん出てきます。今朝は万力公園を歩いてきたのですが、万葉集に詠われた植物がたくさんあって、いいなあと思いながらきました。その中に

「春の野にスミレ摘みにと来しわれそ 野をなつかしみ一夜寝にけむ」

という山部赤人のうたがありましたが、このような野の風景って万葉集にいっぱい出てきます。ほぼ半自然草原であるといわれています。代表的なものが秋の七草をうたった山上憶良のうたですね。

「秋の野に咲きたる花を 指折り かき数うれば七草の花」

「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花」

 ご存じのように尾花はススキです。今でいう朝顔は当時ありません。キキョウのことだといわれています。この中でフジバカマやキキョウは国や地方の絶滅危惧種となっています。クズやナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウは薬草としても使われました。クズからは葛根湯が作られます。

 柿本人麻呂が草刈りと野焼きと馬を連続して3つうたっているうたがあります。私、大好きなのですが・・・

「ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し」

「ま草刈る」は「荒野」の枕言葉だそうですが、文字通りにとると、草刈りをしている野ということです。

「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」

このうたは野焼きの風景だ!と思ったのですが、解説書を見ると、そうじゃない、東の空が明け染めてくる様子をうたっているんだというのが定説のようです。江戸時代の国学者の解釈で、それが定着しているのですが、2013年の岩波文庫の解釈が変わっていたんのです。炎は「けぶり」と読んで、実際に野に火を放っているんだという解釈でした。狩猟に伴う火入れをしているんじゃないかということです。

「日並の 皇子の尊の馬並めて み狩立たしし 時は来向かふ」

 馬を並べて、狩りを始める、今まさに始めるぞというシーンをうたった歌です。

 3つのうたをつないでみますと、草刈りをしている野原に来て、夜明けに火を入れて、馬に乗って狩りを始める・・・そういうシーンだと読めます。

中世の神事と草原 ● そんなことを思わせるような神事が中世の阿蘇で行われていたという研究があります。春に野焼きをして炎によって追い出されてくるイノシシやシカを、馬に乗った武者が弓で射るんです。そうやって焼けた跡の野原に草が生えてくるので、そこを牧つまり馬の放牧地にしたという神事です。中世の阿蘇は阿蘇神社の荘園だったそうです。

 霧ケ峰は諏訪神社の影響が大きいところですが、旧御射山遺跡というのがあって、中世の狩りの神事が行われていたといわれています。ここは当時の文書が残っていませんので、どんな神事であったかはわからないのですが、丘が段状になっていて、ここに桟敷がありまして、そこに東国の侍たちが集まって、流鏑馬のような狩りの神事を見物していたと想像されています。神事で使われたかわらけなどが出土しています。これは私の想像ですが、周りの山に火を放つと、広い八島ヶ原湿原に動物たちが出てきて、それを馬で追いかけてきて、桟敷席のちょうど前の狭い通路のようになっているところで弓で殺す、その神事を桟敷で見物したのではないかと想像しています。

近世の刈り敷 ● 中世のことは文書がなく、わからないのですが、近世になるといろいろなことがわかってきて、「善光寺道名所図会」という古文書の中に、背後の里山から草や木を刈って、田畑に入れて、肥料として使っている様子が描かれています。これを刈り敷というのですが、このように草を肥料として使う農業が江戸時代には全盛期を迎えます。研究によっては田畑の5倍から10倍の面積の草山が必要であったという人もいます。別の研究ですが、当時の村落の周辺の山の5割とか7割は草山や柴山、つまり高い木がほとんどない山だったといわれています。その結果として秋の七草がみられるような草原があったわけですし、馬が放たれているところではレンゲツツジがあったりしました。

明 治 以 降 ● 江戸の終わりになると、西洋から外国人が来るようになりまして、書き残しているものがあるのですけれど、たとえばアーネスト・サトウは日記の中でこう書いています。

 

 村を出てからもしばらく道に沿って家が 並んでいたが、それを過ぎると一本の 木もない草深い荒地を通り抜ける。 点々と茂みがあり、鐘のような形をした 桔梗の花が咲いているところは真青に見えた。

(1878(明治2)年の塩尻 桔梗ヶ原 アーネスト・サトウ「日本旅行日記」庄田元男訳)  

 

一面真っ青になるくらいキキョウが咲いている草原だったそうです。軽井沢の当時の写真を見ても、当時に比べ、今は木がいっぱい生えていることがわかります。当時は草原でした。


 このように20世紀中ごろまでは人の暮らしを結びついた半自然草原があったわけですが、それが消えつつあります。長野県のレッドリストの2002年版と2014年版を比べて、絶滅の主要因がなんであるかを調査集計してみたら、2002年では第2の危機(里地里山などの手入れ不足による自然の質の低下)の割合が18%でしたが、2014年には34%と、割合が高まっています。それだけ、危機が進行しつつあるということです。 木曽ですと、春に野焼きをして、秋に草刈りをして、それを餌として在来馬を飼うという生活をしていたのですが、その結果として半自然草原が保たれてきました。盆棚に盆花を供えるという風習もありました。

 

 

ここまでのまとめ  What? 草原の何とつながるか?… 2. 草原利用の歴史と文化

半自然草原:                               草原の文化:

 氷期の植物・昆虫の避難所      狩り場・放牧地・採草地

 縄文時代からつづく(黒ボク土)   カヤ、まぐさ、肥料、盆花、薬草

 火入れ・放牧・草刈りで維持     和歌(秋の七草など)、浮世絵

 絶滅のおそれのある種が多い

 

 草原の保全が人の暮らしや文化に結び付いていることを意識するかしないかで、草原の価値の感じ方って違ってくるのではないかと思います。それを生かした形での草原とのつながり方を、これから考えられないかなと思っています。

 

◆草原とつながり直す

霧ケ峰の場合 ● 2005年、霧ケ峰には一面のオオバギボウシが咲き乱れている場所がありました。トラマルハナバチやウスリーマルハナバチが来ていました。草原の生物多様性ってすごいなと意識し始めたころでした。今はこんなに咲いている様子は見られません。ニッコウキスゲも同様です。いっぱい咲いていました。「こんなのもう2度と見られないんじゃないか」とおっしゃる方もいて、「不吉なことをおっしゃるなあ」と思いましたが、本当になってしまいました。ニッコウキスゲにもウスリーマルハナバチが来ます。

 霧ケ峰は黒ボク土で、縄文時代から火入れが行われていましたし、中世には狩りの神事が行われていました。霧ケ峰に来られる方の多くはマイカーや観光バスで来て、広々とした空間を楽しまれて、帰っていきます。どんな植物が生えているかとか、どんな歴史があってとかについては、情報が十分伝わっていない、発信も十分ではないところがあります。そこで、それらを伝えたいなあと思っています。

 火入れについては、ずっと行ってきたので続けたいと思っている人が多くて、中断していた野焼きを2000年代の初めに復活させていたんです。が、2013年の火入れで、大延焼を起こしてしまい、10ヘクタールの予定が220ヘクタールも焼いてしまいました。市役所が音頭をとってやっていたので、もうやめましょうということになってしまいました。燃えたことによって、花は復活するよねと期待しました。実際、燃えたところでは青々と草が伸びてきたんです。でも、花は減ってきました。それは野焼きのせいだけではなく、その前からシカの増加もあったからです。

 シカの食害が深刻化するとともに、2007年ころから観光客も減ってきました。霧ケ峰の草原が維持されてきたのは観光資源としての価値が高いからです。ですから、観光資源としての草原を守ろうという発想を生かす必要があると考え、防鹿柵でお花を守ろうという活動が地元の皆様方の手で急速に拡大しました。2007年に研究所で試験的に作った総延長50メートルの柵が最初でしたが、その後さまざまな方々の手で2018年には総延長15キロメートルにまでなりました。柵の中では花がびっしり咲いています。ニッコウキスゲが多くなったことはわかっていましたが、他の植物や他の動物も含めて、生物多様性がちゃんと戻っていているかどうかはわかっていませんでした。

 そこで東京大学や神奈川大学、兵庫県立大学、森林総合研究所といった方々と共同研究しました。柵の中と外を、何か所かで定量的に調べました。その結果は乙女高原と同じです。柵を作ると花の多様性・量・種類数・絶滅危惧種の種類数、チョウ・マルハナバチの種数・個体数、いずれも圧倒的に柵の中が大きかったです。こういうことがわかりましたので、観光資源としても使える!と、さらに柵作りが広がりつつあります。

 こういった取り組みを観光客の方々はほとんど知らないので、それをなんとかしたいと思いました。価値を可視化しようと、本年度プロジェクトを立ち上げました。具体的には、観光客の皆さんに伝える媒体…マップですとかウェブサイト…を作ろうということですが、現地でワークショップをしました。研究者ばかりでなく、観光協会の方や地元のビジターセンターの方、ガイドさん、外国の方も観光に来られますのでブラジルの方・マレーシアの方にも一緒に歩いてもらい、どういうところが見どころになるのか、歩きながら話し合い、さらに室内でも話し合いました。

 また、大延焼した場所とは違って、地元の人々が小規模ですが野焼きを続けてこられた場所があって、そこにいい草原が残っているのですが、高齢化が進んで担い手がいなくなったことから野焼きを止めた場所があります。現状だとまだいい状態なので、なんとかならないかと話し合っています。

 ガイドマップを作っているのですが、今までは花の情報とコースタイムしか入っていませんでしたが、火入れや黒ボク土、狩猟神事や遺跡、花々の種類、防鹿柵の効果も入れ込みました。英語版と日本語版です。上高地にも外国人は行くのですが、上高地は見ただけで分かる原生的な自然です。一方、霧ケ峰は歴史やどうやって保全していくのかという情報まであることによって、興味を持ってもらえると思っています。

 

 

ここまでのまとめ  How? どう草原とつながるか?… 3. 草原とつながり直す ①霧ヶ峰

長い歴史:縄文時代からつづく火入れ  中世の狩猟神事とその遺跡

近年の課題:火入れの中止        シカのよる花の食害

新しい動き:防鹿柵による植物と昆虫の再生  ガイドマップで価値を可視化

 

 

開田高原の場 合● 開田高原全体で5ヘクタールくらいの草原しかありません。それが何か所にも分かれています。一つ一つはとても小さいです。その一つの草原には超希少種が何種類かあります。保全の方法は2年に一度の野焼きと草刈りです。そうすると、夏にたくさんの花が咲いて、刈った草は木曽馬の飼料になります。人々の暮らしと結びついて、このような環境が維持されてきたことが聞き取りによりわかってきて、県条例による保護区ができています。保護区は0.5ヘクタールしかありません。

 ここにはチャマダラセセリがいます。このチョウは外へ出て分散しようとする習性を持っています。飛び出していっても、飛び出した先に生息環境がないので、減ってきています。

 ここでチャマダラセセリが生き残っているのは2年に一度の火入れと関係していると考えられています。チャマダラセセリは枯草の中に蛹が潜んで冬を越すのですが、これでは燃えてしまいます。火が入ったあとに、ミツバツチグリやキジムシロのように地面すれすれに出てくる草の葉の裏に卵を産みます。おそらく外へと分散して野焼きがなかったところで蛹がかえって、燃えたところに飛んできて卵を産んでいるのだと研究者は考えています。伝統的な草地管理と結びついて生き残ってきた生き物だといえます。

 ですから、保護区であろうと火入れや採草は続けています。草刈りはやる目的がなくなりつつありますので、農家だけではできず、役場の職員や私たちがお手伝いをしています。かつては手鎌ですが、今は機械です。

 これだけでは守れないものがあるなあと感じています。木曽馬という在来馬があり、「木曽馬の里」という施設で40頭ほどが飼育されています。ここでは、外から買った草を与えています。地域の野草で飼っているわけではないです。施設の職員の労働ではとても無理です。木曽馬は地域のシンボルでもあり、役場でも重要視していますが、開田高原に来る観光客のほとんどは木曽馬がここにいることを知らないです。木曽馬の施設が国道から少し入ったところにあるからです。ですが、ここに木曽馬・希少種が残っているのは伝統的な形で草刈りをし、草を馬にやるという生活が何百年もつながってやってきたからです。そう考えたとき、なんとか刈った草を馬にやれないかなと思いました。

 開田高原では今でも道端に馬頭観音がたくさんあります。かつては馬をとても大切に飼っていました。同じ家の中に、馬も人も暮らしていました。いろりの後ろ側に馬がいたのです。そういう生活が昭和30年代まではあったそうです。その後、家も改修されて、私ぐらいの大人はもう当時の生活がわかりません。地域の文化が記憶の中にだけあって、消えつつあります。

 だけど、今でも野焼きはしているんです。けっこういい草原が残っています。毎年焼いています。毎年焼いているので、チャマダラセセリはおそらく焼けて死んでいます。毎年焼いているところが開田高原の中にいっぱいあり、地元集落で火入れをしています。昭和30年代には約5,000haの草原があり、それは当時の開田村の三分の一の面積です。約700頭の木曽馬が飼われていました。 現在は草原 5.2ha、馬は 約40頭です。ほとんどが施設で飼われていますが、個人で飼われている人もいます。その方々は生産の道具としてつかっているわけではなく、ただ馬が好きで飼われています。

 草原の維持再生と木曽馬の文化の保存を結び付けられないかと考えました。2018年にその相談を始めました。若い人たち・よそ者が多かったです。

 火入れの見学もさせていただきました。イチイの枝で残った火をたたいて消します。お年寄りは火をつけるのに、枯草を束ねてやっています。

 火の入れ方にも作法がありました。斜面ですので、うまく火が収まるようにやっています。まず、斜面の一番上を、風下から風上に向けて焼きます。次に風下を上から下に、次に風上を上から下に、最後に下を両側から焼きます。先に焼いたところまで炎が走ると、そこで火が消えていくという寸法です。合理的ですが、地形によって風向きが変わりますし、火を入れると気流で風向きが変わります。相当経験がないと上手にできないなと思いました。一番年配のお年寄りが司令官になっています。知識だけ残っていて、草だけ焼いているという状況です。焼いた跡は、枯草が取り除かれますから、いろんな植物が出てきます。たくさんの花が咲きます。

 隔年の火入れ・採草に戻したところは多様性が高まり、草丈が高くなりました。火入れだけをやっていると草丈は高くなります。栄養分が多くなりすぎるのかもしれません。その結果として花の種類は減ります。草刈りだけをやっているところは、何回も刈りますから草丈は低くなり、花の数は少なくなります。ちょうど80センチくらいの草丈で多様性が高くなることがわかっていまして、かつ、そういうところでは昆虫の多様性も高いことがわかりました。伝統的な維持管理方法を導入することが、生物多様性にとってもいいことがわかりました。

 3か所で「隔年の草刈り・火入れ」を行うことにしました。県の保護区はコアエリアとして、できるだけ人が立ち入らない状況で保護していこう、その周りに何か所か伝統的な草地管理を導入し、秋の七草などがたくさん見られる環境を作り、開田高原を訪れる人々に楽しんでもらえるようにしようということにし、ツーリズムの観点も考慮しながら場所選びをしました。

 草刈りの仕方については知っているお年寄りから学びました。こういったお年寄りを我々は師匠をお呼びしています。身のこなし、草の扱いなど、見ているとため息が出そうです。草を刈って、束ねて、立てて、干すわけですが、身に付けた技として持っていらっしゃいました。天候によって草の湿り気が違ってきます。刈った後、何日も晴天が続く場合は、穂先を斜面下に向けて干します。こうすると、草の露が下に落ちやすくなります。晴天が見込めない場合は、束ねて立てて干して、早めに取り込みます。そして、冬の干し草には使わず、ある程度青いまま馬に与えます。草刈り後の処理の仕方を、このようにその後の天候を考えながら調整しています。

 実際に軽トラで草を運んで「木曽馬の里」で馬に与えました。馬たちは今は小さいころから野草を食べ慣れていないので、おなかをこわしたりすることもあるそうです。植物の中には、食べるとダメなやつもあり、小さいころから食べていれば分かって、避けて食べるそうですが、慣れてないとそれも分からないので、飼育員の人たちと相談しながら草のやり方を考えています。

 やっていると、とにかく楽しいんですね。ツーリズムの資源としても使えると私は思っています。役場が国道ぞいに馬の放牧地を作りました。そうしたら、観光客が「馬がいる!」って止まるんです。車が行列作って路駐して、写真を撮っていました。

 昔のほし草づくりも師匠に学んで行いました。「にご」といいます。干してから、小屋に入れ、冬の間のまぐさや敷草に使います。始めて2年目です。やればできるという実感が持てています。やっている人は十数人程度なんですが、やっている人はみんな手ごたえを感じているし、参加している人が多様です。移住者、お年寄り、馬を飼いたい人・・・。背景が違う人が同じ目的で一緒に盛り上がるというところが、普通の自然保護にはないつながりだなと思います。

 昔は野の花を使った生け花も普通にあったそうなので、京都の池坊の生け花の先生を招いて、生け花体験も行いました。希少種は採らないようにして、たくさんあるアヤメや外来種のキショウブなどを使いました。

 こういうことを考える時代の背景をもう一回考えましょう。

 

 

20世紀: 自然を開発から守る 人口増  工業化  高度経済成長   自然保護

21世紀: 自然と文化をつなぎ直す 人口減 サービス化 持続可能性  価値のシェア

 

 つなぎ直すことををさらに地域づくりにつなげていくことを考えておりまして、デザインという発想がヒントになるかなと考えております。デザインという言葉は最近広く使われるようになりましたが、形をデザインする、機能をデザインするというのが本来の意味です。そういった多様なデザインに共通する要素として、体験の質を高めるということがあります。その発想を広げて、社会問題の解決などにもデザインという言葉が最近使われるようになりました。

 もののデザインを掘り下げて考えてみますと、素材があってイメージがあって記号があります。これら全部が結びついたものがデザインです。そこが芸術作品と違うところかなと思っています。服のデザインでいうと、木綿とか化学繊維とかいう素材があって、色とか手触りとか形とかカジュアル感とか高級感といったイメージがあって、それをブランドにする、そのブランド名が記号です。それによって、使ってみたいといった思いが高まるとしたら、それがデザインです。その考え方を地域づくりにも応用できないかなということです。例えば、馬のある地域をデザインして、実際にそこに行けば馬が見られる、体験活動ができるといったことで、文化を可視化する、スト-リー化することができれば、「開田高原は馬と野と花の文化」という地域デザインができると思います。そんな考え方を提案して、木曽町の役場の人たちとグランドデザインを考えています。

 

 

ここまでのまとめ  How? どう草原とつながるか?…3. 草原とつながり直す ②開田高原

伝統的採草地:   隔年で火入れと採草    希少な植物・昆虫が多い

新しい動き: 伝統的な草地管理を学び・再生 木曽馬の見える開田高原づくり

地域デザイン:    馬と野の花の文化   可視化・体験化・ストーリー化

 

 一地域のことだけでなく、もっと社会全体に広げられる発想につなげられればと思っています。

 ヨーロッパでは数十年前から田園回帰が進んできました。農村が大きく変わりました。その中で意識されてきたことは、伝統文化を単なる伝統文化で終わらせるのでなく、多くの市民に開放して現代に通用する文化活動にするということです。ヨーロッパでは、観光地として小都市や農村に、イタリアの場合はアグリツーリズモに向かっていきました。例えばスローフード運動はイタリア発祥の食文化で、伝統的な食文化を再生しています。ワインなど伝統的なやり方で作ったものを、農村に行って民宿に泊まって味わう、そういう新しい観光が生まれつつあります。そういった形で農村の地域づくりにつなげることができる、日本でもできると思います。その社会背景として、日本でも「もの」は足りているから、別のことで人生の価値を見出したいという意識の変化があります。

 

全体のまとめ  草原: 体験(コト)の価値を生む場 つながりを編み直す場

・自然と文化のつながり  

・過去・現在・未来のつながり

・農村と都市のつながり

 最後にご紹介したい言葉があります。渡辺 靖さんの『〈文化〉を捉え直す』岩波新書(2015)の中にある言葉で“対外発信の究極の目的は 「コミュニティづくり」である”という言葉です。そういう機会を提供する場として草原があると考えられます。

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第18回乙女高原フォーラム「コケの世界にようこそ」

2019年02月17日 | 乙女高原フォーラム

124名と、少なくともこの12年のフォーラムで参加者数が断然多かった今回のフォーラムの報告です。

  ここ何年かでフォーラムも「定型」が固まってきた気がします。もちろん、様々なバリエーションがあっていいし、その方が多様性があっていいと思うのですが、前年度を踏襲してぬかりなく準備できるし、なにより安定感があっていいです。

 11時半に市・県・ファンクラブのスタッフが集合し、準備を始めました。遠くからは小田原から。スライドプロジェクターの準備、山本さんが採取してきたコケの展示、資料閲覧コーナーの設置、受付事務の準備、湯茶の準備、講師の迎えなどなど。途中、注文していた弁当が届いたので、手の空いたスタッフから食べました。

 

 

  1時からフォーラムがスタートしました。司会は市の古屋課長。高木市長は所用のため開会には間にあいませんでしたが、途中でごあいさつをいただきました。高木市長は「自分も乙女高原を守る仲間の一人」という意識を持っていらっしゃいます。ありがたいことだと思いました。

 

  続いて、ウエハラに司会がバトンタッチされました。乙女高原ファンクラブの2018年度の活動を三枝さんがスライドを上映しながら説明。植原が補足でカヤネズミの存在を確かめるためのペットボトル・トラップ設置調査の結果を報告しました。山本さんからは乙女高原自然観察交流会の報告を、やはりスライドを写しながら。「乙女高原フェロー」の説明を山本さんにしていただいたあと(要するに、10個スタンプが集まると記念品がもらえるというカードです)、今回の乙女高原フェロー認定者に認定書と記念品のマグボトルをお渡ししました。今回フェローに認定されたのは、古屋保さん、雨宮浦さん、井上さん、大江さん、北谷さん、山井さんご夫妻、渡辺さん、いぶきちゃん、さきちゃんの10人でした。

 

 

  井上さんによるゲスト紹介の後、いよいよ藤井さんのお話が始まりました。

 

 

  【コケの世界へようこそ】

 

お話→藤井久子さん      文章まとめ→植原(よって文責は植原にあり)

 

 

 植原さんからこのお話があったのが10月で、その月は子どもが産まれる月でした。無事出産することができたので今日のこの日を迎えることができました。今日はコケとはどんなものかといった話をしたり、実際にコケをお持ちしましたので、それを皆さんといっしょに見たりしたいと思います。山梨市駅前に「道草」さんという屋号で、コケのテラリウムをなさっている石河(いしこ)さんという方がいらっしゃいます。石河さんのご協力でコケを用意させていただきました。最後に、コケを観察している人たちがどんなことを観察しているのか、また、最近のコケの動向についてお話をさせていただきます。

 私は兵庫県神戸市出身です。今日も神戸から来ました。大学を出た後、東京で本を作るプロダクションに9年半ほどいました。今は退職して、フリーランスで編集やライターの仕事をしています。就職していた編集プロダクションは食べ物、特にチーズやパンに特化したプロダクションで、今日のような機会にはコケのお話をしていますが、今も普段来る仕事はチーズとかが多いです。

 コケはまったくの趣味だったんですが、私が誰かにコケの話をすると、ほとんどの人から共感を得られない、話題がまったく膨らまないという現状に愕然としまして、「コケってこんなに魅力的な生きものなのに、知らない人がこんなにいるんだ」と思い、コケの魅力を多くの人に知ってもらいたい、知らない人は人生を損してるぞくらい、おせっかいな気分が高まりまして、仕事柄、本を作ってコケの魅力を伝えようと、2011年に『コケはともだち』という本を作りました。コケの本の企画を出版社に自分で持ち込んだのですが、ダメモトと思っていましたが、企画が通り、かわいい本となりました。入門書です。編集者の人もこの本がコケのように地味に細々と売れればいいと思っていたらしいですが、意外にも「私もコケに興味があって」という方がたくさんいらっしゃって、わりと反響がありまして、コケの話をしてくださいとか観察会をしてくださいという話をいただくようになりました。私は研究者ではないので、専門的な話はできませんが、コケに興味のある初心者に一番近い存在ということで、話しやすいと思うんです。それで、こういう場で話す機会をいただくようになりました。

 さらに、一昨年の春、『特徴がよくわかるコケ図鑑』という本を出しまして、以前はコケのことを話しても伝わらない膨らまない苦い思いをしていましたが、ここ5年間くらいなぜかコケが認知されてきていて、「コケが好き」とか「コケの観察会に行くんだ」というと、「ああ、コケねえ」「今ブームよねえ」「テレビで見たわ」という答えが返ってくるようになりました。実際に野外でコケを観察したい人が増えているなあと感じたので、そのニーズに沿ってこの本を作りました。また、私が持ち歩きたいと思える図鑑を作りたいと思ったので、初心者から中級者に向けて作りました。182種のコケを紹介しています。この本、今までに7刷りまでいってます。コケに興味のある人が増えたなあと実感しています。

 人に背中とお尻を向けて、うつむいてルーペでコケを観察しているというのが普段の私の姿です。近所でコケを観察していますが、時々、旅に出てコケを観察したいので、そのために普段一生懸命働いています。

 

 

■あなたのコケの原風景は?

 コケと聞いて、どんな風景を思い浮かべますか? 街の片隅でちょっとだけモコモコッとなっているとか、ブロック塀の壁面を覆っているとか、石畳の隙間に雨上がりは緑で目立つけど、普段はきたならしいなあ、みじめったらしいなあとか、植木鉢の中に知らず知らずのうちに生えてきていたりとか。チューリップやスミレだったら、散歩中の犬が踏んだら「ダメよ」と言うのに、コケだったら言わないとか。

 一方で、園芸が好きな方は、コケの盆栽だとかコケ玉だとか、最近人気の上がっているコケ・テラリウムだとかをイメージされるかもしれません。

 はたまた、神社仏閣を巡るのが好きな方、庭園が好きな方はお寺などのコケ庭をイメージされるかもしれません。山登りやアウトドアが好きな方は山登りの途中、森の中がコケのじゅうたんになっているのを思い浮かべるかもしれません。屋久島はコケの森にとして全国的に知られているところです。コケのふわふわのマットの上にたねが落ちて、木々の芽が育っていることもあります。

 

■コケは美しい?

 私がコケに目覚めたのは15年ほど前です。母といっしょに屋久島を旅行したとき、エコツアーガイドを頼んで森歩きをしたんですが、そのときにガイドをお願いしたのが屋久島野外活動総合センターの小原さんでした。この方がコケに詳しい方だったんです。屋久島といえば屋久杉というイメージが強いと思いますが、小原さんに「屋久島を知りたかったら、コケを見て」と言われたんですね。そして、足元のミズゴケを引き抜いて、手でミズゴケを握りつぶして、水が滴り落ちるのを見せてくれました。普通の植物なら引き抜いて、握りつぶしてしまえば元には戻りませんが、「このコケは大丈夫。スポンジみたいに水を吸い込んでいるんです。にぎるのをやめればコケのスポンジは元に戻るし、地面に戻せば、また生えます」と説明されました。それを聞いてヘーと衝撃を受けました。小原さんはさらに、「コケはサイズが小さいので気づかないけれど、コケにはいろいろな種類があって、ルーペで見ると美しい生きものなんですよ」と言われて、ルーペを持って、屋久島の森を歩きました。ヒノキゴケやヤクシマホウオウゴケ、コマチゴケ、ウツクシハネゴケ、白っぽいオオシラガゴケ、フォーリーテギバゴケ、赤いヤクシマゴケなどを観察しました。うずくまってルーペを使うと、今まで見たことのないようなミクロの世界に入り込むことができました。

 

■身近なコケはどうなの?

 屋久島から帰ってきて、ルーペと図鑑を買って、身近なコケを観てまわるようになりました。たとえばギンゴケ。このコケは都会のアスファルトが主なすみかです。都会のアスファルトというと、冬は乾燥が著しいし、夏は灼熱地獄だし、すごく過酷な環境の中で生きているコケです。コケを見ていると、だんだんコケに入り込みすぎて、コケが人のように見えてきます。ギンゴケは私にとっては、過酷な環境の中でしぶとく生きているコケなので、仙人風のキャラクターに見えてきます。半分は私の妄想なんですけど、都会のサラリーマンに「きょうもしっかりやりなよ」と話しかけているんじゃないかと思えてきます。

 ハマキゴケも乾燥に強いコケです。繁殖力も強いので、ギンゴケがきゅっとまとまって生えているのに対して、ハマキゴケはベターと平たく生えています。乾燥に耐えるためにクルッと葉を内側に巻いて耐え忍ぶんです。このとき、コケ全体が茶色く見えます。雨が降ると葉が開いて、きれいな緑色になります。霧吹きでシュッシュッと水をかけると、あっと言う間にそこだけ緑色になります。ハマキゴケは壁面に生えることもあるので、応用すると、霧吹きで文字を書いたり、絵を書いたりして楽しむことができます。

このコケは、私の中では「都会の緑化隊長」なんです。都会に緑を多くするからですが、ただ、乾燥すると勝手に茶色く汚くなってしまうので、そのキャラクターは歯がゆい表情をしています。

 ゼニゴケは乾燥に弱いです。ですから、エアコンの室外機の下や、一日中直射日光が当たらず、ジメジメしているようなところによく生えています。このコケは園芸をやっている方に嫌われています。どうにかして撲滅させたいという声をよく聞きます。でも、アップで見ると、ヤシノキみたいな形をしていて、コケなのに葉の下に黄色い塊が付いています。これは胞子のかたまりで、ここから胞子がフワフワッと飛んでいくんです。私の妄想ではこのコケは「都会の中で少子化反対を強く訴える夫婦(めおと)ゴケ」です。

 

 都会のど真ん中でもコケはたくさん生息しています。調べてみると、私の見てきたコケは都会派のコケ「アーバン・モス」でした。アーバン・モスとひとくくりにはしますが、好みの環境がそれぞれ違っていて、棲み分けていることがわかりました。見た目だけでなく、それぞれの環境でうまくやっていく処世術を身につけていて、それまで知ると、キャラクターに見えてきちゃうくらい、人の想像力を刺激する生きものなんだなと思いました。

 

 コケの魅力を小まとめします。

・コケは近づきさえすれば、そっとその美しさを披露してくれる。

・図鑑などを使ってコケの性格を知ると、コケが100倍おもしろくなる。

・ルーペと図鑑はコケの森にトリップするために欠かせない魔法の道具

 

 

■コケってどんな生きもの?

 コケは専門用語で蘚苔類(せんたいるい)といいます。蘚も苔もコケという意味ですが、普段、私たちが使うコケの漢字は「苔」ですよね。

 コケには蘚類・苔類・ツノゴケ類という3つのグループがあります。蘚類が一番大きなグループで、日本にはだいたい1000種類あります。苔類は600種類、ツノゴケ類は桁違いに数が少なくて17種類です。ツノゴケはレア・ゴケです。合計すると、日本全体で1700~1800種類です。世界では18000種類です。日本の面積は小さいのに、世界のコケの1/10は日本で見られます。日本はコケの豊富な国なのです。山があって川があって、まわりに海があってそれなりの湿度が保たれていて、さらに四季もあるので、コケにとってはたいへん住みやすい環境なんだと思います。

 コケと間違えやすい生きものがあります。シダ類や地衣類、菌類(きのこ)など。中には種子植物なのに間違えそうになるものもあります。特にシダ類のクラマゴケや地衣類のアカミゴケなどは、コケじゃないのに名前にコケと付いていて、ややこしいです。

 

 コケと他の植物などとの違いはなんなのでしょうか。それには4億5千万年前の世界を想像する必要があります。コケをカビや菌類と間違える人がいますが、コケは光合成をして生きています。つまり、植物なんです。カビなどの菌類は光合成をしませんから植物ではありません。コケは地球史上最初の陸上植物と言われることもありますが、正しくはそうではありません。水中の藻類から進化して、最初に陸上に上ったある植物がありました。そこから分化して、あるものはコケ植物に、あるものはシダ植物に、あるものは種子植物になりました。コケは陸上初の植物から早い段階で分化してコケになったので、シダ植物や種子植物に比べ、圧倒的にサイズが小さく、体の作りが簡素というのが特徴です。

 

 コケの体を見ていきましょう。

 コケは光合成をしているので、色は黄緑色から緑色です。これが必須条件です。シダや種子植物と違ってハイスペックではありません。茎はあっても、維管束はありません。根はありません。仮根がありますが、これは土から水分や養分を吸い上げることはなく、土や岩につかまっておくためだけのネットみたいなものです。じゃあ、コケはどこから栄養を吸収しているかというと、茎や葉など体全体からです。もともと、それほど栄養がなくても大丈夫です。雨水に溶けている栄養があればいいくらいです。つまり、コケは水と光があれば大丈夫、土がなくても生きようと思えば生きていける植物です。だから、アスファルトや壁面でも大丈夫です。

 

 コケの普段の姿は「配偶体」と呼ばれます。繁殖するために、時期になると配偶体の上に「胞子体」を作ります。コケは花を咲かせませんし、種子も付けません。代わりに胞子で増えます。胞子体には壺のような部分があって、時期が来ると、その蓋が外れて、中から胞子がばらまかれます。

 胞子はとてもちいさくて、ミリ以下です。たぶん、この会場にも胞子が漂っています。皆さんが食べているかもしれません。見えないので、気づきません。それが地上に舞い降りて、その環境が気に入ると、芽が出て、網目状に広がっていきます。原糸体(コケの赤ちゃん)です。原糸体が生長して、幼植物(子どものコケ)になり、さらに生長すると配偶体(大人のコケ)になります。コケの配偶体には雄株と雌株がありまして、雄株からは精子が出て、雌株には卵があって、受精をして、雌株から胞子体がニョキニョキと伸びて、胞子が壺状の蒴(さく)の中で成熟したら、また胞子が撒かれるという暮らしをしています。

 コケの受精には必ず水が必要です。種子植物だったら、虫が花粉を運んでくれるとか風で運ばれるとかしますが、コケは陸上最初の植物から早くに分化して、わりと原始的な性質が残っているので、水中に住んでいたときの名残がまだあって、水がないと受精できないのです。陸上に上がって、水が豊富な時はいつかというと、梅雨ですよね。梅雨になって雨が降ると、雄株の上に雨粒が落ちたときに、雨粒に精子が入り、その雨水が雌株にたどりつけたら受精できるのです。運次第の繁殖です。

 受精するとすぐに胞子体が出るというわけでもなく、コケにもよりますが、多くのコケは梅雨時に受精し、次の年の春に胞子体を出します。人間の赤ちゃんの十月十日と似ていますね。

 このように有性生殖が運頼みなので、無性生殖という繁殖手段を多くのコケが持っています。要は自分のコピーを、たねのようなものを飛ばしたり、体の一部をちぎって群落を増やしていきます。コケってモコモコしていますよね? コケが一本で生えていることはなく、必ず群落(モコモコ)になっています。コケはとてもサイズが小さいので、一本だけで雨粒を受け止めることはできません。だから、早く群落を作って、集団で雨粒を受け止めたいのです。集団で受け止め、それを繁殖のために保持していたいのです。それで、無性生殖で群落を早く作ろうとしているわけです。

 

 コケは雨が降らず、からからになったらそれで終わりというわけではありません。休眠してやり過ごします。種子植物は維管束があって、根から水分や養分を運んでいるので水が多少なくても生きていけるし、葉がそもそも固いので、葉から水分が逃げてしまうことも少ないです。一方、コケには根はないので、土から養分を吸収できないし、細胞がとても薄くて、葉が透き通るくらい薄いので、水分も簡単に蒸発してしまいます。なので、すぐにカラカラになっちゃうんです。でも、これでこのまま終わりではなく、そうしたときに光合成もやめて、寝てすごす術を持っています。

 雨が降ったら、すぐに元通りになり、雨上がりには光合成をします。天気にまかせて、成り行きにまかせて生きているのが、コケの大きな特徴です。他の植物はスペックが高いので、天気に抗い、無理して踏ん張って生きていますが、コケはもともと原始的な構造しか持っていないので、踏ん張りたくても踏ん張れない状態です。それで成り行きに任せて生きています。周囲の環境の水分によって、細胞中の水分の含有量が変わることを変水性といいます。コケの大きな特徴です。根がないことで土のない場所にも生えられる機能に加えて、この変水性のおかげで、コケ植物はほかの植物よりも地味で簡素で原始的で・・・とマイナス・イメージがいっぱいありながら、地球のあらゆるところ、どんな隙間にも生えることができるのです。何もないのに成功した植物と言っていいでしょう。

 

■あなたもコケを見てみよう

 

※ここで、石河さんに用意していただいたスナゴケ、石河さん・藤井さん・乙女高原ファンクラブで用意したルーペを配り、実際にコケ観察をしてもらいました。ルーペの使い方について藤井さんからレクチャーがありました。まずは乾燥状態のコケをじっくり観察してもらいました。乾燥ひじきみたいです。休眠状態のスナゴケです。さらに、霧吹きで水をかけてもらい、休眠から覚める様子も観察してもらいました。二人一組で、一人がルーペでコケを観察しているときに、もう一人が霧吹きすると、瞬間芸のように葉が開きました。

 

コケの魅力

 ・コケは日本に1700種、世界に18000種、どこに行っても出会える楽しみがある。

 ・植物の中では作りは原始的。だからこそ、ここまで生きぬいた、植物界の隙間産業。

 ・無理はせず、なりゆきまかせの平和主義者。つつましく、しぶとく。それがコケの人生哲学!

 

■コケ観察のいいところ

 コケ観察のいいところは3つの「ない」です。まず、「体力に自信がない」でもOK! コケはいたるところに生えていますので、山に登らなくても近所でも観察は楽しめます。2つめは「コミニュケーション能力に長けていない」でもOK! コケ観察をしていると無駄にコミュニケーョンとる必要がありません。それぞれみんなコケ観察に集中していますので、おしゃべりはかえって不要だったりします。3つめは、「楽しめる世代がボーダーレス」。異世代間交流で人生に刺激を! コケが好きな人は幅が広いです。私が顔を思い浮かべられるのも小学校中学年くらいから90代の方まで様々です。男女比でいうと、男性が若干多いです。コケガールというのはメディアが流しているイメージだと思います。コミュニケーション能力がなくても、コケの情報を交流したいので、世代に関係なく自然と会話が進みます。コケ好きな人には優しくて親切な人が多いので、わからないことがあると60代70代の人でも、20代30代の人に「判らないんだけど」と聞いちゃっています。コケのことを身近な人と話すことはありまないので、聞かれたほうも「それだったら」と親切に答えてあげます。コケの会なんかでは和気あいあいとやっています。知らない間に異世代間交流ができています。

 

 コケの情報をいち早く知りたいと思ったら「岡山コケの会」と「日本蘚苔類学会」という会がありますので、お勧めします。岡山・・は愛好会で、初心者でも入れます。「・・・学会」は基本的に研究者が集まって学会を開いたり論文を出したりという活動をしています。まじめに好きな人だったら、研究者の会ですが受け入れてくれます。私も入っています。毎年違う県で学会を開いています。そのうち山梨県にも来るかもしれません。

 

 岡山コケの会では、毎年11月、京都の府立植物園で「苔・こけ・コケ展」という企画展を開催しています。3日間の会期でのべ4000人もの方が来場してくださいます。写真やテラリウムを展示しています。コケのアートもあります。

 また、先々週には神戸で「KOBEきのこコケ展」が開催されました。テラリウムを展示しています。コケとキノコのコラボのテラリウムもありました。ワークショップでテラリウム教室もやっていますが、キャンセル待ちが出るほどの人気です。

 

 日本蘚苔類学会では「日本の貴重なコケの森」を認定しています。20箇所以上が認定されています。中には入山に許可がいるところもあります。皆さんにお勧めなのは青森県の奥入瀬渓流と長野県の北八ヶ岳、鹿児島県の屋久島の3箇所です。ここにはコケに詳しいガイドさんもいます。この3箇所が手を携えて、昨年、コケ・サミットを開催したそうです。それでちらしを作ったそうです。

 北八ヶ岳は標高でいっても乙女高原と同じようなコケが生えているんではないかと思います。ここでは春から秋にかけて毎月1回はコケの観察会をしています。山小屋で一泊しますから、コケ合宿の様相です。山小屋のご主人などが案内してくれます。昼着いて、午後、コケ観察会をします。夜はコケ茶会をします。山小屋でコケが刻印されたクッキーを作ってくださいました。次の日、朝から昼の帰りの時刻までコケ観察をします。ナンジャモンジャゴケという珍しいコケを観察しました。

 奥入瀬のいいところはアップダウンが少ないことと、車道の横に遊歩道と渓流があるので、車で途中まで行って見て、また車に乗って、見てと、足が悪い方でも安心して観察できるところです。ですが、もちろん、本格的なコケ観察ができます。おみやげ品としてコケのお菓子がありました。

 屋久島は私のルーツです。ガイドの方と深く仲良くなると、ちょっとルートから外れて、本格的なコケ観察をさせてもらえます。

 この3箇所には、それぞれ、ご当地コケ図鑑があります。基本的にご当地に行かないと手に入りません。

 

 日本の新たなコケ分化に海外の人も注目してくれています。取材されました。

 海外にもコケ文化がないか気になっています。スウェーデンにスギゴケ系のリースがあり、友達が買ってきてくれました。スギゴケで作ったほうきで暖炉の煤払いをすることもあったそうです。現在では使われていないのかなあと思いましたら、地方では作っている方もいるようです。ホームページを見つけました。

 

 壁面アートの記事が新聞に載っていました。コケが一面に生えている道路脇の広い壁面で、コケをうまく削って、ジブリのキャラクターであるとか、キノコとかの絵を作っているのです。サイトを調べてみると「何もないところから、なにかを生み出す」とあるのですが、私に言わせれば「そこにはコケがあるんですよ」というか「コケを削ってるんでしょ」と言いたくなります。「コケの汚れを利用してアートにしてしまう環境の優しさも相まって、良い」ともありました。

 福井県のコケ庭で有名な平泉寺のコケがむしり取られていたというニュースもありました。これは非難されていますが、コケアートだって、コケからしてみれば、むしり取られちゃうことにかわりはありません。何が正しいかは、人間社会での有益・無益、損得で決められてしまいますが、コケからしたら同じ。何が正しいんだろうなあと思いました。

 

 コケの人気が高まるとともに、コケを盗掘する人や心ないことをする人もいます。無許可で山からごっそり取って商売している人もいます。売られている商品の背景まで考えている人っていないと思うんです。だけど、そのコケがどこから来たのか、考える時期にきているだろうなと思います。

 コケを採るときは、まず目的。研究者は研究のために採ります。一般の人は調べたいからとか、趣味で採るということだと思いますが、それだったら、採取してもいい場所なのかを確かめる、根こそぎ採ると、せっかくその場所が気に入って生えているのに、生えることができませんので、少しだけ持ち帰って、大部分は残しておくようにしてください。コケが自力で修復できる程度の量にしてください。これらが岡山コケの会や蘚苔類学会でコケ採取のルールとして提唱していることです。

 個人の園芸を楽しむレベルではなくて、百貨店等でディスプレイとしてコケが使われる場合があります。大きい植物の引き立て役として地面にコケが使われているんです。コケ仲間と見たところ、いろいろな種類の植物がコケに付いていて、おそらくこれは栽培されたものではなく、山からごそっと採ってきたものだろうと思いました。ディスプレイが終わったら、どうなるのでしょう。廃棄されてしまいます。そういう背景を考える時期にきているなあと思います。

 コケを畑で栽培している農家の方がいます。良心的なテラリウム作家の方は、そういったところからコケを買っていたり、テラリウムで残った仮根や茎を利用して、そこから栽培したりしています。山でコケを採るだけ採ってしまうと、コケがなくなり、種子がコケに落ちて、そこを苗床として大きくなることもできなくなります。人間が自分の欲のために行動すると、山がダメになってしまうかもしれません。自然にできるだけ負荷をかけないコケとの付き合い方、自然との付き合い方ができればいいなあと思います。

 

 コケ図鑑の奥付に井沢正名さんの言葉が載っています。植原さんも「図鑑を読んで、奥付のところが心に響いた」といってくれて、すごくうれしかったです。

「研究や趣味などで、コケを単に知的好奇心を満足させるだけだったり、慰みものにしたりして、終わりにしてほしくありません。生態系の中の重要な要素として捉えてもらいたいと考えています」

 

  ※      ※       ※

 このあと、QandAの時間を取り、閉会行事の中で乙女高原ファンクラブ代表世話人 古屋さんからお礼のあいさつがあり、世話人 芳賀さんから諸連絡があり、フォーラムを無事終了しました。

 

 

 片づけ後、スタッフや希望者と茶話会をしました。25人もの方が残ってくださり、交流しました。

 また、この日は夕方から駅前の居酒屋さんで懇親会も行い、6人で楽しく飲みながらお話しました。

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第17回乙女高原フォーラム「乙女高原、小さな哺乳類(なかま)たちの暮らしぶり」

2018年01月28日 | 乙女高原フォーラム

乙女高原、小さな哺乳類(なかま)たちの暮らしぶり
北垣さんをお招きして、17回目の乙女高原フォーラム開催

 1月28日(日)11時半がスタッフ集合時刻だったのですが、それより前に集まってくださった方がとても多く、少しずつ準備を進めてくださったので、集合時刻にはだいたい仕事は片づいてしまいました。会場の後ろには県のFSC森林管理認証の展示、乙女高原ファンクラブの報告書や会報の閲覧場、北垣さん関連本のコーナーなどをしつらえました。

 

垂れ幕や横断幕の準備、パソコンの準備、受付の準備を済ませ、参加者を待ちました。

 


 開会行事は市観光課・穐野課長さんの司会で始まりました。高木市長さんのあいさつは、前半は事務方が考えた原稿でしたが、「さて、ここまでは用意してもらった原稿を読みましたが・・・」と、後半は自分のコトバで乙女高原とご自分との関わりや乙女高原を保全する意義をお話してくださいました。

 


 ここからは植原がバトンを引き継ぎ、三枝さんから「ファンクラブの活動報告」、山本さんから「乙女高原自然観察交流会と夏の案内活動の報告」という2つの報告をお聞きしました。続いて、今回が初めてとなる「乙女高原フェロー」の認定式です。「乙女高原の活動に10回参加してスタンプをもらう。ただし、遊歩道作り・草刈りボランティア・フォーラムは必ず参加」というのが乙女高原フェローです。もっとも、今年度、草刈りボランティアは雪のため初めて延期しましたから、延期された草刈りへの参加者だけでなく、事前申し込み者も草刈りボランティア参加者として認めることにしました。今回、栄誉ある「初フェロー」として認定される方は6人いたそうです。代表して岡崎さんと鈴木さんに、代表世話人である三枝さんから記念品であるマグ・ボトルが贈られました。
 その後、植原から「乙女高原で見つかったナゾの地上巣という報告をしました。あとに続く北垣さんのお話の前座となるお話です。じつはそれ以前にも見つけたことはあったのですが、2016年の草刈りボランティア時に、草の繊維を細長くちぎって丸めてできたフワフワの巣が見つかり、大盛り上がりになりました。その後の観察で、乙女の草原内に50個以上の巣が見つかりました。私たちは、その巣がカヤネズミのものではないかと疑いました。カヤネズミはカヤ原に住んでいて、大人の体重が500円玉と同じくらい。日本で一番小さなネズミです。カヤネズミはススキやオギなどいわゆるカヤの茎の上に、草を細長くちぎって丸め、まるで「ソフトボールが空中に浮かんでいる」ような巣を作ります。乙女高原で見つかった巣はススキの株の根元に作られた地上の巣ではありますが、形といい大きさといい、茎上の巣に酷似しています。それに、外国の本には「カヤネズミの巣の探し方」として、カヤ株の根元を広げてみるようにとあります。カヤネズミの分布域をみると、シベリヤや北欧も含まれ、冬の厳しい乙女高原で見つかってもおかしくないと思われます。また、乙女高原と同じような富士山麓のススキ草原で、カヤネズミの巣が見つかっています。
 巣の主がカヤネズミであるかどうかを確かめるために、巣の中をたんねんに探して見つけた糞をDNA分析したり、草原の中にトラップを仕掛けてネズミを捕獲しようとしたりしています。まだ結果は明らかではありません。カヤネズミがいるかどうかもはっきりしませんし、巣の主がカヤネズミでないとしたら、いったい誰なのかもはっきりしません。それで、多くの皆さんとこの謎を共有し、一緒に調べていきたくて、今回のフォーラムのテーマにしたというわけです。
 さて、いよいよ北垣さんのお話です。小林さんにプロフィールを紹介していただいた後、動物たちの画像(なんと動画もあり!)を見せていただきながら、北垣さんのお話をたっぷりお聞きしました。
 北垣さんのお話が終わったところで、会場からの質問に答えていただき、マイクを司会の穐野さんにお渡ししました。お礼のあいさつはファンクラブ代表世話人の三枝さんから。熱のこもった長いあいさつでした。そして、諸連絡を芳賀さんにしていただき、フォーラムのプログラムを全て終了しました。会場の片づけを終え、部屋を移して茶話会を行いました。20人くらいの方が参加してくださり、お茶を飲みながら、楽しく情報交換をしました。参加してくださった皆さん、ありがとうございました。(植原)

 

北垣憲仁さんのお話 「小さななかま(哺乳類)たちの暮らしぶり」

 

 

ここから先は北垣さんのお話を再現します。とはいえ、聞いていてよく判るお話でも、そのまま文章にしたら、判りにくくなることがあります。そこで、北垣さんのお話の主旨は変えずに、読んで判りやすいように植原が少し編集しました。従って、以下の文章の文責は植原にあります。

  今日の私のお話ですが、まず、現場で観ると何がおもしろいのかといったことをお話しようと思っています。動物の行動や生態の研究は、飼育すれば判ってしまう部分が確かに多いのですが、わたしはそれをしません。それはどうしてか? 非常に長い時間がかかってしまうのですが、なんでわざわざフィールドで観ることに意味があるのか、また、楽しいのか。何が大切なのか。そんな話をしたいと思います。二つ目に、乙女高原と周辺の生きものたちをご紹介したいと思います。当然、乙女高原とその周辺には大型の哺乳類も生息しています。ですが、今回はモグラの仲間とネズミの仲間をご紹介したいと思います。日本のモグラとネズミは種類が豊富で、それは日本の哺乳類の特徴なんです。そして、三番目に乙女高原の草原にあった巣についてです。だれがつくったのかも含めてお話します。最後に、身近な哺乳類を観察する魅力の話をします。私は特別珍しい動物を研究しているわけではありません。ごく身近な、あまり関心を持たれないような、場合によっては嫌われたりする生きものを観察しています。そんな身近な、ありふれた哺乳類を観察する魅力をお話したいと思います。

■1――フィールドでの観察の楽しみ
 大学に入ったばかりのころは、私も研究者というものに憧れが強くて、動物を捕まえて、そこの森に何頭ぐらいいるかを計算したりするのが面白い・・・という時期がありました。でも、途中であんまり面白くなくなってきたんですね。どうしてかというと、トラップというわなをかけていくのですが、当然、中に哺乳類が掛かります。やっていると、捕まえるのがうまくなりますが、それ以上のことはありません。小さな動物ですから、トラップに掛かると2~3時間すると餓死してしまいます。精神的にも混乱し、死んでいくわけです。だから、2時間おきぐらいに見回らないとダメなわけです。そうすると、周りの森の様子や風の冷たさや匂いなんかを感じながら楽しむということはとてもできません。集めること、捕らえることに集中するからです。当然、捕まえた動物のことはよくわかります。だけど、森を楽しむことはできない-そこにジレンマを感じました。
 私が大学に入って最初に関心を持った動物はカワネズミです。名前にネズミが付きますが、モグラの仲間です。標本しかなく、実際に自分の目で見たことはありませんでした。しっぽが長くて、川の中で暮らしているらしいといった情報しかありません。福島でサンショウウオ漁をやっていると、しかけの中にカワネズミが入るらしいという話を聞いたので、授業を休んで行ってきました。そこでの経験が、その後の私の見方考え方を変えていきます。
 山の中の川に沿って歩いていきます。地方に行って、人について山を歩くのは初めての経験でした。動物を研究しているくせに、山を歩く経験はあまりなく、山の歩き方を知りませんでした。山の歩き方を教えてもらったのは、この漁師さんからでした。いつも山を歩いているので、当然、どこを歩けばいいか知っています。自分の山に慣れ親しんでいるので、いろんなものが見えています。この植物は○○で、この植物は食べられるとか。それだけでなく、今年はネズミが多そうだから、この先でキツネがずいぶん出没しているはずだなど、先のことも読めているんですね。そういうことを聞いているうちに、森を歩く楽しみというのは、「慣れ親しんでいくうちに、いろんなことが見えてくることだ」と教わりました。これが「フィールド」なんだと私は解釈しました。そして、自分のフィールドを大切につくっていこうと思いました。ですから、この時以来、動物を捕るのはやめました。
 漁師さんは生活の一部が山を歩くことですから、山での経験が生活に生きているわけです。自分が学んだことが生活に生きてくる・・・これもすごいなと思いました。ともすれば、普段の生活と自然とは距離があるので、自分の生活の中に自然の中での経験を活かすことがなかなかできないのですが、この時初めて、自然での経験、自然から学んだことを自分の生活に活かすことの大切さを学んだ気がしました。それは、抽象的な「自然との共生」といった言葉ではなくて、自然とどうやったらうまく生きていけるかということを実践できる人間になっていくことだと思いました。
 漁師さんは川の中にわなをかけていきます。サンショウウオは産卵のために川を下ってきて、わなに入るようになっています。ハコネサンショウウオです。漁師さんはこれを生活の糧にしていて、いなくなると生活できないわけですから、サンショウウオを守るためにはどうしたらいいかを、日々の暮らしの中で実践されているわけです。小さなものは逃がすとか、川の中の浮き石は踏まないとか。浮き石の下にはサンショウウオがいますから。石は石なんですが、本人はちゃんとその意味を読み取って、適切な行動を取っているわけです。すごいなと思いました。私は、捕るのはもうやめて、じっくり観て、生き生きとした姿を観察する研究スタイルにしようと思いました。
 そこで、フィールド(=いつも通える場所、慣れ親しむ場所)を作ることにしました。いきなり土地を借りて小屋を作りました。大学3年の時です。研究って一人ではできないんだなと実感しました。土地を貸してくれる人や小屋の作り方を教えてくれる人がいないとダメです。いろんな人の協力があって、初めてフィールドができるということを学びました。今もここに通って、観察を続けています。ただ、ここは森の中ですので、それだけでは飽き足らなくなって、今度は草原の動物も観察したいと思い、休耕田を借り、納屋を改造して、観察小屋にしました。カヤネズミの観察をしているフィールドです。これらの小屋に寝泊まりしながら動物の観察をしています。
 フィールドを持つことによって、いろいろなことが見えてきました。それまで、私はトラップで動物を捕ることに夢中になっていましたが、その時には見えなかったいろいろなことが目の中に入ってくるようになりました。つまり、自分の感覚がいかに鈍っていたかを思い知らされたわけです。カヤネズミのはやにえ(モズがカヤネズミを捕まえ、木の枝に刺しておいたもの)を初めて見つけました。モズにはカヤネズミがちゃんと見えています。私には見えていません。昼間、枝に止まっているコウモリも初めて見ました。それまで、見過ごしていたと思います。こんなに面白いものがたくさんあるのに、私は気づかず、見つけられずにいたんです。それが、少しずつ自分が世界とつながっているのを実感できるようになってきました。それがフィールドの面白さだと思います。
 二つに割れたクルミの実がありました。リスが割って食べた跡です。本にも出ています。それは縦に割っていますが、横に割って食べた跡も見つかります。リスが食べたかどうか判りません。いったい誰がどんなふうに割ったのか・・・?
 巣箱の中にムササビの親子がいました。親が仰向けで寝ています。赤ちゃんも、仰向けで寝ていました。動物が仰向けに寝るのは非常に珍しいです。お腹を見せるというのは非常に危険な行動です。お腹は一番柔らかい部分です。天敵にやられれば、間違いなく死んでしまいます。だから、普通、動物はお腹を見せる行動はしません。ですから、このムササビの仰向け行動は訳あってのことだと思います。まず、巣の中が安全だということを親が認識していること。それから、ムササビは平べったいですから、仰向けになると授乳しやすいということがあります。膜には縁がありますから、ムササビの子がそこから落ちないという利点もあります。しっぽもふとん替りをしています。子どもにかけてやっています。ルーズな寝方に見えますが、合理的・効果的な寝方なんですね。
 このように自分のフィールドを決めて、何度となく訪れるうちに、普段気づかなかったことを教えてもらえます。世界がだんだん広がっていく感じです。一気に広がるという感じではありません。毎日毎日わくわくする発見があるわけではありません。地味なんですけど、少しずつ、世界が広がっていく感じです。本日の乙女高原の報告を聞いていても、世界が広がっていくのを感じてらっしゃるんだろうなと思いました。

 

 

■2――乙女高原とその周辺の哺乳類
 フィールドでの観察を手間の掛かる手法でやっていますので、あまりたくさんのことは判っていないのですが、観察の面白さも含めてお話させていただきます。合わせて、私の経験をもとにした観察の方法もご紹介します。

◎カワネズミ
 乙女高原に川はありますか?当然、カワネズミも住んでいると思います。水が滝のように流れていて、淵があり、また滝がある・・・というのを繰り返しているようなところです。カワネズミはそんなところに住んでいると教わったので、そんな場所を都留で探しました。そのうち、川岸の石の上に糞がまとまってあるのに気づきました。顔を近づけると強い臭いがします。臭いだけでカワネズミと断定できないので、夜、行ってみました。そうしたら、糞をしているカワネズミに出会えました。なぜ川岸の石の上にまとまった糞をするのかは謎ですが、この糞はカワネズミがいる証拠です。川岸を探すと点々とありますので、ぜひ見つけてみてください。
 モグラの仲間なのに動きが速いです。モグラと同じでカワネズミって目はほとんど見えないのに、ちゃんと魚を捕まえます。目はほとんど見えないのに、なぜ自分と同じくらいある魚を捕まえられるか不思議です。魚に一度食らいついたら離さず、魚が弱るのを待ちます。陸上だったら餌を捕まえたらすぐに持ち運べばいいのですが、水中という不安定な場所ではそうはいきません。カワネズミの狩りの知恵とも言えます。また、定説だと魚の頭を捕まえることになっていますが、魚のしっぽに噛みつくのも見ています。どこでも噛みついたら離しません。このような行動や生態は飼育していたら判らないですよ。飼育するとカワネズミはストレスを感じて、死んでしまったり、異常な行動を取ったりします。どうやってカワネズミが川の中で魚を捕っているのかを知ろうと思ったら、「観る」ことが必要です。
 カワネズミの狩りの様子を観察しやすくする装置を作りました。といっても単なる水槽です。水槽の中に川の水をパイプで引き入れて、魚を入れておき、カワネズミが来るのを待つ・・・というただそれだけです。カワネズミの観察を始めて10年目もたってから、水槽を使えばいいことにやっと気づいたのです。これを使うとカワネズミがどうやって魚を捕まえているかがよく判ります。カワネズミが登れるように水槽の横に斜面を作りました。それを登ってカワネズミがやってきます。みると、鼻先のひげが立っています。このひげが重要なのです。水中でもひげが開いていて、アザラシのようです。目はほとんど見えませんから、おそらく、鼻やひげの力を使っているのだと思います。
 カワネズミが来るのを水槽の前でみんなで待つという観察会も行っています。待つ時間はまちまちなのですが、実際に見えると感動しますよ。彼らが住んでいる実際の場所で、風を感じながら観ていると、その生きものがどういう力を持っていて、それをどのように発揮するかが本当によく判ります。

◎ヒミズ
 皆さんの親指くらいのサイズです。世界でも最小クラス、カヤネズミと同じくらい小さな哺乳類です。落ち葉の層にいます。乙女高原の草原にもいるはずです。トンネルを作ります。地面に板があったので、それをどかしたら、ヒミズのトンネルが出てきました。それを応用し、地面にガラスを置きました。そうすれば、その下でヒミズがトンネルを掘っている様子が観えます。モグラも同じようなトンネルを作りますが、大きさが違います。ヒミズは直径3㎝くらいで、モグラはもっと大きいです。毛並みがとてもきれいです。青みがかっていて、金属光沢があり、ビロードのようです。
 モグラの仲間は普通ミミズが主食ですが、私たちが置いたヒマワリの種にも十分反応しました。トンネルを進んできたヒミズは途中でバックしてターンします。ここがポイントです。トンネルの中は原則一方通行しかできませんが、トンネルの中でターンできるのは地中生活を送る動物の大きな特徴です。ネズミにはできません。

◎ヒメヒミズ
 ヒミズに似ていますが、住んでいる場所が違います。溶岩や岩場です。乙女高原でも標高の高いところにいると思います。大きさはだいたいヒミズと同じですが、ヒミズがお腹をべったりと地面に付ける感じなのに対して、ヒメヒミズは丸っこいです。後ろ足で立つことができます。後ろ足で立つことができるということは、地上に出てくるということです。地面の下も地面の上も両方活用できるということです。大人の親指サイズです。鼻を観てください。ゾウの鼻みたいに見えます。自在に動いて、鼻でものを集めて、つかんで口元に持っていきます。

◎モグラ
 冬場にモグラ塚というのができます。見ると、草原の中に塚がまとまっている箇所があります。まとまり一箇所分が一頭のモグラの分です。モグラは縄張りを作るので、一頭の縄張りがどれくらい広くて、どれくらいの量の土を出しているかが判ります。地面の下には広大なトンネルが隠れているはずです。一つのモグラ塚の土はだいたい7㎏。1冬で1頭が1tくらいの土を耕していることになります。モグラは農家から嫌われていますが、本当は地面を耕している動物なのです。モグラのトンネルの断面はまん丸ではありません。ちょっと偏平、楕円形です。それがモグラ類のトンネルの特徴です。指が3本入るくらいだとモグラのトンネルです。関西にはもっと大きいコウベモグラがいて、指4本くらいの直径ですが、乙女にいるモグラは3本です。一方、ネズミのトンネルは断面がまん丸です。どうしてかというと、体のつくりが違うからです。真ん前からみると、モグラは偏平で、その形に合わせてトンネルを掘っていきます。
 モグラはいったんトンネルを作った後、そこから天敵が入ってこないように埋め戻しをします。だから、春、乙女高原に行くと、地上に土のかたまりが観られると思います。それらは、たいていモグラが土を埋め戻した跡です。
モグラを観察することはほとんど不可能です。昼間、顔を見せることはないし、道の上を歩いているわけでもないからです。でも、装置を工夫すると観ることができます。モグラ塚を一つ、崩してならします。その上に板を載せます。待っていると、板の下にトンネルができます。トンネルができ始めたら、板の代わりにガラスを置いて、夜、観察すると、モグラの観察ができます。静かに観ていれば、想像とは違うモグラの姿を観ることができますよ。たとえば、トンネルを進んでいる時、モグラの体って、ぐーっと伸びるんですよ。
このようにちょっとした工夫で目の前で野生動物の観察ができます。どうしてこんな工夫をするかというと、動物のほうは無理に出てきているわけではありません。自然な形で出てきているわけです。観察する動物にあまりストレスを与えず、相手の生き方を尊重しながら観察することができるのです。ただ、私たちがフィールドに出ること自体が動物たちにとってはストレスになるので、入り方や付き合い方を考えなくてはなりません。私たちの課題です。

◇ネズミの仲間
 ネズミの仲間は非常に種類が多いです。哺乳類はだいたい4000種くらいいますが、そのうち40%、1600種くらいはネズミです。日本には17種類もいます。ネズミの特徴は暮らしている環境の多様さです。土の中にも、草原にも、樹上にもいます。もう一つの特徴は食べ物の幅広さです。木の実、草の種。雑食。それから、多産であるというのも特徴の一つです。
 草原に住んでいるネズミは、おもに3種類だけです。カヤネズミ、ハタネズミ、沖縄にいるハツカネズミ。家の中に入ってきたネズミというのもいます。クマネズミ、ハツカネズミ、ドブネズミ。嫌われ者ですが、ネズミの中のパイオニアです。もともと野外で暮らしていたものが、人の暮らしの中に入ってきて、生活を成り立たせています。
 ネズミは見分けるのが難しいです。私も始めのころは判りませんでした。でも、見慣れると判ってきます。ヒメネズミは体に比べ耳や目が大きく、鼻がとがっています。アカネズミは、ヒメに比べ鼻面が太い感じがします。シャープな感じではありません。感覚的なんですが、見慣れると、区別がつくようになります。

◎ヒメネズミ
 木登りが得意です。乙女高原の林の縁に生息し、草原の中にも入っていると思います。親指よりちょっと大きいくらいのサイズです。ヒメネズミはツリバナの実が大好きです。ツリバナは赤い実を付けますが、その下で待っていると、ヒメネズミがやってきます。両手でツリバナの実を取ります。ネズミの仲間は必ず両手でものを取ります。
 ネズミが賢いかどうか迷路を使って行う実験があり、ネズミはあまり知能がないと評価されています。ですが、フィールドで観ていると、適切な枝を選んで、どうすれば実を取れるのかしっかり判断しています。ネズミの暮らす環境に置かれれば本来の能力を発揮します。本来の環境と切り離して実験するのはあまり意味がありません。切り離されて迷路の中に入れられても、ネズミは混乱するばかりです。それで本当の能力を計ろうというのが無理です。自然の中で観ることにこそ意味があるんだと思います。ツリバナの食痕が見つかったら、ヒメネズミがいるなと思ってください。

◎アカネズミ
 日本固有種。歯がちょっと赤いのが特徴です。ウサギなども似た形の歯をもっていますが、赤くはありません。赤いのは、歯のエナメル質に鉄の成分が入っているからです。門歯は伸び続けるので、固いものを齧り続けなければなりません。食事をする場所は決まっていて、木の根元などの空間です。そこにクルミの実がかたまってあったら、食事場所です。
 クルミの実に丸い穴を開けて中身を食べます。クルミの実を二つに割って食べるリスの食べ方と違います。アカネズミの場合、クルミに必ず2つの穴を開けて、中身を食べます。しかし、ウメの種の場合、1つしか穴を開けません。ウメの種と違ってクルミの実の中には仕切りがあります。仕切りに当たると、その裏にまだ食べ物があると判るんでしょうね。いろんな実を集めると、こういったことが判ってきます。そして、ネズミの賢さに改めて気づかされます。

◎カヤネズミ
 カヤネズミの巣は草原に作られます。おもしろいですね。これだけたくさんのネズミがいながら、草原をすみかとしたネズミは日本では3種類だけです。草原で暮らすことは、小さな哺乳類であるネズミからみると、森の中で暮らすようなものです。身を隠すこともできます。葉っぱの上に出てくるには、体を軽くする必要があります。哺乳類は昆虫とは違って、一般的に体を大きくする方向へと進化してきました。でも、カヤネズミは逆で、体を小さくしました。そうやって草原で暮らしていけるようになりました。
 アカネズミやヒメネズミと違って、体のラインから耳がはみ出ていません。 しっぽが長くて、何かにつかまったら、そこを支点にして、体をブランコのようにすることもできます。とても機能的なしっぽです。
目が前を向いています。森の中の動物はたいがい目が前に付きます。ムササビは特にそうです。木までの距離を正確に計らなければならないからです。人間も同じですよね。立体視しています。カヤネズミの目が前に付いていることから、カヤネズミにしてみれば草原ではなく森に住んでいるようなものだろうと思います。
 カヤネズミの子は毛並みの色が濃く、赤っぽいです。本当に暑い時期、7月下旬とか8月上旬になると、草原に出て、葉の上でひなたぼっこしています。草原の中をゆっくり歩くと、見つけることができますよ。
 カヤネズミを観察していると、おもしろい行動に出会えます。動いたり止まったりを繰り返します。普通のネズミとちょっと違います。一瞬止まる行動をフリーズといいます。向こうからアカネズミなんかがやってくると、本当に体の動きをピタッと止めます。息を殺しているようです。樹上に生きる動物、たとえばリスもフリーズをします。天敵がやってきたりすると、ピタッと動きを止めて、身を隠します。お尻をこすりつけるような行動をとることがあります。何をやっているのか、どんな意味があるのか、よく判りません。リスもやるんです。木の上にペタッとなってお尻をこすりつけます。匂い付けではないかと思っています。観察中に、私が大きな音を立ててしまったことがあります。すると、カヤネズミはポロッと落ちてしまいました。これは、天敵が近づいた時にとる、緊急避難の行動です。しっぽを草に巻き付けることができますから、取りたいものが下にあっても、上手に取ることができます。
カヤネズミは普段は草の実などを食べています。タンポポの種が大好きで、カラスノエンドウの種も食べます。昆虫を食べるという記録もありますが、私はまだ観たことがありません。フィルムケースに小鳥用の餌を入れて、そこに出てきたカヤネズミを観察することがあります。アカネズミなら一晩で1ケース分食べてしまいますが、カヤネズミは上の方5㎜ほど食べたらもう満腹です。逆に、食べた量からカヤネズミかどうかを推定できます。不思議ですよね。小さな植物の種を食べながら、寒い環境でも暮らしていける小さな哺乳類というのは、いったいどういう暮らし方をしているんだろうと思います。本当に謎が多いです。
 冬の間は土の中にいます。私が観察していると、土の中から出てきます。ただし、カヤネズミはトンネルを掘れるような体のつくりをしていないので、どのように他の生きものと共存しているのか、棲み分けているのか、よく判りません。私がフィールドにしている草原にはカヤネズミの他にアカネズミやハタネズミが住んでいます。ときどき、ヒメネズミやドブネズミもやってきます。いろんなネズミたちが入り乱れていますが、その中でどうやって暮らしを成り立たせているのか、まだよく判りません。

◎ハタネズミ
 ハタネズミのトンネルは断面が直径3㎝くらいの丸いトンネルです。ハタネズミはトンネルを掘ります。農家の方がよく「野菜を食べられた」とおっしゃいますが、モグラではなくハタネズミです。ハタネズミは野菜が大好きです。ハタネズミはササが生えている下によくトンネルを作ります。ハタネズミの発生には波があって、大発生する年があったり、まったくいない年があったりします。巣は土の中にあります。巣にはササの葉を取り込んで裂いています。そんなに細かくは裂いていません。私はハタネズミが葉を細かく裂いて作った巣というのを観たことはありません。ハタネズミの体の特徴はしっぽが短いことです。色はバリエーションがあり、褐色が強かったり、グレーが薄かったりします。目や耳は小さいです。ハタネズミは日本にしかいないネズミです。
 ハタネズミに似たネズミに、聞き慣れないと思いますが、スミスネズミというのがいます。昔はカゲネズミと言われていました。住んでいる場所が重なることもあるので、もしかすると、乙女高原にもいるかもしれません。スミスネズミは、よく見るとハタネズミとは違います。色はバリエーションがあるので、識別の決め手にはなりません。ハタネズミに比べて、目も耳も少し大きいです。前から見るとまん丸で、しっぽが長いです。あんまりものおじしないので、こっちが静かに観てさえいれば、わりと簡単に出てきてくれますし、自然な行動が観察できます。岩の隙間や木の下が大好きです。

 

 

■3――乙女高原で見つかった巣のナゾ
 巣の作り方は動物によってだいたい決まっていますが、バリエーションがありますので、見つかった巣が何なのか決めつけるわけにはいきません。哺乳類は自分の巣を大切に作りますから、ムササビのような大きな哺乳類でも、スギやヒノキの樹皮を細かく裂いて、自分たちの寝床や子育てのベッドにしています。保温性が高くて、快適な巣です。 ヤマネは巣の中にスギの樹皮やコケを入れて作ります。鳥の巣箱を掛けておくと、中に落ち葉がいっぱい入っていることがあります。ヒメネズミの巣です。ヒメネズミは、中で巣材を細かく裂くことはありません。落ち葉を持ち込んで、そのまま保温剤として使いますので、葉を裂いて巣を作るカヤネズミとは違います。
 カヤネズミの巣は、イネの葉で作られることもあります。スゲにも作ります。ハンモックのような巣です。出入りする穴がありますが、ヘビなどの天敵が入ってきても逃げられるように、1つではなく2つの場合が多いです。3つ作ることもあります。中にススキの穂を入れることがあります。しっかりした二重構造で、外はススキの葉、内側はススキの穂の巣です。ここで子を産み、育てます。
 乙女高原に似た草原である富士山麓の梨ケ原では、毎年ではありませんが、野焼きをします。野焼き後に探すと、乙女高原で見つかったのと同じような巣が見つかります。土の中で見つかることもありますし、ススキ株の内側で見つかることもあります。地上に出ている巣もあれば、半分埋もれているものもあります。地下に埋もれている巣には出入りするための穴が開いています。そして、不思議なことに、まわりにトンネルがあるんです。繰り返しになりますが、カヤネズミはトンネルを掘ることができません。
 富士山麓で見つかる巣には、特徴があります。第1に、見つかる年と見つからない年があるということです。見つかる年にはまとまってたくさん見つかるのに、翌年、同じように見つかるとは限りません。第2に、地上にできた巣と半地下にできた巣がありますが、半地下にできた巣の下にはトンネルがあって、巣の穴とつながっています。その巣は、秋から冬にかけて作られるようです。夏は見つからないのですが、あまりにも草が繁ってしまって見つからないのかもしれません。でも、秋になると見つかります。一方、梨ケ原には地表の巣はありますが、ススキの上の方にはできません。この5年間で茎上巣は1個しか観ていません。どんな動物がこれを使っているのか観察して確かめました。地上の巣を使っていたのはカヤネズミでした。しっぽが長く、目が大きくて、子どもではなく大人の毛色でした。一方、半地下の、下にトンネルができていた巣をどんな動物が使っているかは、まだよく判りません。ナゾです。

■4――身近な哺乳類を観察する魅力
 私は、このような時間がかかる方法、原始的な方法でしか観察してこなかったので、皆さんにその魅力をあまり伝えられなかったかもしれませんが、哺乳類は感情移入しやすくて、気持ちを読み取りやすいということがあります。それから、誰でも参加できます。観ればいいのですから。別に学問に寄与しなくてもいいわけですから。
 自分の感覚が観察によって鍛えられていくと、楽しい世界が広がります。私も、どちらかというと、研究というよりも、喜びを感じる方に主眼を置いています。レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」と言っていますが、「神秘な驚異に目を見張る力」とでもいうでしょうか、そんな感性を、私は動物の観察を通して鍛えていきたいと思っています。私自身の感性がにぶっているので、他の方々と一緒に観察して、学びあいたいと思っていて、それが支えとなって、いろいろな観察の工夫をしてきました。まだまだ課題はありますが、どうしたら、相手の生活を脅かすことなく、その不思議な世界に近づくことができるのか、それを通して、自然とのうまい付き合い方を考えていくというのが、私が考えているフィールド・ミュージアムというものです。そんなことを皆さんと一緒に考えていけたらと思っています。
 私は、これからも乙女高原の活動に刺激を受けながら、私自身のささやかな取り組みも継続させていきたいと思っています。せっかく皆さんとお会いできたので、また、どこかでお会いしながらお話できるといいなと思っています。大学ではムササビ観察会もやっていますので、ぜひ一緒に観ましょう。ありがとうございました。

◆Q:スズタケ(笹)の花が咲くとネズミが増えて、天敵であるフクロウやキツネが増えるということを聞いたことかありますが、研究事例はありますか?

A:笹の花が咲くと、その年の秋からハタネズミの仲間が増えるという記録はあります。その翌年に地面から出てきた笹の茎を見ると、上部が齧られたものが出てきます。鋭い食べ跡ですが、ノウサギのものとは違います。そんな観察をしてみたらいかがでしょうか。

◆Q:モグラは太陽の光を浴びると死んでしまいますか?

A:じつは今日、モグラの剥製を持ってきているのですが、それを出すのを忘れていました。観てみてください。梨ケ原で観た巣も持ってきました。乙女高原のものと同じではないでしょうか。モグラが日を見ると死んでしまうというのは事実ではありません。モグラが路上で死んで転がっていることがあるのは、モグラは単独性なので、子どもができて、大きくなると、親のなわばりから離れて、自分の縄張りを作るようになります。その移動している間に、キツネにやられたりするからです。トンネルを掘って、一から自分のすみかを作っていくのはすごい労力です。だから、モグラは自分で作ったトンネルをとても大事に使います。

◆Q:もし、本当に乙女高原で見つかった巣がカヤネズミのものとすると、どうして、ぼくらのフィールドで見つかる巣はカヤの上の方で、乙女高原のは地表なんでしょうか? あと、コウモリの種類を知りたいです。

A:ススキの上に作るのが一般的なカヤネズミの巣です。ところが、標高が高くなると、そうではないようです。それが不思議です。梨ケ原は広いススキ草原ですが、上に作られた巣は一つしか観ていません。また、(その地域にいる)全てのカヤネズミが巣を作るのか疑問に思っています。観察していると、カヤネズミの姿をよく観るのに、まわりに巣がないということがあります。カヤネズミの巣を見つけて、それがカヤネズミのいる証拠だとすることが一般的ですが、巣がなくてもカヤネズミがいることもあるということです。おそらく、全てのカヤネズミが巣を作っているんじゃないと思います。また、標高が高くなると、ハタネズミの作る巣も、標高の低いところの巣とはまた違ってくるかもしれません。それは歩いて観てみないとわかりません。それがフィールドの楽しみです。観察していると、図鑑や研究書に書かれていることと違うことっていっぱいあって、だからこそ、発見や驚きにつながります。本に書いてあることをそのまま受け入れてしまうと、そういうものだと思ってしまいます。「どうして?」といった疑問が新しい発見につながります。ぜひ、いろいろなフィールドに行って、じっくり観てみてください。そして、観たことを私に教えてください。
  コウモリの件ですが、キクガシラコウモリは洞窟などに傘を逆さまにしたような形で止まりますので、違います。でも、何コウモリかはわかりません。

 

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