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もんく [とある南端港街の住人になった人]

タイプーサム前夜 (追記: 神様と幸せの法則)

明日はタイプーサム。

言わずと知れたヒンドゥーのお祭り。多分、映像が日本のニュースでもちょっとは流れるかも知れない。時々流されているので飽きてなければ。

非常に危険そうな、非常にグロテスな、非常に奇異な、非常に痛そうなお祭りで知られているわけだけれど、これ、非常に正しい神さまへの接し方なのかも知れないと感じている。


神さまって言うと、日本人はほとんど正月位しか神社に行ったりしない。そこで何するかと言うと、お願いである。お願い。今年は良い事がありますように、今年も健康でいられますように、宝くじ当たりますように、結婚できますようになどと。

普段何も神さまの事なんか考えないのに1年にたった1回。けれど、それはそれで良い事にしよう。

問題は、そう言うところじゃないな。だって1年に1回だったとしても、神さまは許してくれるかもしれないし。会ったことないからわからないけど。

それで、問題は願いが叶ったとして、神さまに対してどうするかって事。単に嬉しい嬉しいで終わらせてしまう人が大半かな?、と。それが、やっぱり変じゃないかと思う。なぜ願ったのなら感謝しない?、って。

タイプーサム、これ、実は、実はってほどでもないけど、ガイドブックか何かにも書いてあると思うけれど、これ感謝のお祭りだとか。身内の誰かの病気が治ったとか、何かそう言う事で感謝するためにあれやってるとの事。

あれってのは重い物を頭に乗せたまま地面に落とさないまま一晩歩き続けるとか、身体の針刺して何か引っ張って歩いたり。何とも感謝し過ぎな感じもあるけれど。

キャサリンさんの母がよく言ってたのは、毎年お参りに行ってお願いする人が多いけれど、去年中も健康で過ごせてまたお参りに来る事ができたと感謝する、それが初詣じゃないのかと。

つまり、お願い、別の言葉で言うと要求だと思うけど、それってのは、たった今の自分が満たされていないって事。そしてそれを認めてるって事になる。毎年、毎年、自分は満たされていないって言いに言ってるわけ。それに対して感謝って言うと、その反対で満たされているってなる。つまりより幸せに近い。

どっちが良い状態?、もちろん感謝できる状態の方が満たされないよりずっとずっと良い。人は神に祈る事で幸せにも不幸にもなるように思う。どうかな? タイプーサム、一番正しい神さまへの接し方と言えるのじゃないだろうか?
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