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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

レコードプレーヤーが回ったところで人生に最も影響を与えた本の再読を始めよう

2025-01-31 20:39:09 | 日本でニャー2025
プレーヤーのベルトが届いたので取り付けた。





ちゃんと回って音も出た。問題ないと思われる。しかし、このカートリッジ(パイオニア純正)は出力が高いようだ。ボリュームツマミの位置に比べて音量が大きい。まあいいけど。

しかし、レコードの音、本当に以前考えていた以上に高音質だと感じる。



Facebookのあるグループの方からこの本をいただいた。明日の午後あたりにクロネコ事務所に到着するので引き取りに行く。嬉しいよね〜!




これで例のJBLのユニットを料理するのも考えられるな。ともかく明日が楽しみだ。




ニーチェ本が集まっているのだけれど、その前にこれを読もう。

これは高校の時に友人から借りて読んだ本だ。古本を探しても見つからなかったところ、たまたまメルカリを見た時に出品されたばかりだったのを発見して買った。なんとタイミングの良いこと!そして驚くことに・・・初版本だった!

初版本かどうかは実際どうでも良いが、思い返せばこの本が自分の人生に最も影響を与えた本だったかもしれない。もちろんあの頃はそうは考え無かったし、きちんと鑑賞できていたかは疑わしい。なぜなら、きちんと鑑賞するにはそれなりのスキルが要るのだし、書いてある内容を頭の中のいろいろなものを関連付けられるだけの知識や経験も必要だから。

さてそうであっても、どうしてこの本が人生に影響を与えたかだが、それは高校の頃に自分の思い描いていた所謂「普通の」将来像と完璧に違った人生の選択がそこに書かれてあったからだ。単に衝撃だっただけなのだ。今回これを再読することでどう鑑賞できるのか、我がことながら楽しみだ。

この社会は37年間変わらないまま次への議論をせずにいる

2025-01-30 20:20:45 | 日本でニャー2025



「長崎市長への七千三〇〇通の手紙」を読み終えた。

結論: みんな、これ読んでおくべきだよ。フランクルの「夜と霧」より日本人はこっちだな。


主なa.内容としては天皇に戦争責任が有るか無いか、それに加えてb.言論の自由ということに関して多数(掲載は300通)の人の手紙がほぼそのまま掲載されているもの。だからストーリー無し、個々への解説や評価無し。


で、ここで天皇の責任について自分の意見を・・・書かないよ。読んで自分でどう思うか確認した方が絶対良いから。


1)どの手紙も天皇の戦争責任の有無を書いているわけだけれど、全く日本的だと思うのは「有無」のところで完全に停止してしまっているところ。例の南京大虐殺、従軍慰安婦が「有無」のところで話が停止しているのと同じ構造で、その先に行かない。こうしたことに関して何が間違った考え方だったのかに全く話が進んでいない。だから戦争がいけないことの根拠がその悲惨さでしか言えない。このことは我々日本的大欠点だと考える。


2)結局、上記の結果として日本はあれから37年経過しているにも関わらず同じ「有無」論だけを繰り返していて「無」側の人たちがあの戦争を肯定的に考えて声をあげるに至っていたり、反論に対して議論せずに抑圧という態度をとる習慣を維持してしまっている。全く進歩が何もないどころか、退行してすらいるように感じられる。


3)出版の趣旨とは無関係だけれど、バブル期 に多くの人々がどれだけ社会からの圧迫感を感じていたかがわかる。以前のことを知らない若い世代の人たちが最近バブル時代を経済的に恵まれた浮かれた時代と言い、揶揄すらするようだがその感覚の間違いが手紙から透けて見える。あの時代、普通に生活していればバブルなど何の恩恵も無かったし明るい未来を見てさえもいなかった。アベノミクスで株価ばかり上げて人にお金が回らなかったのと似た状態なのに・・・って、言っても仕方ないが。


この本、ラッキーバナナクラブに収蔵する。







遺物扱いのレコードって思ってたより音が良いし扱いも楽だった

2025-01-29 19:30:07 | 日本でニャー2025
リサイクルショップにプレーヤーが出ていたのでモーターが回ることだけ確認させてもらって買った。ドライブベルトが無かったが、それはAmazonのギフト券の残りを利用して発注した。いろいろ値引きと集めていないdポイントの端数も使って245円だったったかな?明後日頃に届くはず。



高級機種じゃないが調べたところ、当時パイオニアはこの機種で上位機種のコンポーネントをそのまま使ったお買い得品になったそうだ。だからアンプなど含めて一式揃えたい時にこのモデルを選べば満足できる構成ができたとか。とりあえずベルトが来たら鳴らしてみよう。


それで、ソニーはラッキーバナナクラブにあるのでこちらを家に置いておこうかと思っている。逆になるかもしれないが。



プレーヤーを買うとは考えてなかったが、その前にレコードを買っていた。


岡林信康って名前を知っているだけで何も知らないが、伝説的フォーク歌手だとか。ライブレコードがあったので買うことにした。なんと、はっぴいえんどが2曲歌っているし、加川良も参加している。楽しみだ。



レコードは最近また流行っているにせよ、世間一般では過去のメディアに間違いないのでCDで音源を探すより安く済む。それにレコードでしか聴けない演奏なんかもけっこうあって良いように思い始めた。

昔、安いオーディオセットを持っていた高校時代、レコードの音が最高だったわけだけどなぜか素晴らしい良い音とも思ってなかった。でも、前回のクリスマス会でレコードをかけたとき、アナログでこんなに音良かったんだ!と改めて驚いた。それに扱いがデリケートに感じていたけど、そんなのもあの当時お小遣いが少なくてなかなか買えなかった影響だったとわかった。今、100円で買うというのもあるし、そもそもレコードなんて水道工事に使う塩ビ管と似たプラスチック材料なわけだからデリケートでも何でもないんだよね。

リサイクルショップでは必ずレコードコーナーはちゃんと見よう!

ラッキーバナナクラブにスピーカーが置いて行かれた件

2025-01-28 22:09:13 | 日本でニャー2025
またラッキーバナナクラブ(活断層ハウス)にスピーカーが入った。というか、置いて行かれた。




まあ、楽しみではある。

どうやらこれの改造品らしい。


どうしてこれをわざわざ改造する気になったのだろう?何が不満だったのか?それとも箱が災害で水濡れでもしてしまったか?

ともかく、どう料理するか考えなければならなそうだ。

今日は疲れたからこれで終わり。


日本人は国のために生きていたり国のために何かやっているのだろうか?

2025-01-27 20:03:57 | 日本でニャー2025
ブックオフでクーポン150円適用後2冊で345円(税込)で買えた。


まだ読み終えていない本があってこれを読めるのは先になるはずだが、メルカリで調べた値段よりかなり安いので良しとしよう。


「長崎市長への七千三百通の手紙」を半分程度まで読んだ。ストーリーではなくて掲載された300通の手紙を時系列でめくっていくといろいろな人がいろいろ書いていてなかなか興味深いものがある。その多くは(昭和)天皇に戦争責任が有ると考えているようだ。責任無し派は少ない。

責任有り派の中でちょっと驚いたのは、日本人の戦争被害者ばかりか周辺国被害者についての言及がいくつかあったことだ。一般の人でもそうしたことに心を痛めている人が何人もいるとは思っていなかった。良いことではある。

責任有り派のかなりの数の方々が身内に戦死者がいると書かれているので戦争をすることによる人々へのダメージを想像しやすい。そうなった大元は天皇の名を冠した各命令であったのは明白、そしてその命令に従わせるために強権的、暴力的な方法を国民に対して適用していたということが天皇責任追及論に繋がるのはよくわかる。

その場合、もし日本が戦争に勝っていたとしたら、この責任論はどうなっていたのだろう?と、ちょっと思う。仮の話なのでわからないが、責任論に加えて、「平和」という言葉の意味も相当に違っていたかもしれない。


責任無し派は、どれも天皇という存在に傷をつけたくないというのが底にあるようだ。そこから遡って「天皇は軍部に逆らえなかった」「天皇は国民のために良い最終判断をした」または「人柄」に言及している。

ところで、「国のために」という言葉が多く出てきていて、同じ言葉をsnsでもよく聞く(見る)。よくわからないのだけれど、日本国民の多く、またはある部分の人々は国のために生きているのだろうか?戦時中でなくて今現在の話だ。どうなのだろう?

天皇の戦争責任無しと言われる方々は、天皇は国を思い、国民は天皇の子のように書いているので天皇が国のために働いているのであれば当時子である国民も国のために何かしているのではなかろうかと考える。はて、そんな人はどこにいるのか?家の周りでどぶさらいでもやっているのか?必要とされる以上の税金を納めているだろうか?

ちょっとそのあたり、知りたい。
続く

我々は「そんなことやって何になる?」に「単に好きだからだよ」とは答えられない

2025-01-26 20:18:19 | 日本でニャー2025
今日でつぶあんが死んでからちょうど1年が経った。


早いものだと感じもするが、その間にもいろいろあって忙しかったとも感じる。特に目立ったのは人の生死に関わることだった。時代的なもの?それとも以前は気にしなかっただけなのか?



「夜と霧」のあと、これを読み始めている。



これに関してはまた、読み終わってから書くことにする。

そして今日届いたのは以下の2冊。



これはバタイユもフランクルもニーチェの影響を受けたということなので必然的に読まないわけにはいかない。ただ、ニーチェはいきなり読んでもわからないとのことなので定番の入門書を先に読んでおくことにした。こちらも徐々に、ということで。



ちょっと昨日の「夜と霧」の補足。

人には自由意思があって、自分が人生から何を問われているかを探すことができる。そしてそれを心の中に置くことによって、つまりそれを内的な未来に設定することが出来、それに向かっていれば今の苦悩や苦痛も意味を持つと考えられると書いた。

それは極論すれば「ああだから、こう」「○○のために今こうする」のような予定、計画を立てる思考だ。動物にはできなくて人にだけできる頭の使い方だ。

すると、生きている上での今現在の苦痛の原因はそのことではないのか?と逆に思えてきてしまう。将来のために今しなければならないことは何なのだ?成功するにはどうすれば良いのか?少なくとも食うに困らないようにするにはどうしたら?

うーん・・・

もうひとつ。もし自分が何か思いついてやり始めるとする。そのとき、心の中でもう一人の自分が言う。「そんなことして何になるんだ?」

これも「ああだから、こう」「○○のために・・・」と同じ思考方法だ。そこで、「いや、ただ楽しいんだ」と答えられる人は意外と少ないだろう。我々はその思考方法がとても自然に出るように訓練されてしまっているのだから。

フランクル 「夜と霧」のまとめ・・・哲学や思想には至らないセラピー

2025-01-25 21:03:36 | 日本でニャー2025
昨日の最後で書いた通り、今日は「夜と霧」のまとめ。

最初に注意点その1
自分が読んだ「夜と霧」は「フランクル著作集」のうちの1冊なので単行本として出ている同名作品と違っているかもしれない。同じみすず書房からは他に2つ出版されていて、翻訳者が同じで単行本になっているものと2002年新訳のものがある。新訳とは目次が異なっているが、それが翻訳時のものなのか他の原書を用いたためかは不明。また、古い単行本に著作集のような長い刊頭解説があるのかどうかは現時点で知らない。


注意点その2
まず、本書の構成だけれど、刊頭に長い長い解説がついている。これは強制収容所でどんなことが行われていたかを出来るだけ詳細に前知識として伝えるものになっている。本文を鑑賞するためには読んでも読まなくても良いと思う。ただ、気をつけなければならないのは、たぶん出版の意図は戦争というものの悲惨さを強調したいという意図でそれを付加している。もしかするとそれが「夜と霧」を出版する意味と考えている伏しがある。これは一般的な戦争反対論の元になる思いだし、それがこうした強制収容所関係本を出版する「売り」になるのも事実だが、はっきり言って著者がこの文章を書いて意図とはズレていると考えられる。なので読んでも良いがそれにとらわれないでおくべきだろう。




本書を読むにあたって、どこから入ったかは読み方に大きな影響を与えると考えられる。1)戦争の悲惨さをこうした文章で確認する。戦争関連本を読む場合に多い読み方だが、本書はそうしたぼんやりとした感情扇動本ではないのでガッカリするかと思われる。2)癒しやセラピーを求めて読む方は多いはず。NHKで放送した「こころの時代」を観てから読むとそうなると思われる。楽になるためにはそれもアリかもしれないが、何とも言えない。世の中には別の解答もあるはずなので。3)私のように予備知識なしで読むやり方。



前置きが長くなってしまったが、本文はできるだけ簡単に短く書きたいと思う。

この文章は大きく2つの部分に分かれる。前半の強制収容所に入るところとその中での生活を書いている部分にはエピソードを交えて囚人の心の中に起きた心理的変化が主に書かれている。後半、解放の文字が現れるあたりからは著者の解釈と療法としての方法論が多く出てくる。

前半、収容され、囚人として生きる中では(当たり前だが)外部からの強制によって自己の未来を見ることができない状態(仮の存在)となり、心理的な価値低下、無感覚、自己判断を避けようとするようになる。これは強制収容所の極限状況によるものなので読んでいる自分とはかけ離れた心理状態かと考えられるのだが、どうしたわけか共感に近いものを感じてしまった。

それはこの現代(といっても数十年の間)日本の社会で、程度の違いこそあれ、我々が常に置かれている状況(外的にも心理状態としても)と似ていると思えるからだ。我々はある種の社会が求める理想像に鋳込まれるのを経験している。学校では常に教師の用意する正解があり、社会に出た時の在り方にも正解が用意されているし、仕事の課題においても生活態度においてもそうだ。そのある意味「自然」の中で我々は自己の価値低下を常に感じさせられ、多くの刺激に対して無感覚でいることを学ぶ。そうした意味で強制収容所はこの社会と相似形にあると結論することができる。

もちろん足の指が凍傷になってピンセットで抜かれるのを見ることは無いが、代わりに家の中で人知れず亡くなっている人が近所で時々発見されるのを「またか」とやり過ごしたり、職場の同僚だった者が閑職に追いやられて知らぬ間に退社していたという経験を重ねている。


さて、問題はここからだ。

では、そんな社会の中で苦しい思いをして生きていて、我々の人生には何の意味があって、何故生きているのだ?という問いに繋がる。

苦しいだけで未来に輝く未来があると保証されているわけではないのに、ただ生物として息をして食べて寝て生きている。猫であればそうしたことを何も考えず、毎日キャットフードをもらってオシッコしたら寝ていれば良い。何故か人はそこに意味を見つけたいという衝動に駆られる。

はて、その答は?
残念ながら絶対的な解答は提供されることはない。

けれども、外的に強制されて自己を守るための感情の抑制、無感覚の底においても内的な「自由」は確保され得るものだと囚人の中のいくらかの実例をあげて言っている。そこに内的な勝利の鍵があるのだと。


絶対的な答、つまり普遍的真理のようなものは結局は無いだろう。もしそれを言えるとしたらそれは宗教やスピリチュアルのような何かだろうが、それ以外でそれを言った者はいないはずだし心理学者であるフランクルに言えるはずはない。

その代わりに提供されるのはセラピーだ。ということは真理より実用性のあるものが提供されていると言える。神様がいようがいまいが救いはある。つまり方法論だ。これは工業生産において完璧に理論が確立していなくても生産してお金に換えることができるのに似ている。

その最初に来るのが前述の「自由」の行使だ。そして、真理を待っている態度から自分が人生から何を問われているかを探すという逆方向の思考へ転換することによって内的に未来を見るというやり方だ。神様が勝手に自分を照らしてくれるのではなくて、人生からの問いに自ら答えるて光を見つける。

そうすることによってたった今ここにある苦しみにも、そして先にあるかもしれない死にも意味が見出せるのだ。死、そこには単に死ぬというだけの意味以上のものがあるはずだ。例えば、何かを一所懸命やって良い結果どころか結果自体すら得られずに中途半端に終わってしまうというのも含まれる。いったい何のためにここまで努力したのか、やってきたのか?意味があったのか?というような死。だが、フランクルはそんな死にも意味を見出すことができる。むしろそれも含めて全てを統合して意味があると言う。

まさにそれはセラピーの思考だ。

もし真理を言うのであれば、無感覚な中に自己を放棄して死んでしまって人々の心や在り方にさえ何らかの意味があると言うのではないだろうか?宗教で言う「それも神のご意志」のように。だが、フランクルの場合は自己放棄させないための方法論を書いている。だからフランクルの考え方は哲学や思想とは違うセラピーなのだ。

そのセラピーをここでは強制収容所について適用しているが、ケースとして強制収容所は稀であり、囚人に特化するのであれば、それも酷い環境でとなれば次の戦争を待つことになるだろう。が、そんなわけはない。こうして極限状態で観察され考察された心理状況とそのセラピーは一般化され得たわけだから普通に日常生活を送っている人々、つまり我々にも適用できると考えなければならないだろう。

つまり、この日本の社会の中で社会の要求する型に鋳込まれるつつ生きている我々にも、ということだ。現にフランクルのセラピーを使っている方々はいるそうだ。(NHK参照) 


けれども、セラピーを求めるのであれば実際ののところ他の方法も提案されている。自分にはそのあたりは何とも言えないが、ともかくフランクルの方法論を絶対視する必要はないのではなかろうか?


我々はあの時代のオヤジ世代の代替要員に過ぎなかったと知る

2025-01-24 20:03:13 | 日本でニャー2025
中学生が自ら校則を決めるプロセスに関与したいと市に請願し、不採択になったというニュース。
不採択の理由は書かれていないが市に対して請願すべき内容ではないということかもしれないし、想像の通りただの却下かもしれない。これに関しては不明だから何とも言えない。

しかし、中学生が自らに適用される校則の制定に関与してはいけないということの意味は何だろう?ちょっと思いつかない。何がいけないのだろうか?自分たちにルールが必要でそれを自分たちで決める、または関与することにどんな問題があると「大人たちは」考えるのだろうか?校則なんて要らないとは言ってはいないのに。こうした欲求はたぶんこれまでの時代の中でもあったと考える。自分たちの時代にもあった。

今はその我々が彼らのこうした要求を却下するに至っている。何故だろう?

細かく言えばいろいろあるとは思うのだが、大枠から言えば我々が子供からずっと育ってきた今、あの当時のオヤジの代役としてすり替わったと言えるだろう。あの頃、我々はオヤジたちを太刀打ちのできない巨人のように見ると同時に世の中の嫌悪すべき存在とも感じていた。そして年を経るとともに彼らは衰退し滅びて行くだろうとも考えた。

だが、結果はそうではなかった。

我々は彼らの代替要員に過ぎなかったのだった。あの時に起きていた醜悪な事態は今も起きている。政治家は代替わりしたはずが今現在も腐ったままであるし、直近のニュースでは醜聞が企業を揺らしている。そしてオヤジとなった我々はその代替要員を養成しようと苦慮している。つまりは子供を抑えつけて従わせようと躍起になっているということだ。

このやり方がもう限界に達していてこの国ごと衰退しているのを目の当たりにしているにも関わらず。



今日は「夜と霧」のまとめを書こうと思ったが、それは明日に延期。

フジテレビなんか無くなっても・・・

2025-01-23 20:52:32 | 日本でニャー2025




 snsでフジテレビがどうのこうのという記事がたくさん出てきたけれど、けっこうどうでも良いことのように考えている。別にテレビ局が1つ無くなったところでね・・・

それよりトランプが大統領になったことによるインパクトの方が100倍強いと思う。既に予想されていたけれどもやはり実際にとなるとどうなるのか、とても気になる。日本にも相当な影響があるだろうし。

よくわからないが、トランプを支持した人たちがその政策が実行された後に「こんなはずじゃなかった!」というタイミングが来るのか?来るとしたらどの時期なのか?まあ、大変だろうな。アメリカで、世界の中でポジショニングが悪くなっている産業が救い出せるまでは高い関税を払って外国から買うとなると労働者は物価高に苦しむだろうというようなことをアナリストさんが書いていたが、そうなるのだろうか?するって〜と、割高な日本製品が今よりさらに売れなくなるのだろうし。

まあ、それはそれとして、そんな中で自分を守る方法は何だろう?って、考えながら見ていなくては。





昨日の続きで「夜と霧」の話(今日で完結ではない)

後半のところ、つまりフランクル氏が強制収容所から解放されたところより後なのだけれど、このあたりからちょっと???なところが増えてくる。

(読んでいないとわからないことを書くかも)
まずは、内的勝利をおさめるその中身に道徳というのがあるのだが、それは単なる一例に過ぎないのか、それとも普遍的にそうだという意味なのか、どちらだろう?もし囚人の型にハマらない自由を心の中に持てたとして、それが一般の人よりかなり邪悪な思いだった場合はどうなのか?ヨコシマな未来想定を未来に設定した場合でもその選択はその人を絶望から救うのではないだろうか?

次に考えるのは、心の中であったとしても、未来を見ることでそれを生きる糧にするのは、セラピーとしては有りのような気がする。けれども、その方法論が人間としての生きる意味と直接付けてしまうのは正しいことのようには思えない。昨日も書いたようにその結論を求めて、つまり救われる考え方を求めて読むならそこでOKにするのだろうが、もっと根本のところで「人の生きる意味」について考えるとしたら安易に過ぎる。

それで、結局、生きる意味を人の側から問うのでなくて、人が問われるとなるわけで、そうなると今ある苦しみさえ無意味でない、生に統合されるべきものとしている。なら、人生の経験が少なくて未来への光の源を探せない場合、もしそれ以外の選択ができずに生を諦めてしまった生物としての人間の生には意味が無かったのか?それとも有ったのか?

いろいろ考えながら読んでいるとどうしても著者フランクル氏も最後にはセラピストの視点に戻ってしまっているように感じられる。

まだ続くよ。

強制収容所の囚人の心理状況はどう読んでも我々日本人のそれと同じだ

2025-01-22 20:35:24 | 日本でニャー2025
「夜と霧」2周目(再読という意味)の途中。



まったく、これをどう読んでも我々日本人の置かれている状況にそっくりだと思う。

この本は第二次大戦中の強制収容所の中での体験とそこにいる普通の囚人の心理状況を書いているのだけれど、どう読んでも我々日本人のそれを読んでいるような気がしてならない。強制収容所を日本、囚人を我々日本人に置き換えても成立するように感じる。

自分は著者フランクルに関しても予備知識ゼロ、ましてNHKで放送した内容も予告編で見るのをやめた。そこで同じように感じる人がいるかどうか検索してみたのだけれど出てこない。ほとんどの人がフランクルに(生き方の?)「答を求める」という視点で読んでいるらしい。

そういう読み方もあるのかぁ〜と今更ながらに驚いている。でもそれなら聖書とか歎異抄とか読んでおけば早いんじゃないの?と思ったりしてしまう。

ある程度以上評価が定まっているある考え方があり、しかも著者はセラピーを目指していた心理学者。つまりその結論側からこの本に逆流する読み方に、予備知識があればあるほどなりやすいのかもしれない。すると、あの強制収容所の中で観察された事象に最初からフィルターをかけて読んでしまうようにも考えられる。

そのフィルターを外さなければ文章を純粋に読むことはできないと思うし、「答」からも遠ざかってしまい方法論のみに集約されてしまうのではないだろうか?


ともかく、そういう雑念からフリーになって読んだとき、自分が感じたそれと違う何らかの印象というものが出てくるものなのだろうか?それがもしあるなら知りたい。

料理の中に変わったものが入っているというのはどういうことなのか

2025-01-21 18:38:23 | 日本でニャー2025
仕事を辞めてから2年を超えた。ということで今は何か義務を果たすために時間を使う必要がない。だから本を読むのに急ぐ必要がない。2度ゆっくり読むこともできる。素晴らしい!

とまあ、ほとんどの人にはそれがどう良いのかわからないだろうけれども。


話は変わるが、先日も本を読んでいてふっと気付いた。よく「発想する」のは「思い出す」に似ている、もしくは同じだと言われるが、本を読みながら自分が頭の中でそれを、つまり思い出しているのがわかった。目から入ってくる言葉が頭に達すると頭の中のどこかに記憶されている何かと不意に結び付く。何をどうやっても何を取り入れてもそういうふうにしてきたのだと理解し始めた。

先日、近所に住まわれている料理人親方からまかない料理を分けていただいた。まかないなのでメニューにある料理とは違う。その人はいつも何か料理に細工をする。細工をするのは自身の楽しみでもあり、テストのようなものでもあるそう。

その、いただいた料理にある物が入っていたのだけれど、これはあれかな?それとも・・と味わいながら考えた。あれに似ているが、そんな物が調理場にあるとも思えないしなあ・・・それにこういう使い方をする物ではないよなあ・・・と。食品には違いないが、でもまさか。

こうした発想も、やはり「思い出す」なのだろうと考える。

つまりは以前に経験したこと、見たものなどが今現在の課題と結びつくのだ。以前にはそれは独立した経験だったものが、新しい何かと結びついて生まれ変わる。

すると、いろいろな経験は発想の肥料ということだ。実際に見たり聞いたりやってみたり、それから本や映画なども。

まあ、こんなこと、当たり前なのだろうけれどね。

50年ぶりに読む本であの時何を感じたか思い出せる?

2025-01-20 18:03:51 | 日本でニャー2025
「旅の重さ」を入手。




この本は高校の時、友人に借りて読んだ。


ストーリーはほとんど覚えていない。ただ、旅に出た少女がある人に出会ってそのことを母親に手紙で書くというのだけ覚えている。

それでどう感じたかというと、自分の思い描いている、というより世間一般に高校を卒業したらああしてこうしてというやり方とは完全に違っているのに衝撃を受けた。それはとてもよく覚えている。・・・その時はそれで終わった。

それから一応受験勉強のようなことを、嫌々ながらもだけれど、して、大学に入って就職もした。1年で辞めたが。そのあたりから本書を読んだ高校時代に思っていたラインから少しずつ外れ始めたのだった。結局どれだけ外れることができたか???には全く自信がない。ふらふらして、再度就業し、異業種に転職し、海外に出ては戻り、また・・・と、多少は他人と違ったかもしれないが、あの主人公ほどではないのは確かだ。

なぜなら「自分はこれで幸せ」と自信を持って書けはしないのだから。


さて、何はともあれ、50年弱ぶりに再読してみることにしよう。あの時自分がこれをどう受け取ったかが思い出せるだろうか?どう感じたかが思い出せるだろうか?そして新しく何を感じとれるのだろうか?


神様は人が他人に望むことの反映なのか

2025-01-19 21:20:15 | 日本でニャー2025
今日は午後から弱い雨が降っていたし、本を読んだりしていたのでほとんど家の外に出なかった。そういう日もある。きなこは大概近くの椅子の上で寝ている。




キャサリンさんの、これはたぶん口癖だと思うのだが、「○○してくれても良い」というのがある。普通に考えれば、それなら「しなくても良い」のだが彼女のそれは相手にそうすべきだと考えているという意味になり世間一般の人の同じ言葉と意味が違っている。

簡単に言えば、両親が優しかったのでキャサリンさんはいつも受け身の姿勢でいればよかったということなのだ。

しかし、これがキャサリンさんだけのことでもないのだ。キャサリンさんは割とわかりやすいだけで、世の中の多くの人はいつも何かを他人に期待している。口を開けて自分の思う通りに動いてくれるのを待っている。それが叶わないと怒ったり攻撃的になったりする。ただ、攻撃的にならない方法もどうしたわけかかなりちゃんと普及している。

それが何かといえば、「神様」だ。

神様がどうして?と不思議に感じるだろうか?神様は我々を良い方向に導いてくれる一種の超越的存在のはずだから人が誰かに何か期待するのとは違うものであるように見える。

しかし、ここでよく考える。神様って何?というところをだ。こう言うと神様を信じている人に怒られてしまうかもしれないが、神様は人間が作ったものだ。(ニーチェもそう言っているので特に新しい考え方ではない) 神様は人にああしなさい、こうしなさいと言う。もしくは何かを起こしたり発生させたりして罰を与えたりもする。我々人間は悪いことが起きないようにできるだけ神様の意に添うようにしようとする。

待て待て、ってことはだな、そもそも神様ってのはさ、自分が周囲の他人にこうして欲しいとか、こうすべきだろう!っていう意識の反映じゃないのかい?

だってそうだろう。もし自分だけがこうありたい、こうしたいで済めば自分で勝手にすれば良いのであって、何も神様を経由する必要はないはずだ。わざわざ神様を立てる意味は、そう他人にこうして欲しい、こうすべきだと言いたいのだ。神様ってのがいて、言うこと聞かないと悪いことが起きたり死んだ後に地獄に落ちたりするぞと言って大人しくさせたい。逆に良い子でいれば世界は平和で和やかでというわけだ。

えっ?日本はそれほど神様を信じていないだって?その代わりに道徳というのもいるし、法律に従えとか規律とか仲間内の行動様式に従えというのが普通にある。神様がいないから自由にノビノビとやったら良いなんて他人に対して誰も思ってはいない。同じことだろう。

人は神様でもないのに他人の生命を勝手に重く見たり軽く見たりしてしまう

2025-01-18 20:45:40 | 日本でニャー2025
午前中に近くのお寺で墓参り。


1月7日の記事の最後のところに書いたこの人だ。


聞くところによれば相続権(財産があるということではない)のある親族、つまり近い血縁者がいないそうで、従兄弟の方が火葬してお墓に納めたそうだ。立派な墓石の横にある石板には母親が納められた日付が刻印されているだけだった。これからずっとそのままになるのだろうか?

好きだった鈴カステラを墓前に上げて線香に火をつけた。

この人、もう少し長く生きられただろうか?と考える。もしかすると生きられたかも知れず、そうでなかったかもしれない。もしもう1日前に発見できていたらどうだったろう?同じだったもしれないし違っていた可能性もある。

なぜこんなことを今考えているのか?

人は変なもので、ある人についてはこんなふうに考えたりするが、別の人の生命に関しては全く考えないか考えたとしてももっとずっと軽く考える。場合によっては死んでしまっても構わないとか、仕方ないのじゃないか程度で済ませてしまう。心の中で勝手にトリアージしてしまう。

亡くなった人は自分にとってどれだけの重さだったのだろう?

そもそも他人の重さに差をつけてしまって良いものだろうか?小さな出来事や理由でその人の重さを軽く設定してしまったりするのは人としてどうなのか?よくやってしまうことだけれども。そして亡くなってから考えても遅いのだけれども。



あるギャラリーで展示を見てきた。





我々人間て、猿のままなの?それとももう猿は止めたの?

2025-01-17 16:32:22 | 日本でニャー2025
昼間に突然の来客あり。
来客と言っても待っていたわけではなくて、先方さんが勝手に来てピンポンを押しただけ。その手の来客はたまにある。初めてじゃない。

何かというと、宗教の勧誘というか、単にお話に来ただけ。

壺を買いなさいとか地獄に落ちるとか、そんな極端な話はしないことがわかっているからお話するのは何の問題もない。これは自分が応対せず、いつものようにキャサリンさんがした。自分は家の中にいたのでなんとなく世間話しているなと思って聞いてはいなかった。

10分かそこら経ってキャサリンさんは家に入ってきた。

「別に宗教団体が悪いとは言わないけど・・・」と話し始めた。他の宗教やっている人たちもそうだけれど、自分たちの宗教は争い事をしたりしないと言いながら世界では戦争がたくさんある・・・。つまり、どの宗教も自分のところは平和を願うものだと言いながら、実際はそうなっていない矛盾が嫌いなのだと言う。

ふーん、それって争いの理由は宗教じゃないんじゃないの?と自分。

こんなことは昔からずっと言われているけれど、そうだと思う。宗教の違いは争いを拡大させる言い訳に使われているだけだろう。争いの最初は宗教無関係だったってのはよくある。争いの理由の後付けに宗教の違いを持ってきたとも考えられるし、オリンピックと同じようにそれまで全く知らない選手であっても自国選手と相手国選手で自動的に区別してしまうのもある。

どちらにしても、そうして別れる性質を我々は持っているし、それを誰かに利用されるのは最も怖いし警戒しなければならないことだ。とはいえ、我々は今現在でもカジュアルにそうした操作を受けている。毎日のように。高齢者と若者、男と女、公的援助を受けている者とそうでない者、といった具合に。

誰かが何か「正しいこと」を言う。誰かが広い世の中の小さな矛盾を指摘する。

正しいことというのは誰でも簡単に言える。なぜなら簡単にいかない事情を考慮しないで言えば良いからだ。細かい矛盾も同じことだ。だから、これが何を表しているかというのが大事じゃないだろうか?

多くの場合はジャッキー・チェンだ。

ジャッキー・チェンの映画作品にはストーリーにその制作の意図というものが無い。何のために作られているかというと、それはジャッキー・チェン、その人そのものの為なのだ。つまり、人は多くの場合、それを取り巻く我々やその環境のために争いはしない。争いたい自分のために争うのだ。そして他人を巻き込む。それだけのことだ。

我々人類の中には争いを好む遺伝子が混じっているらしい。争いのための争いをいつもしている。争いによって得られた利得は次の争いによって奪い取られる。それが歴史が教えてくれることに他ならない。教科書にはそう書いてある。

だから、正しいことを言っている者が真の意味で正しいわけじゃない。争う姿勢を見せているだけでそれは正しくも何ともないし、警戒すべきことと言える。でも、人間はそんな自分の野生を自分への教育によって管理する手段を既に知ってもいる・・・はずだ。

もう猿じゃないのだったらね。