iPad miniとAndroidタブレットにThinkpadキーボードを繋げてみた。
結果としてはAndroidの方が快適だった。AndroidはキーボードをちゃんとThinkpadキーボードとして特定して認識するが、iPadはUSキーボードとして認識してしまいJISキーボードに替える手段が無い。記号の入力が面倒になってしまう。それに対してAndroidの使い心地はWindowsとそう違わない。
今日はつぶあんときなこ、1時間半かけてドライブ。交通渋滞を懸念して30分早く出たがそれでほぼちょうどの時刻になってしまった。普通の渋滞でなくて、通勤時刻帯の事故渋滞だった。
マレーシアの場合、ちょっと別の街へ行くにも必ず高速道路を通らないといけない。これはマレーシアに来た13年前にもこのブログで書いていたはずだが、状況は変わらないどころか悪くなっている。なぜならマレーシア政府は高速道路ばかり作っていて、たぶん地方行政はそれほどお金を持っていなくて作らない。その代わりに水道や学校を作るのだろうが、都市計画的なものが無いらしくてどこかの企業が山を切り拓いて住宅地を作ると車が増えてそれに対応できない。だからやたら細い田舎道の先に何百軒規模の住宅地ができる。そりゃもう大変なもの。
それに加えて、以前にあったミニバスは廃止するし、タイやインドネシアのようなトゥクトゥク的な交通手段は認めない。バスは本数が少なくなっているし、在来電車はほとんど来ない。その隙を突いて出てきたのがGrabで便利ではあるが、言っちゃ悪いが、貧乏人を永久に貧乏人のままに固定して働かせる手段になっている。仕方ない、そんなものだ。
整理整頓というのを皆さんどうやります?
今もあると思うけど、確かDropBoxというサービスが先駆けだったと思う。自分は結局使わないでGoogleドライブを主にしているけれど。
ともあれ、あれが出た時によくわからなかったのは、「とりあえず何でもかんでも放り込んでおけ」みたいな感じだった事。どう見てもこんまり(近藤麻理恵)方式とは対局のように感じられた。今になって感じるのは、精度(技術用語ではなく一般的な言葉として)に対する考え方が全然違うんだなという事。
これは友達どうしで待ち合わせ時刻を決める時の事と似ている。ある人は「お昼前頃に待ち合わせしよう」と言って○○書店にその頃いると言い、ある人は「10時にハチ公のところでね」と言い、ある人は「UTC11時23分に南シナ海洋上のポイント(15.4880920, 114.4047540)で」と言うとする。どれが一番正確にその場所にたどり着けるかというやつ。
正確という言葉に騙されると一番細かい時刻を言っているもののように考えてしまう人がいるが、それは逆だ。11時23分にその場所に行くとして正しい時刻の範囲は11時23分を時計が示している60秒の範囲に限定される。(時計の正確さを考えないとして) 11時25分にそこに行ってしまったら取引の相手はもうそこにはいなくて洋上取引は不成立。行くだけ無駄になる。
これが「お昼頃」という曖昧なターゲットであれば多くの人が正確にそこに辿り着く事ができる。カレンダーを見間違えるとかでなければ、夜中にYoutube見過ぎて寝坊しても大丈夫かもしれない。
整理整頓も同じ事で、「とりあえずそこに入れておけばほとんど探し物はそこで見つかる」というのと「これはこのキャビネットの3段目の抽斗にある右から十二番目のフォルダの36ページ目にある」のでは随分と違う。利便性を上げようとしてそれを時々メンテナンスして配置替えをしてしまうとまた大変な事になる。
まあ、そんなわけで、大枠はざっくり、中に入りながら絞り込んで行く程度の方が脳みそが疲れない気がする。
リリー・フランキーという人がどんな人なのか全く知らないが、こんな言葉がちょっと前に話題に上っていたようだ。
「ほとんどの人が、いわゆるちゃんとした大人になんてなることはなく、成長が止まったままの状態で、だただた歳を取っていくだけなんです」
この言葉の前後関係が検索しても出てこないので真意のほどはわからない。でも、ちょっと思う事がある。というのは、先日も「箱の思考」について書いたが、それに関連すると思うのだ。箱の件に関してはちょっと前の記事を探して読んでもらうとして、要するに・・・いきなり要約してしまうのも変かもしれないが、ここはグッと堪えていただいて、つまりは自分自分自身の課題を考えられないという事だ。
何を言う。自分は自分の思考を持ってして自分の人生をきちんと考えているぞ!と皆さんは言うだろう。いやいや、ほとんどの人はそんな事はしていない。ここ数年のsnsでのやり取りを見ていたりするとよくわかるのは意見や主張というよりは単なる反応をしているに過ぎない。シーンと静かな部屋に置かれっれば全く成立しな言葉ばかりが行き来している。つまりいつも言うように犬どうしの喧嘩と同じだ。ワンワンに対してワンワン、キャンキャンと反応している。最初のワンワンが聞こえて来なければ犬は庭の芝生の上でご飯をもらえるのをただ待って寝ているだろう。
もし犬でなく子供でもない人間の大人ならば静かな部屋一人でいても何か課題を考え出すだろう。それは問題用紙を配られてそこに回答を書き込むのとは違うやり方だ。例えば休暇だが、自分自身の都合で自分自身で時間をやりくりして休む人はどれだけいるだろう? 例えば仕事で与えられた課題をこなす以上に自分自身で必要な課題を考え出す人がどれだけいるだろう? だいたいの人にはそれが無い。会社員は会社員の事をやり、主婦は主婦の事をやる。以上、って感じだ。それは試験用紙が見えないだけでやっている事は小学校を同じだろう。むしろ小学生の方が自由研究するだけマシかもしれない。大人の自由研究はほとんど誰もやらない。
天気の良い土曜日。猫を風呂に入れた。多少の抵抗はするが、大暴れまではせず。綺麗にはなった。猫は人と暮らす歴史が長いが、いつまで経っても自分から風呂に入るようには進化しないものらしい。今後に期待する。1000年位かかるだろうか?
今日は中秋節だそうだ。満月だ。十五夜というやつ。月がとても大きく見える。
皆さん、自分の銅像が建てられると嬉しいものですか?
建てようとする人は自分がそうされると嬉しいと思うから他人にそれをしてやろうと考えるのでしょうか? 昔のエジプトの王様なんかは石像ですが、あれはどんな意味で建てようとしたのでしょうか? そういうところまで教科書には書いて無かったと思うのですが、学者さんは意味を考えているでしょうか?
北朝鮮では金初代、二代めと、それぞれが神格化されているそうなので神様の像と同じ意味を作り出しているのでしょう。それ以外だと過去の偉人とかは各地方に、亡くなってから時間が経って建てられていて、それは称えるというよりも記念碑的な感じがします。学校にある二宮金次郎はその人自体を称える意味合いよりも勉学に励みなさいみたいな意味でしょう。
まあ、いろいろありますが、どれもポジティブな意味合いか、ポジティブに見せようとする意図で建てられているのだと思います。
ちょっとニュースで見たのですが、どうも現存するある方の銅像が一部で企画されているとかで、あれなんかはどんな意味なのでしょうね? 本人は嬉しいのでしょうか?
問題解決というのはどんな場合でも物凄く難しい事だ。
例えば、今日FBでこんな記事が紹介されていた。
これを読んで何を思うだろう?
多くは、日本もアメリカのように法整備が必要、バスに運転手が後部まで行って停止させるブザーを付ける案を採用すべき? 他の記事でも紹介されていたように子供にクラクションを押す訓練をすべき?
これらはどれも正解に違いない。
ただ、言えるのは完璧な正解ではないし、数ある正解の中のたった1つに過ぎないとも言える。でも、多くの人はそのうちのどれかを正解だと言う。やるべきだと。それはそうだろう。間違った事は言っていない。
でも、気付くべき事は検討するその事象よりも正解(の1つか正解らしきもの)を言う方が、なぜそう言うかの方だ。これは経験上、ほとんどの場合、「脳みそを休ませたいから」に違いない。そこで正解に辿り着いてしまえばそこでもうその事に関して考えなくても良いという事だからだ。
これは大変に危険だ。
まず第一に、正解と考えたものが本当に正解だったのかを正解を出した本人が検証しない事を意味する。正解が正解でない可能性はあるだろうか? もちろんある。これは工場で仕事をしている人なら誰でも経験しているし、それを克服するのが工場の仕事だからだ。
例えばブザーを止めるボタンをバスの後部に付けるとする。何が起きるかはすぐに想像がつく。運転手はブザーを止めるボタンの上にゴミを丸めて置き、その上からガムテープを貼るだろう。こうしておけばうるさいブザーの音は永久に聞かなくて済む。さて、それを誰かが見て問題視して指摘したらどうなる? 運転手は子供に言う。「そこのボタン押してから外に出てくれ」ボタンではダメだ。キーを挿れて止めるようにしよう。これも簡単に破られる。スペアキーを数百円で自腹で作り挿したままにするだろう。
そんな事は何でもできる。
結局、10年に1度起きるかどうかわからない事故や事件の報道に接して臨場感を持って、自分の問題だと考えて何かするだろうか? 「いや、自分はこれまで15年この仕事やってきて1度だってそんな事にはならなかった」と流してしまうのが普通だろう。
これは当事者ばかりじゃない。例えば制度や法作りをする政治家はどうだ? 投票する我々はどうだ? ほとんど臨場感は感じない。日本全国でコロナにかかったのが公式には1990万人で死者は4万2千人。それだけ亡くなってもまだ嘘だと考ええる者がいる。バスに置き去りにされて亡くなる子はずっと少ないが、どうだろう? これを自分が何かせねばならない問題だと考えるだろうか?
工場で仕事していると物を使った解決策は山ほど出る。そんなものは簡単でどんな者にも何か思い付く事がある。そしてその者はそれを口にする。「○○すれば良い」「○○を付ければ良い」と。それが有効に機能するだろうか? ほとんどの場合はしない。
こうした問題解決は物だけでは解決しない。やり方が必要で、人が必要だ。制度にしてマニュアルを書いて、教育して、続けて、チェックして、手直ししてと、ほとんど起きない事の為にそれだけの事をし続ける。そしてそれにはコストがかかる。しかし、しなければならない。そこまでできて解決策になる「かもしれない」。
今日は猫たちの健康診断でした。まあ、普通。
安い家を買おうかと思っている。良いのがあればだが。
バブル期以降、日本では不動産は難しい物になってしまった。これはマレーシアと対照してみるとよくわかる。マレーシアでは国民全員が千昌夫と言って良い位に不動産を買って持っている。それも自分が住まないで貸しているかただ置いておくだけの家を持っている。マレーシアでは安くてもサラリーマンのような定期的な収入があるなら銀行はお金を貸す。借りる方は日本と同じで30年以上のローンで借りる。
日本と違って誰もその返済について心配しない。銀行もしない。
なぜなら、家の売価が上がる事が前提だから。返済力が多少ダメでもどうせいつか売る。そして買った時よりも高く売れる。しかしその家は雨漏りは普通、パイプの水漏れも普通、地面は傾く。でも心配無い。高く売れると思っているから。
日本では金利がこんなに低いのに同じ事ができない。家の性能は抜群に良いし便利だし。でも家の価値は下がるし、しかも売るのではなくて自分自身だけが住む事を考えるからどうしてもヤバい。
どういう事かと言うと、微妙な違いが、消費者側に立つか、それとも資本家側に立つかを分けてしまう。日本は永久消費者になるので給料が入らなくなった、低くなったというところで詰みだ。マレーシアで家を持つと、もともと払える額でもなく、金利もサラ金並なのに資本家側に立てるから有利になる。この違いが大きい。
日本でマレーシアのような事をする事はできない。なぜなら家の価値はどんどん下がるとわかっているから。できる事とすれば、これ以上価値の下がらない古い土地付きの家、もしくは土地を手に入れる事だろう。お金が無ければ現金買いできる物件しかないが。土地だけが金のようにどうあっても価値ゼロにはならない。でも金と違って土地はいくらかでも価値を生み出す事ができる。
キャサリンさんがYoutubeで父親の介護をテーマにしたチャンネルを観ているので一緒に観せてもらっている。
その人は親の希望をよく聞いているしそれに沿うようにも動いている。つまりよくやっている。だが、その父親は自分のお金が底をついているにも関わらず無駄と思えるコストはそのまま垂れ流しにしていて、下手すると家を手放さなければならないまでになっている。さらに言うには、充分に供給されている食べ物が少ないと不満を言う。(認知機能の問題でそう言っているのではない)
そうした不満は少なくとも2年前から変わっていない。普通の感覚で考えれば、「電気代や水道代を払えなくなった人ならその時点でもう生活のやり方を変えなければいけないと考える」はずだと我々は思う。そう考える人もいるだろうが、実際はそうでもない。沈む船に乗りながらも「大丈夫だろう」と考えて本当に死んでしまうのが人間だ。
さて、それはそうとして、だったら見ている方はどうすれば良いのかという問題になる。沈むのは沈む人の問題だが、見ている方には別の問題が出てくる。どうすれば良いのか、だ。
多くの人は当事者の話を聞いたり、話し合ったり、意見交換のような事をする。とりわけ肉親であれば普通にそうするだろう。だが、実際のところ、そのやり方は無意味だ。その理由は、話を聞いて話し合いをして何かを決めて実行という段取りを想定するだろうが、それは単に相手の言葉に「反応」する機会を設けているに過ぎないのだ。
誰かが自分に向かって「バカヤロー」と言ったら対抗して「このクソヤロー」と返すに過ぎない。それは名目上は話し合いだろうが、実際には「反応」だ。言葉でクソヤローならまだしも、本当のところ「ワンワン」「シャーシャー」と変わらない。そんなのは長年親子やってきていれば誰にでもわかるが、変えられない。そんなものだ。話なんか聞いてもしても無駄なのだ。
昨日、車の検査で買取査定額が出た。外国人の場合はJPJに行って名義変更しないといけないというので査定した会社を急かしたら夜に電話が来て、今日の朝10時にJPJ前で待ち合わせとなった。全ては順調に進み、そして夜までに査定と同額が銀行に振り込まれた。
夜に電話が来るのも怖いが、JPJで誰かと待ち合わせてそこで全てが決まるのも怖い。なぜなら査定の会社から従業員が情報を漏らして手続きして車を持ち去ってお金が入らないというのも考えられる。JPJで書類にサインしないといけないのでちょっと構えた。もし譲渡相手が個人名にでもなっていたら詐欺の可能性が高い。今回はそうではなかったので少し安心したが。
個人売買の場合はお金と車は交換というのが常識で、名義変更の方が後になる。それにしても車は金額が高いので札束と交換というのは難しいわけで、相手が会社なら逃げられない店舗を持つ会社と取引すべし。相手が個人なら提示金額より信用できる人にし、しかも書類は全部その場で写真を撮っておくべし、という事。
おやすみ。
車の査定に行って来た。
割と良い値段になった。ただ、問題は外国人はJPJに行って指紋取りしないと売買が成立しないのだった。夜に電話をもらって、明日JPJに行く事になった。とりあえず素早い対応が嬉しい。
この車、7年乗っている。査定前にちょっとだけ綺麗にしておいたが、7年間程度だと内装はあまり劣化しないという事。それに一応半年に1回程度軽くメーカー整備をやっていた事もあってエンジンその他、機械関係もガタが出ていない。細かい傷はあるが、まあまだ乗り続けようと思えばそれもできそうだ。
そして経済的な事としては、この車は当時のマレーシアでは最も安価な車だった事もあり、計算上はガソリン代を除き整備代込みで月あたり日本円にして15000円になる。パンクでタイヤ交換等も入っている。残価設定無しで月に1万5千円であればなかなか経済的だ。そこからこの査定額分を引くと月に8千円程度となる。
1日の通勤当たりにするとRM10。RM10で毎日往復タクシーはちょっと無理かもしれないのと、買い物もあると考えるとマレーシアでは安い車を新車で買うのは経済的に合うと考えられる。ただし、こうして長く居る事が大前提。短期では元は取れないはず。
本日も頂き物、2つあり。
1つ目は名前入りのインド式お弁当箱。これ、売っているのは知っていたけれど、名入れサービスがあるとは知らなかった。普通に売っている物よりも丈夫に作られている。こちらは今住んでいる家のオーナーさんから。
2つ目はカザフスタンのチョコレート。以前にも頂いたが、また頂いた。こちらはご近所さんから。
大変、たいへん、ありがとうございます。
昨日の続きのような事。
日本人には「箱の思考」という思考方法がある。ある箱に入るとその箱に合う思考方法で考える。例えばある会社に入ると会社の思考をする。学校に入ると学校の思考をする。主婦になると主婦の思考をする。何かの仲間に入るとその仲間の思考をする。簡単に言うと、自分で考えないで箱が考えた事を自分の考えだと思い込む。
これは脳が自分で考えるのを止めて楽しようとするところから来る。でも、それをやり続けると別の疲れに襲われる。箱の思考で箱の中で成功が得られるなら何となく良いが、いつでもそうではないし、元々自分の考えでない事を自分のものだとして調整しているから疲れる。だからハツラツとはしていない。
結局、箱の思考はロボットの思考方法だ。ロボットは教えられないと自分というものが無いからそれをやっていると自分というもの無くす。つまり、人間というのは容易に人間性を手放して生きるようになってしまうものだ。
日本では、勉強してどうするかというと、あの学校に入るとかあの会社に入るとかそうなる。つまり箱に入るのがいつでも目標になる。私は人間でなくなります。人間を捨てますという生き方。そういう人と話していても面白くない。時間の無駄。
以下の写真は今日の頂き物。贈り主は前に住んでいた家のオーナーさんご夫婦。ありがとうございます。(下は月餅がベスパの柄の箱に入っている)
頂き物ばかりしているし、時々ご馳走にもなってしまっている。けれど、このオーナーさんがいなければこの街の事で知らない事がもっとずっと多かったと考えている。本当に感謝。
人間は人生の中で子供の時代を過ぎてから高齢者と言われるようになるまでずっと働く。これは経済や社会の仕組みが働きに対する対価を払う事になっているからだし、その対価がだいたいの場合平均するとカツカツに設定される事になっているからだ。
この仕組みは人間の人生を規定していて、好きな場所に住むより仕事に行きやすい場所を選ばせ、好きな時間にコーヒーを飲まずに決められた時間に飲むし、自分自身の心配事ややりたい事がほとんど後回しになる。我々の生きている社会はそれが当たり前なのだ。
そして全体的に言えるのは、やっている事が今現在の為の事ではなくて、ちょっと先の為の事だ。将来に必要だから○○する。リアリティ無い(近い)将来の為に全てやっている、つまり、保険のような行動だ。だから、ほとんどの人はやっている事に身が入らない。そして全てが暇つぶしになる。
長い年月、人間はそんなふうにして生きて、正気を保てるものなのか?
今日は少し写真多め。
なぜなら、いつも昼飯を食べに行くマレー食堂の写真を載せるから。
意外と写真がよく撮れていた。
何事始まりがあれば終わりがある。始まりは喜ばしく華々しい。しかし終わりはその逆で寂しくて悲しい。待て待て、それは無い。そんなのは嘘だ。自分に関して言えば逆の事が多い。始まりは憂鬱で終わりはスッキリ。
生まれ育った街を離れるのが悲しい。人と別れるのが悲しい。あまりそう感じる事が無い。薄情かもしれないがそれが事実だ。
その事はまたそのうちに書こう。
昔からよく言われる「愚民政策」というのがあるが、マレーシアはそんな感じに見える。
最近、裁判によって収監させる事になった元首相の時は本当に酷かった。政府は国民によくお金を配っていたし、選挙の時にも公然と物を配っていて、「もっと欲しければこちらに入れろ」とまで言っていた。それより前にから(たぶん今も)土地を配っていたりもする。宗教行事のある長期休暇シーズンには基礎的な食品の価格を凍結させるし、ガソリンの補助金も常時だ。家は日本で言う定期預金の代わりなのだが、定期収入が有れば簡単に銀行に金を貸させる。
日本はマレーシアより組織票政治だからそこまでしないが、適当に補助金を出すような事はよくやる。でもマレーシアと同じで根本的な問題解決は絶対しない。結局それが愚民政策の行き着くところなのだ。
昔むかし、よく言った事。もし売れっ子(当時)音楽家のKが幼馴染で、たまたま会った時に「おまえ、苦労してるんだなあ。そうかそうか、それじゃ俺、フェラーリ買い替えるから1台やるよ」って言われたら貰うかというのがある。けっこう多くの人は貰うと言うのだけれど、それは格差が意識されていて、下の方は援助されなければならない存在になってしまっている。
つまりは貰う方もバカにされているって事に気付かないのだ。これは愚民政策と同じ事。結局、与えられて有利になるように見えて、実はバカにされている。それは格差を埋める為に良心的にされるのではなくて、格差が前提になっていてそれを維持する為に行われている。
気付かないなら仕方ないとしか言えない。