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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

年金得別便が....

2007-12-19 14:37:48 | 日本脱出
「ねんきん特別便」 社保庁発送を開始(朝日新聞) - goo ニュース

年金得別便がうちには来ないね。
ちょっと前に確認しに行っておきましたから多分大丈夫かと思っています。でも誰かさんの余波で変更があるかもしれないから注意しておこう。


今朝、みのさんの朝ズバに出たおばさん、「うちは大丈夫だと思ってた。」なんて言ってたのには見ていたこっちがびっくり。だって宙に浮いたのが5000万件もあるんだから確立1/2で当たるってことだよね。年金払ってない子供もいるから確率はもっともっと高いはず。これが試験だったらデタラメにマークしても50点も取れるでしょ。だったら「まさか」は無いでしょうに。


宝くじで1等が当たる確率が1/1000万なのに皆当たるかもと思って買うのに1/2の年金問題はあたらないと思うって素敵な発想ですね。地球が滅亡する時に自分だけ助かるって言ってるみたいだ。


ちなみに、交通事故死は1/1万人、死ななくても1/100人が人身事故に遭遇。自殺は3/1万人もいる。それと、あなたが来年1年間の間に殺人犯になる確立は1/10万人 (つまり宝くじの100倍の高確率)です。


毎年それだけの殺人犯が生まれると言う事は、この日本はある一定確率で殺人犯を創り出すインキュベータ(孵卵器、保育器)になっているとしか思えませんね。毎回猟奇的な事件が起きると、個々にその人はどんな育ち方をしたとか、どんな性格だったとか、凶器を持つに至った経緯、周囲の環境や警察は防げなかったのかなどと言うけれど、そんな議論は無駄なのかも知れません。

だって、我々が毎年きちんと10万人に1人を殺人犯人に育てているんだから。

そう考えると、殺人に成功してしまう殺人犯は1/10万人だから、そこまでに育ちつつある人の数は、人生75年としたらその75倍。つまり少なくとも75/10万人はいるはず。うまく育たなかった人もいるとしたら1/1万人以上は必ず予備軍がいることになります。小さな町に1人以上は殺人犯人予備軍が育てられているのですね。

確率1/2で年金問題に当たらないであろう人は絶対に?そうならないかも知れないけれど、明日自分が殺人犯になるかも、と用心しておくべきじゃないかって気がしてきます。刑務所には何持って行ったらいいんだろう。歯ブラシはある?


人間はいつでも合理的でも理性的でもないって事です。

映画「PEACE BED アメリカvsジョンレノン」 -危険だ

2007-12-14 13:39:13 | 映画って !
もしこの映画を見て、ジョンレノンをすごい人だと思った人は警戒した方が良い。ジョンレノンが体制や政治と戦っていると思った人は自分の無関心に気付くべきかも知れない。

アメリカとか戦争とか平和とか時代とか、そしてジョンレノンを自分と関係ないどっかの時代のどっかの偉人として区別する見方になってしまっている自分自身を警戒した方が良いと言うことだ。つまりそこで思考停止だ。

この映画はそれだけでも成立してしまう。
そう言う危険を伴った映画だと思う。


平和とか戦争とか、そう言ういろいろな事は知っている。ジョンレノンも知っている。歌も聞いた。詩は英語だけれども読めばだいたいわかる。ベトナム戦争があって、それに対して違うんじゃないのって言うところに体制vs反体制を見るのだけれど、その見方なら怪獣映画と同じだ。破壊する怪獣に対する正義の味方だ。

但し、それも限定された時代の区分の中では間違いじゃない。破壊や殺戮は良くないことだという意味においては。


しかし、ジョンレノンのもっと大きな戦いは無関心との戦いだったのではないか。つまり、ジョンレノンの時代を歴史の中の”あの時代”と区別して見る見方であって、それは”現実の無関心”に通じるものだろう。

人々が無関心でなければジョンレノンは歌を歌わなかっただろう。あらゆる手段を使って人々を啓蒙したりはしなかったはずだ。ベトナム戦争もニクソンもあの時代だけのものだったけれど、無関心は人類の永遠の問題じゃないだろうか。


もしこの映画を見て、ジョンレノンをすごい人だと思った人は警戒した方が良い。ジョンレノンが体制や政治と戦っていると思った人は自分の無関心に気付くべきかも知れない。


この映画はジョンレノン本人の中身から描いてはいない。全て外からだからこれだけでジョンレノンがどう言う人だったかとか、その信条とかまでは見えない。どっちかと言えばジョンレノンの周りに流れていた時間を見せてくれているんだと思う。



本題とはちょっと違うが、アメリカ映画を見るのが好きならこの映画をみておくべきだろう。今作られる映画は、たった今だけのものではなく、作られる背景と言うものがもちろんある。その背景の一つ大きな部分はこの映画の時代であろうと思う。

学力低下は子供だけか?

2007-12-05 13:18:21 | 日本脱出
15歳の学力で日本続落 応用力、読解力とも OECD(朝日新聞) - goo ニュース

全分野で順位が後退 OECDの高校生学力調査(共同通信) - goo ニュース

日本、数学10位に後退=下がった読解力も前回並み-OECD15歳調査 (時事通信) - goo ニュース


こう言う記事を読むと「ああ、最近の日本の子供は...」「日本の教育制度は....」などと思うもので、政府は教育制度をどうするこうすると言い始めてきっと何とか委員会とか協議会の中で学識経験者か何かが話し合って答申を出すことになる。だいたいいつもそんなものだ。

そっちの話はちょっと置いておこう。


それで、学力低下は子供の事だけれど、15歳のランキングが大人になってどうなるのだろう。

このニュースをテレビで見ていたら幾つかのランキング上位に去年まで仕事で居た台湾が入っていたのを見て思った。大人になると多分もっと差は開くだろうと。野球では勝てても大人の学力ではきっと大差で負けるのではないだろうか。

台湾は日本に負けず学歴社会だ。だから多くの人が大学へ行く。それは当たり前。だけれど、違うのは”仕事を始めてからもまだ学ぶのが普通”だと言う事。20代30代ならかなりの確率で夜間や休日に大学で学んでいる。大学を出ても再度入り直したり、専門学校を出て就職してから夜間の大学に入って学位を取る。

なぜかと言えば、それは給与に直結するからだ。学位があれば同じ会社に入ってもランクが違って給与も違う。職種も違う。それは日本でもあるだろうが、もっと違うのはそこで安心していては給与は増えないと言うことだ。

同じ仕事をずっとしていると給与はそのまま。だから昇進するために一所懸命に仕事をする。それでダメなら大学で新たな学位を取って別の会社に移動する。そうすると給与は上がる。上手くいけば何倍にも上がることがある。


学び方を見ていると日本と台湾では少し違う感じがある。
日本は仕事に就いたらその仕事場のやり方をとことん学ぼうとする。なぜならずっとそこに居るためには上司や先輩と同じやり方でやるのがウケが良いからだろう。

それに対して台湾の場合は汎用的な技術や知識が偏重されるようだ。だから始めて仕事に就いた時には、悪く言えば知っているけど出来ないように見える。日本人から見ればプライドばかり高くて何もできないじゃないか、と言うことになる。
けれども良く見ていると伸びが速い。習得が速いように見える。

多分、彼らには日本的な丁稚(でっち)奉公のやり方では時間が無いのだ。同期より早く仕事を覚えなければ永久に昇進はない。つまり昇給も無い。(台湾は大きな株式会社であっても個人経営的であるから、同じ仕事をしているのに給料だけ無制限に増えていく事は事業者として考えられないのだろう。) もし昇進しない (できない、では無く) ならば、そこでもノウハウを別の会社にお土産として持っていかなければならない。それはほぼ3年後なのだから。


そう言った理由で、15歳の学力差はまだ序章に過ぎないと思うのだ。


日本は最近フリーターなどの非正規雇用で働く者が増えた。それを問題視している社会はできるだけ正規雇用へ落ち着かせたいとしている。当のフリーター達も正規雇用を求めて戦っていたりもする。それは確かに今の社会の仕組みから言えば一番安定な方向であろう。

だが、その安定志向が故に個人の能力の低下に繋がるようではこの先、日本株式会社としてはいかがなものだろう。今も昔も資源と言えば人間しか無い国であるのに、そんな安易な丁稚奉公システムを存続していて良いものか。

もっと言えば、15歳が勉強しないのは大人がそれをしないからではないのか。子供は学校に入れておいて自動的に勉強するだろう。自分達はマンガを読んで遊びに行ってウィークデーは仕事場に居れば決まった額だけ給料が入る。昇給は自動的に行われるだろう。これで15歳の学力を学校と教育制度のせいにできるものなのだろうか。

映画「クリムト」 -クリムトのホログラフィー

2007-12-03 10:12:13 | 映画って !
起承転結のはっきりしたアメリカ映画に慣れてしまった者にはなかなかの問題作であろうかと思う。

この映画全体がクリムト本人を表すものになっていて、それはまるでクリムトの作品を時間軸の中に展開したところにクリムト自身のバイオグラフィーレイヤーを重ねて映像化している。そこには起も承も転も結もない、クリムトの絵の世界そのままである。

人の死が人生の「結」であればクリムトの作品にはそれが散りばめられているて、もはやそれは「結」の役目を果たすものではない。起も承も転も結も同等に散りばめられていて、生の中に死を、死の中に愛を、天国の隣に地獄の臭いを感じ取るのである。


そう言ったような事を飯食いドラマのごとくに一般的な共感を得るものとして描き出す事は、ほぼ不可能ではなかろうか。絵画芸術は、表現者個人の心の中に醸される美を2次元や3次元の制約された中に、「結果」として投影されたものであって、本人の心の動きそのものでは無い。人はその結果から「ああ、そうだったのか」と過去形で知るのである。クリムトの人生に奥行きを持たせて描く事は至難であったろう。

この映画を見る事はホログラフィーを覗き込むのに似ている。