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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

"がんばる"

2012-12-01 22:44:50 | 日本脱出
豊田自工会会長、頑張った人が報われる社会を 2012年11月16日(金) -Response(←クリック)

記事によれば...
"日本自動車工業会の豊田章男会長が総選挙後に発足する次期政権について、「国民の苦労がわかり、頑張った人が報われる国や社会をつくる政治をしていただきたい」と注文した。"
...との事。


聞こえは良いが、"がんばる"とはどんな状態を指すのだろうか? 高学歴になるように一所懸命勉強して受験戦争を勝ち抜いてきたこと? 仕事で残業をたくさんするなどして滅私奉公すること?


まさかとは思うけれども、こうした立場にある人達でも明確な明るい未来像を描けてはいないように見える。だとすれば、"がんばる"ってどう言う事かさへもう個人で考えなければいけないと言う事だ。もう社会や国にはそうした力は残っていないのだから。

天才の無駄遣い

2012-10-01 20:49:32 | 日本脱出
連続スクープインタビュー「天才たちの世界」彼らは何を考え、何をしているのか - 現代ビジネス

この文章の最後の方にこんな事が書いてある。

"しかし彼はやがて、人間関係で躓いて鬱状態になってしまう。姿を見せないことを心配した西成氏が部屋を訪ねると、彼は電気を消して、真っ暗な部屋の真ん中にぽつんとうずくまっていたという。「結局、研究者にはならず民間企業に落ち着きました。・・・」"

この天才的な人が民間企業に入ってその後どうなったかまではわからないが、ほとんどの企業では新しく入ってくる人に天才が混じっているなど想像してはいないだろう。もし天才が混じっていたとしてもそれがわかる人がいるとも思えない。彼は人間関係がうまくいく方法を学べたのだろうか? 逆にもし学べてうまく行っているとしたら天才は活用できるのだろうか?


こんな天才の人が世の中にどの位いるのか知らないが多分、彼らの能力を活用できているわけではないのだろうな?、と思わないではない。



そう言えば、文章の冒頭に外国人の天才の女性が出てくる。そうそう、高IQと言えばあのライス国務長官もそうだった。女性の天才は欧米ばかりに多いと言うことも無いのだろうから日本にもいるかもしれない。けれどもあまりそんな事は日本では聞かないし、国会議員さんでもその他の職業であっても男優位になっていて女性比率は極端に少ない。

そうそう、天才には達しないかもしれないがキャサリンさんのお姉さんは学校の成績の上では相当優秀だったそうだ。そのせいか子供たちも学校の勉強で苦労などした事は無いと聞いている。その上スポーツでも優秀だとか。そのキャサリンさんのお姉さんだって子供を生んで仕事をいったん辞めればそれでリセットされてあとはただの人扱いだ。日本では一度ラインを外れると復帰は難しい。それがいかに優秀な人であってもほとんどの場合そうだ。

特に女性は損に見える。やる気さへあれば、などと言われるが実情を見ればやはり不利は不利だと言わざるを得ない。


もし日本に女性で天才がいたとしてもその天才でその人の思い通りの場所に浮かび上がれるかどうか?、それは疑問だ。もし目に見えるところに100人の天才の男性がいたとしたら、天才でも注目されずに沈んでいる人がその裏に100人位いて、さらに女性の天才の人が同数生まれてくるとしたら200人いるはずだけれどもそのほとんどが沈んでいる事も考えられる。ノーベル賞をとった人の中で女性はたった5%だそうだが、もちろん日本人女性は候補にも上がっていない。(もしかしたら上がっているかもしれないが調べられなかった。)


それにしても女性にしても男性にしても我々は天才を無駄遣いしているのではないだろうか? 天才とは言わずとも、誰かのほんの少し他人より秀でた才能さへも無駄遣いしているのだから、街を歩いてもほとんどお目にかかれない天才どころの問題でもないわけだが。

統一地方選終了で残念 その2

2011-04-11 13:43:15 | 日本脱出
地震の後、「みんなでがんばろう」「復興しよう」のような掛け声が高かったので今回の選挙は投票率がもっと高くなるかと思っていたが、それとこれとは別だった。そうなると本当に復興の協力しようと言う力が日本にあるのかまで疑問に思えてくる。

この災害でいろいろ問題が指摘された。政権党である民主党の指導力や決断力の無さ。いろいろな部分ですることが後手後手に回ったと指摘されている。天下りは東電へも含めて止められなかった。別に、過去の政権党である自民党も東電から献金を半ば組織的に受けていたと言うニュースもある。

この状態であってもまだ投票率が前回までとあまり変わらないのはどう言うことなのだろう。食料配給を列を成して待っていたのを世界から賞賛されたけれども、その行儀良さが今度は反対の評価につながるのではないだろうか。


選挙では必ず「変えよう」と言う声が上がる。

日本人はその「変えよう」の中に「維持しよう」「元に戻そう」もしくは「変えない」の意味を読み取る。変えると言うのは刷新したり革新の意味ではなくて、今立っている波風を鎮めようと言う変化を表すからだ。

その結果、政治に参加しているものはほとんどが保守となってしまった。いつの間にか保守革新の争いは無くなり、より安心できるのは誰かと言う保守保守が政争となってしまっている。前回民主党が政権党に躍進したのは民主党が現状を革新できるからではなく、民主党が自民党と同じだけ現状維持できる政党と認められるようになってきたからだろう。


その結果、始まったことはばら撒きの相手が多少変わっただけだった。今回はそれがまたダメで再度多少の揺り戻しがあった。



石原都知事の再選に異存は無いが、彼のような東京にとってのスーパーマン的人材を求めるのは変化を求める姿勢の表れであると言うより、他の誰もが自分では何もやらないよ、と言う自己表明に感じないでもない。

こうしてニュースを見れば見るほど残念だ。

統一地方選終了で残念

2011-04-11 07:00:34 | 日本脱出
選挙が終わりましたが全国平均で投票率が低かったのが残念でした。

傾向としては前回の自民批判票が民主に移っていたのが元に戻りつつあると言うところでしょうか。ただ、みんなの党が票を延ばしているのがちょっと違う動きかもしれませんが、保守である事には変わりないとすれば日本はこれまで通り萎縮傾向にあると見るべきでしょう。あまり大きな変化を望まない。

神奈川県知事選ではいろいろ政策はあるにしてもニュースでは防災関係とちょっとした行政改革が話題になっているだけで本質的にはよくわからない選挙のように見えてしまい、これも残念。もう一つ残念なのは黒岩氏と鴨居氏は自分のHPで何をやりたいかを表示していますが、露木氏はブログだけで内容が"町長のティータイム"となっていて個人的なブログ。照屋氏はそれも無い。

昨今、韓国の大統領選などはネットの動きが国を左右すると言われているにも関わらずそうした準備もしていないとは、これでは票を獲得できなくて当然であるし、オンチと言われても仕方ない。(選挙期間中にネットで選挙活動はできないにしても。)さらに残念。

"報道されない"と報道

2011-04-08 19:20:23 | 日本脱出
まず読む。

報道されない被災地 ウワサと現実の乖離 -産経新聞(←クリック)


内容を読むとまともでなくも無い、が、ちょっとひとこと言いたい。



これが今まで報道されなかったと言うのなら、報道しなかったのはおまえだろう




日本のマスコミってのはよくこう言うことをやる。

「○○○の真実」なんて見出しに書くが、今までその真実とやらを書かなかったのもマスコミのはずだ。マスコミ批判が起こるととたんに私はあの批判されている側のマスコミじゃありませんよ、と言う態度をとる。カメレオン方式だ。こう言う生き方は楽かもしれない。見習わなければ。

X X X が犯した9つのミス

2011-02-17 22:03:53 | 日本脱出
もう少し前の記事になるがNYタイムズ記者のコラムにエジプトのムバラクに関する記事が出ていた。

「ムバラクが犯した9つのミス」と言う題だ。
1)富の分配を怠る
2)汚職の蔓延を容認
3)ビジョンのなさ
4)及び腰の改革
5)長男を後継者に
6)ネットの力を過小評価
7)選挙での不正行為
8)略奪団を送り込む
9)取り巻きを近くに置く

──ブレイク・ハウンシェル
[米国東部時間2011年02月01日(水)17時27分更新]


日本に当てはめるとどうなんだろう?

1)日本ではお金の配分は比較的うまくいっていると思うがチャンスの配分は全くダメだろう。努力も苦労も(その方法が最上とは言わないにしても)報われない。大学を出ていても企業が欲しがるのは未だに従順なバカなのだから。

2)マレーシア人から見ると日本は高度にシステム化されていて汚職の入り込む余地などないだろうと言われるが、実際には汚職や利権絡みのいろいろな事件(事件にさへならないものも多い)と縁が切れた事はない。政治家は利権から甘い汁を吸うためにある商売だと誰もが考えている。

3)ビジョンと言う言葉は日本にはない。

4)改革と言うスローガンは耳に心地良いようだが、日本国民は必ず変化の無さを選ぶので本当に改革じみた事をしようとするとすぐに飛ばされる。

5)政治家の後継者は息子や娘と決まっている。歌舞伎役者と同じ仕組みだ。

6)ネットやハイテク機器よりどぶ板の方が好きらしい。どんなにネット上で罵倒されていても無関心でいられるのはある意味幸せだろう。

7)票の取りまとめを誰かに依頼するのは不正とはされていない。自由意志より別の関係が重視されるのは民主主義なのかと言う疑問も無いではない。

8)これはよくわからない。

9)取り巻きを近くにおいて国民の声をブロックするのは常套手段だ。とりたてて珍しいことでもない。


エジプトではこの程度の事で国がひっくり返るなら日本はもう何十回もひっくり返っていても良さそうなものだ。


....いや、待てよ、死んだ犬には石を投げるものはいないと言うけれど、ひっくり返らないのはそっちの方が原因かもしれないぞ。

日本は進んでるのかな? (スマートフォン)

2010-12-31 00:14:33 | 日本脱出
日本は今でも技術に優れる国って事で通っているけれど、本当にそうなのかな?、と思うことがある。マレーシアに来て、最近特にそう思うようになった。

先月あたりから日本の携帯電話各社がこれからスマートフォンに注力すると公式の場で発表していたのをニュースで見て、あれあれ、そんな事発表してしまっては遅れていたのをバラすだけじゃないのかな、と思うのだ。

それでちょっと日本でのニュースとその反応を見てみると、スマートフォンに対して"高いからいらない"みたいな事がよく言われている。日本だと写真が撮れてメールができてと言うのがまずあって、それに加えてあんな事もこんな事もできる、つまり携帯電話のパソコン化のような捕らえ方をされているのだと思う。だから最初は高くてビジネスとかマニアが買うものから始まるお決まりのパターンになっているように感じられる。

これがマレーシアだとだいぶ違う。お給料と同額になるほど(マレーシアは日本より給料の額面は低いけれど)高価なスマートフォンをかなり多くの人がもう使っている。工場のオペレータさんは1800リンギット(5万円)もするブラックベリー、中間管理の仕事をしているある人は韓国製の最高級スマートフォンをやっぱり同じ位の値段で買って使っている。iPhoneだってけっこう多くの人が持っている。

それで何をしているかと言うと、メインはやっぱりfacebook。画面が広めで写真が撮れたら簡単にfacebookにアップしてコメントが入れられるのがスマートフォンの定義だと言っても良い位だ。


反対に日本だと電話のパソコン化であり高機能高性能化を考えているからカメラとして使っても遜色が無いものだったり、支払いに使えるとか、どちらかと言うと物理的な進化が主のように見える。それはすなわちこれまで携帯電話を進化させてきた道そのものなわけで、こうして海外から見ているとスマートフォンに注力と言っても進む方向がちょっと違うんじゃないかな、と心配させられないでもない。

それはそれで有りだとも思う。けれども、技術があって、優秀な人材が集められたとしてもやはり日本で考えていることは日本の枠のことなってしまうのだろう。日本では電話会社が指定する機能を作り続けて、それは高度な技術を生み出しているかも知れないが、やっぱりちょっとズレている。

今中国の名も知れぬ会社がどんどんスマートフォンを出してきている。日本にいてそれを見るとまがい物やキワモノのように見えるのだけれども、それにはそれを出す理由と言うのがちゃんとあってそれで成り立つ考え方や世界もあると言うことじゃないのだろうか。


あるマレーシアの人が使っているブラックベリーのまがい物は操作も見た目もちゃんとブラックベリーだけれど、本物以上の機能が足されていたりする。単に真似しているだけじゃない。facebookだって日本だと実名でしかも自分の写真を載せるなんてあまり考えられないけれどもそうやっていて、実際に使い方が日本人とはかなり違う。そうしてこれがもっと一般化するから今のように高級機主流のスマートフォンのままである事は考えにくい。

来年、日本メーカーもスマートフォンをたくさん出すだろうけれど、世界はもう日本メーカーが出す高級機より"普通の"スマートフォンに主流を移すことになるのじゃないかと想像する。今までのGSM携帯電話からいきなりその多くがスマートフォンに変わるなんて日本にいては想像できない変化になるかも知れない。楽しみだけれど、これでまた日本メーカーがどうなるのだろう、とちょっと心配でもある。


(HuaweiのIDEOSは日本でスマートフォンとして売るとスペックが劣っていてダメ。だからあれを3Gルータとして売るのは正解だと思う。今だと日本では最高のスペックの物しか、つまりiPhoneに見劣りしない物しか注目されない状態なので3Gルータに携帯電話機能がちょっと付いたから安いのですよ、となったのだと思う。そう言う見方しかできないからHuaweiがIDEOSを出す決断を下した意味だって日本にいてはわかりっこない。)

日本鬼子

2010-12-19 23:27:31 | 日本脱出
"日本鬼子"がYahooニュースで出ているけれども、日本のオタクさんたちもすごいなと感心します。

こう言う発想が他でも必要なんだろうな、とまじめに思うのです。


インターネットの時代が始まった当初、"インターネットを使うと調べ物に便利"などと受身的に捉えている時期が本当にありました。時間が流れて今は受身でなくてもっと"出す"ものに変わりました。そうすると逆に自分のような"受身"の姿勢で始まった年代の人たちは時代に置いて行かれてしまって、どちらかと言うと"この世にさへ存在しない"かのような人間になっています。

Facebookやmixiで検索しても出てこない人は本当に"生きてるの?"とか、"本当にいるの?"って感じになっちゃっています。実際にはインターネットの外にも世界はあるのでそんな言い方は失礼だし偏った見方でもあるのですが、そんな風に感じてしまうのもわからないでも無いのです。


そうなると、いろいろな物事の意味もインターネットで変化します。「日本鬼子」と中国人が日本人を揶揄する言葉が今はGoogleで画像検索すると萌えキャラばかりが出てくるのですから、本来の意味を萌えキャラが圧倒してしまって揶揄でも侮蔑でもなくなってしまったのだそうです。

元々、"オタク"と言う言葉や人だって軽蔑的に使われた言葉でしたが、それがインターネットで世界に伝わると"Cool"になってしまって、これも変質しています。むかーし昔の1990年代終わりに"You've got mail"と言うメグ・ライアンの出た映画はみんながメールを使い始めたころの映画ですが、その時のメールはAOLでした。時代を反映したロマンチックで一流俳優さんも出た映画だったのに2000年代になるとAOLはダサいの代名詞に変わっていました。


こうした事は"変わってしまう"、と言うよりみんなが"変えている"と言うのが近いのじゃないかと感じます。

「日本鬼子」に関してはかなり積極的で"ルール"から変えている感じがします。国と国や人と人の争い方のような方法論さへも変えているのですから、何てクリエイティブな感覚の持ち主が多いのだろう、と感心するばかりです。そうした感覚をもって政治でも職業でも経済でも日常生活でも変えられたら楽しいと思うのです。日本もまだ捨てたものじゃないですね。

ペソギソ、カソカソ!

2010-12-12 12:44:00 | 日本脱出
ノーベル賞のニュースが出ていました。

こうしたニュースが出ると"同じ日本人として..."のようなコメントが全体に多くなりますが、受賞された方々と(多分日本人の一人に含まれるであろう)自分が本当に"同じ"と言い得るのかどうかと言う疑問がいつでも沸きます。

アメリカでイチローや松井が活躍しても、どう考えても"同じ"で括るには無理がありそうなのと同じ意味です。しかも世界で注目されるノーベル賞となれば......。そして、その方々の育ってきた年代、時代、受けてきた教育と自分のそれが果たして同質だったのかどうか、私にはとても想像がつきません。多くの方が帝大時代になりますし。



と言うわけで、調べてみました。だって、日本の教育を受けて育った受賞者(日本に現在いらっしゃる方以外も含みます)はたった18人しかいませんから、統計処理は楽です。

これから日本人受賞者数が増えていくか減っていくかこのグラフからはわかりませんが、前途多難であることは間違い無さそうです。多分"同じ"日本人などと言ってはいられない事は確かなのではないでしょうか?





こんなことをやっているとペソギソがカソカソに怒ります。もうご飯にすべきです。

自分は世界中でどれだけリッチなの?

2010-10-30 21:53:50 | 日本脱出
日々忙しく仕事に励み収入は定期的に入ってきてもなかなかそれに見合う豊かさと言うようなものは感じらません。マスコミは日々新しくて素晴らしい画期的な商品やサービスが出たと騒ぎ立てますが、サラリーマンの月のお小遣いはたかが知れたもの。ボーナスが出たらあれとこれを買おうなどと思ってはみても、現実にそれが振り込まれるとなかなか家計や生活設計が許さないものです。

そんなわけでもありませんが、上のグラフの縦軸で自分の年収のところを見てください。(対数なので分かりにくいかと思います。しかしそうしないとたいへんなグラフになってしまうので許してください。)そこから左にまっすぐ水平に視線を移動して青い線と交わったところで今度は下に下りてください。そこがあなたの世界での収入ランキングになります。

ランキングは%で表されます。これによると日本人の80%の人は世界ランキング14%以内に入ります。日本人の中で6%の人はそれよりちょっと下、14%ほどの人はそれよりちょっと上です。

これで少しは豊かさを味わうことができましたか?


さてその豊かさをどう使うか、ってのが次の問題ですね?!
何に消費してしまうか、それとも誰かに何かの形で分け与えるか、それは自分次第ですけれど。




⇒はマレーシアの平均"世帯"収入です。マレーシアでは1世帯で夫も妻も働くのが普通ですから1人あたりの年収はこれより少なくなります。



自分の詳しいランキングが知りたい人は下のサイトで自分の年収を記入して"Show me the money!"をクリックして確かめてください。

Global Rich list」(←クリック)

日本人には"普通の"価値感が無い

2010-09-26 21:30:37 | 日本脱出
日本人には"普通の"価値感が無いのではないだろうか?


仕事をしている日本人の頭の中は仕事や会社の中に必要な価値感に大きく支配されていて、それ以外のものが無い。

例えば仕事が混んでいるときにある人が家族のために休みをとったとしたらどう思うだろう? その人は仕事に対して積極的でないとかやる気が無いと思うだろう。例えばライバル会社の物が気に入って購入していたのがわかったら愛社精神が無いと言うかもしれない。


考えてみれば、学校に入ると学校の成績なり試験なりの価値に強制的に切り替えなければ不利になるのだし、会社に入れば会社の価値感に切り替えてそれを共有することが必要とされる。入学式や入社式はその価値感切り替えの儀式のようでもある。日本人の場合はそうした儀式を経ることによって自分以外の何者かに"なる"のである。○○大学の学生になる、○○会社の社員になる、○○と言う職業の人になる。

そして完全に何者かになってしまう。


海外にいると、そうした日本人と現地にいる(日本人から見た)外国人とのコントラストを強く感じる。

ここマレーシアではマレーシア人は日本人のように巧みに自分を"切り替える"事が無いように思う。例えば毎週金曜日のお祈りの時間は仕事がどんなに混んでいる状態でも必要であるし、家族と過ごす時間を仕事のために割くことも稀だ。

日本人からは、彼らについて仕事をしないしやる気が無い者とも見える。ただ、個別にその人たちと話をしてみると決してそうではない事がわかる。単に彼らは配分しているだけなのだと。


逆に言えば、日本人は仕事以外の生活や社会やその他いろいろな価値に対する配分ができないと言うか、もともと自分自身の普通の人間としての価値感と言うものが無いのではないだろうか。いつでもあるグループに所属してその中の価値に切り替えて生きてきた日本人。我々は、自分自身としのそれが必要ないものだったのではないだろうか。



長くやってきた仕事を退職した時に何も残らない日本人。仕事を辞めた後何年もの間、自分は○○会社で○○をやってきた人間だと自己紹介する日本人。

我々日本人には、普通の価値感は育っていないし持ってもいないのかも知れない。

113対186

2010-08-08 08:54:26 | 日本脱出
最近小さな楽しみのネタを見つけた。

Yahoo!はあまり好きじゃないのだけれど、Yahooニュースにはコメント欄が付いているものがあってそこにコメントを書き込むことができる。コメントが書けるものは他にもあるだろうが、そのコメントに対して「私もそう思う」「私はそう思わない」をクリックして投票できるのが面白い。

そこでたまにニュース記事に対してコメントを書く。これはできるだけマトモに書く。情緒的な批判のようなのはいけない。きちんと読んで判断される事のできるコメントを書く。

気をつけているのはコメントの書き方で、できるだけ「私はそう思わない」をクリックされそうなコメントにする事だ。間違った事を書くのじゃなく、マトモなのだけれど感情的に反対を押したくなるものを書く。


その結果、現在の(8月8日8時52分マレーシア時間)の結果が、
「私もそう思う」 113票
「私はそう思わない」 186票

まだまだ訓練が足りないようだ。
もっと「私はそう思わない」に偏るようにしなければ。

ダライ・ラマ14世のメッセージから

2010-06-20 11:10:16 | 日本脱出
「英語学び貢献を」と言う記事が毎日jpの記事に掲載された。

日本外国特派員協会にて日本の若者の間で自殺者が増えていることに懸念を表明。そして「内に閉じこもるのではなく、世界の共通語である英語を学んで、アフリカやラテンアメリカなど外の世界に飛び出して貢献してほしい」と言ったそうだ。

(日本人の自殺が多い事と世界に飛び出して貢献して欲しいの間にどう言う論理の繋がりがあるかについては他の記事を検索して読んで欲しい。興味があれば。)


今、日本人はあまり外国や世界に興味が無い。だから状況が分かっていないと思うけれども、今日本が世界の誰かのために貢献できる事はいろいろあるはず。今世界の多くの国は過去に日本が経験してきた発展の段階にあるのだから。

その日本には仕事が無い高学歴の人がウヨウヨしていて、その人達は仕事を任せればある程度以上には出来るだろうし、まして世界ではそうした人を必要としていかも知れない。にもかかわらず、日本ではその能力やスキルでは仕事がありませんと言われるのがオチだ。

将来のためにお金を貯めようと考えれば海外で生きるのは不利になる場合がほとんどだと思うけれども、もしかしたら誰かが自分を必要としてくれるかも知れないと思って実際に行ってみる、見てみる位は試しても良いのじゃなだろうか。そうしてみれば、逆に得る物だって多いはずだ。



昨日のバングラデュから来た人も他の多くの人も日本に対して"お金持ちて良いね"と言ってくれる。日本にいるとそれは実感できない。スーパーに行って特売100g80円台の豚肉を買ったりしていると自分が豊かな国に生きているなんてとても考えられない。けれども世界はそうは見ない。世界中からいろいろな高級品を輸入できてそれを安い物だとして飲み食いしているのだから。

"お金持ちて良いね"は確かに当たっているのだけれども、考えなければいけないのは、その大量のお金が日本人をどれだけ幸せにしたかと言う方だと思う。"お金を持っていても幸せにはなれないんだよ"と言って少しでも分かってくれるのはきっと今少し経済的に豊かになったマレーシア人意外にまだ少ししかいないかも知れない。


でも本当に幸せなのはその豊かさを誰かに分けてあげられる事なんじゃないだろうか?

 その昔、日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれた時代がある。お金を貪り食うだけの動物と言うような意味だ。今はそれを他の国の誰かが真似してやっているかと思うけれども、それで彼らが経済的豊かさを手に入れたとしても本当に幸せになるかはわからない。

そうした事(反省)も含めて我々にはまだ世界の誰かに対して何かしてあげられる事が残っているはずだ。(円の価値が無くなって出ようにも出られなくなる前に....。)




※私はダライ・ラマやそれに関わる宗教的な事を特に支持しているわけではありません。世界を見てきた先人の一人としてその言葉をいただいたと言うことです。

リーダー待望論と言うフィクション

2010-06-06 23:27:17 | 日本脱出
WIRED YISIONをたどって行ったら、Nikkei BP net>総合トップ > 時評コラム > 財部誠一の「ビジネス立体思考」の中に「日本にも真のリーダーを」と言う記事があった。

この記事は日本で首相がまた辞めた事に対して書かれたもので、誰もが予想する通り、日本に本当のリーダーが育ってくることを祈るばかり....と言う結論に達している。こうした事態になると(それも毎回の事なのだけれども)必ず真のリーダー待望論と言うのが出る。そしてほとんどの場合それが実現する事は無い。

リーダー待望論、それはきっと誰もが望む事だろうと思う。多くの人が文句無くこの人なら、と支持できる素晴らしくふさわしい人がいるとしたら、その考え方は正しい。さて、その人は具体的に誰なのか、と考えると.....簡単には思い浮かばない。まさか長嶋茂雄だとか野村監督などとは言えないだろう。カルロス・ゴーン氏は外国人だ。オバマ氏はもうあちらで大統領をしてしまっている。そのまんま東氏はどうだ? 猪瀬直樹氏、田原総一朗氏、大前研一氏、蓮舫氏......どうもよくわからない。

実際にそんなスーパーマン(ウーマン)氏はいるのだろうか?

日本におけるリーダー待望論と言うものはどうしてもフィクションであるとしか思えないのである。


経済界、経済評論家、政治評論家、マスコミ、その他多くの人々はそのフィクションを信じている。だから何時でも待望論は絶えず提出されるし、こうして日経BPのような誰もが読むサイトに何の疑問も持たれずに掲載される事が可能なのだろう。実現性がほとんど無いにも関わらず。実現不可能なSF映画の内容をきっと実現するとかたく信じている妄信者と同じではないかとさへ思えてくる。



こうしてみると、フィクションには人を信じさせる何らかの力があるのだとわかる。多くの学術論文でも建築作品においてもそうで、そこには必ずフィクションが挿入されている。悪い言い方をしてしまえば嘘なわけだけれども、それは想像力の産物であると同時に固定されていると考えられているある前提条件の変更でもある。それは誰もが当然そうであろうと信じて疑わなかったが実際には根拠の希薄な何かがあって、そこのところをこうしてみたらどうなのだろうと言うようなフィクションによって「ああ、そうだったのか」「自分達は何を信じていたのだろう」と気付かされるものだ。


逆にリーダー待望論のように実現性の低いフィクションまで信じてしまう結果ももたらしてしまう。であれば、もっとそこにフィクションを挿入して遊んでみたらどうなのか。

日本は総理大臣がどう変わっても国はあまり変わることが無かった。だったら総理大臣と言うポストを廃止してしまおう。日本のやり方はどうしても調整的であってリーダーシップに頼る場面は無いのだから複数名の大臣だけを選ぶことにして、彼らの合議制で物事を決めることにしてはどうか。

ついでに、これだけネットワークインフラが整ってきたので(全戸に光ファイバーを通すと言う案もあるらしい)大臣1名分の投票権をネットワークによる国民投票に置き換えてみるのはどうか。ついでにバーチャル大臣を設定し、選挙権ある国民のネットワーク投票や意見を瞬時に集計して平均的な意見を言うバーチャル大臣に物を言わせ、それなりの権限も持たせてみるのはどうだろう。ゲームのように面白くて政治に関心を持つ人が多くなるのではないか。


などと、バカで単純なフィクションをいろいろ考えてみるのは楽しい。そうしているうちにもしかしたら実現可能で素晴らしい未来を作れるフィクションも考え出される可能性だってあるだろう。そうならなかったとしても、自分が何を前提条件にある事を「正しい」などと"妄信"してしまっているのかだけはきっと分かるのではないだろうか。