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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

ゴツゴツして不整形で完璧じゃない自分にもハマれる穴はあるかもしれないと思ってみる

2025-02-28 21:53:17 | 日本でニャー2025
昨日仮組みしたスピーカーをアップデートしてツイーターを追加。



ツイーターは乗っているだけで箱に張り付いてはいない。


ツイーターはJBLのJ-520Mのもの。
ネットワークはONKYO D-V3のもの。
どちらもこの、誰かが自作したスピーカーについていたものだ。

ネットワークはカットオフが3500kHzだそうなので、このスピーカーの高音部が減衰し始めるポイントと偶然にも付合すると判明。なのでそのまま使ってしまうことに決めた。


これを使うと決める前までは、JBLツイーターにコンデンサを直列接続してスーパーツイーター的にやろうかと考えていた。なぜならユニットの高音落ちがけっこう急なのでツイーター側だけ低音カットでできそうだったから。

ただ、それにはコンデンサを買い足さねばならないからお金と時間がかかるなあ・・・と思った。このスピーカーのためにそんな散財は許されるのかどうか? というわけで、ネットワークのカットオフがちょうど良いところにあって良かった。

音はどうなったかというと、2ウェイになってPAスピーカー的でなく柔らかい音がするようになった。最初の迷路スピーカーと比べても格段に低音が増していて、ユニット2つもネットワークも同じなのに全くの別物のよう。

夜中に世間が静かになったら再度測定したり音出しもしてみようと思っている。その後に箱内部の調整をどうするか考えよう。






人は自分がまともで正しいと思う癖があるが、逆に自分がダメな人だと思うこともある。どちらかといえば自分正しいの時間が長い。でも人間というものには完成形が無いと考えられる。そう思えばいつまで経っても何かしら学ばないといけないが、人生の時間は限られている。その割に知ったり経験したりしなければならないことは多いし世界は物理的に広い。さらには全ての時間を生きることもできない。

つまり、自分はいつでも欠陥だらけだ。

が、逆にその欠陥形状のままが自分なのだとすれば、その自分に適合する穴、適合しなくても近い形の穴はどこかにあるのではないか?とちょっと思ってみたらどうだろう?ゴツゴツしていて不整形でどこにもハマりそうな気がしないにしても、どうせ世の中だってガラクタなのだから。変な形をした穴もあるかもしれない。

スピーカーの仮組みと測定をする

2025-02-27 21:12:42 | 日本でニャー2025
花壇を少しアップデート。
中央に水捌けの良いエリアを設置してバラとダルマギクを植えた。




スピーカーは仮組みして音出しした。


KRKによる周波数特性の測定。最も左の低音部はノイズらしい。最も右の高音部の一山もノイズ。


別のツールによる測定。この方が聴感覚的には近い。


やはりツイーターは必要そうだが、低音部は密閉の割に出ているように聞こえる。トーンコントロールで低音部を低下させた方がなぜか自然な音に聞こえた。

もう少しちゃんと測定してみよう。


おやすみ

日本の政治のやり方はカルト近似だから言論の自由なんて言ったところでネェ

2025-02-26 20:48:23 | 日本でニャー2025
ラッキーバナナクラブへ行くのが1週間延期になったのでスピーカーの制作を継続しているが、ダイソーのミルクペイント白が売り切れていたり、別の店でも在庫僅少だったので色塗りは諦めた。

その代わりに穴とネジを優先して組んでみた。初期に描いていたイメージと近い物になったと思う。






脚用のネジは奥に爪付きナットを使い、手前はM8トラスと平ワッシャーにしてある。脚が1点止めなのでストッパーが必要と考えていたが不用のようだ。必要になりそうなら後から着けよう。

明日はスピーカーユニットの取り付けをして音出ししてみる。ユニットのエンクロジャー取付部分にはフェルトを挟んで凹凸を吸収するつもり。木材加工がもっときれいにできていれば何も挟まずにできたのだが前に作った人がやったのだから仕方ない。




Facebookで最近カルト志向が強くなっていてそれが選挙などに影響を与えるという話があったのだが、カルトとは言えないけれどそもそも政党や日本の政治活動というのはカルトに近似している。

なぜならば、政党や政治家を支持するという行為は素人であれ政治家であれ「議論しなくてよいようにどこかに所属するとか誰かと仲間になる」ということになっているのだから。あるグループに所属した時に議論という行為をしているのはかなり稀だろう。誰かを支持するとかで頑張れと応援したり、敵対候補の悪口を言う程度しか聞いたことがない。

先日はXである党の党首選挙に出て落ちてしまった人が、党が他党と合意したとマスコミ発表したのを受けて「そんなことは発表以前に党内での公表や話し合いが無かった」買いていた。そんなのは今に始まったこととは思えないし、選挙の時に何も知らない若いタレントを引っ張ってきて出すのも議論なしの頭数と考えてのことだろう。

つまりは議論の余地など最初から無くて従うことが求められるだけだし、それを知っていて仲間に入るというカルト近似行為が政治なのだ。そんなわけで、日本でいくら言論の自由って言ったところでねぇ・・・


私?どこにも所属しないし、誰とも仲間になんかならないよ。

日本人の多くは他人に対しても自分のことも余計なことは何もしないと心に決めて生きているらしい

2025-02-25 22:29:10 | 癌になる
ちょっと前に家の裏手にある貸し駐車場の低い壁に車がぶつかった。その低いブロックの壁とその下の土台が傾いて駐車場の地面にも亀裂ができてしまった。

たまたま来たそこを管理する不動産にそのことを言ったが、駐車場内の事故に関しては当事者どうしで解決することになっているので何もしないと言う。いや、当事者と言っても車どうしというのではなく、あなたの管理している施設との事故だから土地の所有者に連絡するとか、車の持ち主と交渉するとかも仕事になるでしょう。

仕方ないという様子で車の家に行ったがシラを切られて退散して出てきた。まあ、本人が心の病なので覚えていないかもしれないが。それにしても車の保険がある間にどうにかしないと・・・というわけだが、まあ放っておく。


日本人は、というと主語が大きすぎるかもしれないが、多くの人が「何もしない」と心に決めて生きていると感じる。道端や電車の中などで誰かが倒れていても、近所の人の姿がしばらくの間見えなくても、いろいろ不都合の予兆が見えたとしても放っておくのが普通だ。以前は都市部のマンションのような場所では隣人が誰だかわからないというのがよく言われて、それが都会の特徴だったと思うが、今は都市部から離れてどこへ行っても同じだ。

余計なことはしないというのは、他人に対してのみでなく、自分自身についてもそうだと思う。そこらへんにある普通の楽しみを消費はするが自分から作り上げる人はとても稀だ。

まあ、日本病だろうな。

そうして最後に残されるのはテレビのチャンネルを選ぶことだけだ。最後っていうのは歳になって社会生活からさよならを言われ、足腰も弱ってってこと。



明日からラッキーバナナクラブ(活断層ハウス)へ行くつもりだったが1週間延期にした。最後の電気工事が遅れたから。



造影剤CTを撮りに病院へ行ってきた。
腎臓の細胞癌切除から6ヶ月目の検査だ。

人は物語を作らないと誰かが作った物語の消費者になるだけ

2025-02-24 20:57:34 | 日本でニャー2025
今日はスピーカー作りはおやすみ。
脚の角度を少しだけ変更できるようにしようかと考えているところ。



ワットマンでジャンク・レコードを買った。長谷川きよしの72年のライブ盤だ。見てわかるようにどこぞの遺跡から発掘してきたようなジャケットだ。本当に土に埋まっていたふうだったが、何と、音はちゃんと出た。しかも録音も曲も良い。


今日はジャンク品全部が3割引の日なので70円だった。お得。(とはこのジャケットを見て誰も思わないだろうけど)




Facebookでお友達になっているHさんが、多くのかいくらかの人々がカルト的思考をしてしまうのは物語に慣れていないためだろうと書いていた。だからもっと読んだ方が良いとも。確かにそうだと思う。多くの物語に接した方が良いだろう。


我々人間て、いろいろなことを信じてしまうけれどとりわけ物語にそれが嵌め込まれているとその中に事実と異なるものが含まれていても気にしない性質があるのかもしれない。

つまりああだからこう、ああなればこうなる式の型にはまっていると信じるということ。よく考えてみると学校の勉強も詰め込んで覚えさせた後にはそれをベースにしてああだからこうと次々に信じ込ませる物語がある。それを逆用すれば地球は平面というのも信じてしまう。そもそも人間は○千年にも渡って誰も見たことも触れたこともない言い伝えを作って、そして平気で信じているという事実があるわけだ。(それはつまり、天国や地獄、そして神様など)


となれば物語を信じるのと物語を作る性質は表裏になって備わっている人間特有の性質(遺伝的?)なのかもしれない。


でも、多くの場合それは均等じゃない可能性が高い。物語を受け取るより物語を作る性質の方がちょっと劣っていると言えそう。だいたいの場合、我々は物語を受け取る消費側にいて、作るのは少ないかと思う。


もし作る能力がもうちょっと高ければもっとマシかなと考える。

だって自分でさらに面白い物語をいくつでも作れるとすればオリジナル物語を簡単に相対化できるから。例えば健康のためにバナナとココアを毎日摂取しなければならないみたいに言われたら、「そうか、江戸時代の人の平均寿命が短かったのはバナナもココアも無かったからか!」とか、食品添加物が身体に悪いと言われたら「それなら食品添加物で固めている豆腐を敵対国で流行らせれば戦争しなくても勝てるんじゃね!」とか・・・


そうやって物語が唯一絶対じゃなくなればNHK受信料払いたくなければ何もぶっ潰すなんてしないでテレビをリサイクルに出せば済むとかどこかの議員さんに手紙書いて見た分だけ支払うように変えて欲しいと言うとか別の方法を考えられる。

でも自分で物語を作って自分で動かないからいつでも誰かが作った物語の消費者になるだけ。


まあ、そんな感じなので当分は、いや、永久にやられ続けるのかもしれないなと思ったりする。


子供たちが自らの人生を切り拓くために必要となる資質や能力・・・なんて誰も本気で考えてないね

2025-02-23 20:56:26 | 日本でニャー2025
昨日の続きのスピーカー作り。
今日は一昨日にパテを塗っておいたので全体をサンダー掛け。内部と下部にまだ埋めなければならないところを発見したのでそこも埋めた。

そして脚も作った。これは家の屋根修理の時の廃材。200と240ミリに切って荒くサンダーで仕上げた。釘穴にはパテ埋め。


そして脚をボディの横に置いてみて位置をどうしようかと考える。


こんな感じ。
左が割と好みなのだが、やはり右かなと思っている。



右にしたとして彩色するとこんな感じ。

悪くない。

彩色と脚の取り付けはラッキーバナナクラブ(活断層ハウス)に行ってからやろうと思う。さて、そして音作りだが、これは内部に先日買ってきたエアコンにカバーする綿状のものの位置と厚みを調整してやってみる。










「未来を担う子供たちの豊かな学びや成長を支えるためは、地域と学校がパートナーとして連携・協働することが重要です」なんてことを文部科学省が主導でやっていて、その対応として活断層ハウスのある自治体でも「コミュニティ・スクール制度」を導入するのだそうだ。

手っ取り早く言ってしまうと、親や地域の人が集まって学校の教育方針に対して意見を言ったり承認を与える、また教育委員会にも意見を言えるようにするということ。それを制度化してやる。

これ、制度上の問題と教育の中身の問題がある。

制度の問題というのは、意見を言う人が増えるだけで決定するという機能がどこにも無いこと。教育委員会はこれまで通りやろうとするだろうし、校長も自分の方針に沿ってやろうとする。そこに意見を言ったとき、その意見がどうとりあげられるのか、それによって話し合いが行われて方針修正がどうされるのかがどこにも書かれていない。言っても聞いてくれない、言うだけ無駄となるかもしれないし、そもそも誰が選ばれるのかも明示されない。仮に強い意見や意欲を持っている人が入ったらどうなるだろう?

というわけで、形骸化か炎上か?みたいなことになりかねない。

中身の問題もそこに関わってくる。FBページには・・・

「これからの社会を生き抜く子供たちが自らの人生を切り拓くために必要となる資質や能力を育むためには、学校だけではなく、地域の方々も一体となって子供たちの成長を支えていくことが必要です」となっている。

そこで「必要となる資質や能力」とは何だろう?

答えは「無し」どこにも書かれていない。

ここが最も大きな問題だろう。学校のHPの校長の教育方針を読んでみても、自治体の首長の教育に関する演説を読んでみても当たり障りのないことが書かれていて、どこに問題があってこれからどうするかという具体的な事項が無い。そのくせ教科毎の方式が一応開示されているが彼らの方針とどうリンクしているかは不明。つまり、文部科学省から学校の中までどこをとってもぼんやりしている。

子供の一生をどう考えるのか、何もない。例えば政府が戦争をすると言い出した時に進んで国のために戦う子供を育てるのか、それとも何があっても逃げおおせて生きる子供に育てるのか、額に汗水垂らして働いて納税する国民に育てるのか、逆に自分のやりたいこと優先で生きる人に育てるのか?極端な話のようだが、そういう部分は避けて通れないはずだが、何も触れられていない。そこを誰も決めないし、少なくとも議論しないで必要な資質や能力とは何ぞや?というわけ。

というわけで、地方自治体は文部科学省がそんなことを推進してその対価としてお金を配るのを受け取るってイージーなスタイルでいつも動いているのだろう。デジタル化なんかもそれで、既存の事項にデジタルをミックスするだけでやってるやってると文書だけ作っている。

他人に感情を揺さぶられて争うチンパンジー方式を採用しているなら何を言っても無駄

2025-02-22 21:16:39 | 日本でニャー2025
昨日の続きでスピーカーを作っている。



昨日角材を張り付けた凸部を削り取った。



そして箱を組み立てた時(前に作った人がやった部分)にある段差と各所の凹みにパテを入れてヘラで慣らした。明日になったら再度サンダーで削って平坦にする予定。

脚に関してはやはり屋根修理で出た廃材の板を整形して貼ろうと思う。
こんな感じ↓。

脚の形状は少し変えるかもしれない。




世の多くの人々の中には感情をむき出しにして憚らない人がけっこう多いと思うが、うちのキャサリンさんもその一人だ。自分でも抑えられないと言っているから。

人間がどうしてそんなように感情を露わにしてその結果として多少との闘争状態に入るかというと、長い間に身に付けて遺伝的なものになっている戦略なのかもしれない。つまりは、争いによって多少を制圧して平和を得るチンパンジー方式を採用しているということ。

それでチンパンジーは淘汰されず今に生き残っているのだからバカな戦略だとは言えない。

ただ、教養という武器を身に付けた人間という立場からすれば、他者の言動行為に自分の感情を揺すられること、そして闘争状態でいることの合理性は低いと気付かなければ嘘だろう。感情を揺さぶられている時間、考えている時間、身構えている時間は自分自身の時間とは言えない。

限られた一生という時間の中でそんな無駄な時間が増えれば増えるほど人生は他人に削られていくということに他ならない。

そんなのは足し算引き算の問題であって子供にだって説明すればわかる。

よく、「幸せは環境でなく決意だ」と言われるが、こうしたことも決意が必要だ。何があっても平静を保つことができれば人生の多くの時間は有意義だし自分自身のものだと言える。

と言ったところで、チンパンジーの血には何の効果もないだろうけどね。

花壇もスピーカーも少し前進

2025-02-21 20:44:37 | 日本でニャー2025
花壇の延長は完了。
左の黒いところが前に延長された。少しだけ花を植えた。





スピーカーは少しだけ前進。


蓋を閉めると隙間になる傾斜に角材を接着した。
接着剤が固まったら電動サンダーで斜めに削り取る。


蓋の取り付け方と脚をどう作るか、再検討を要す。

脚は今ある杉板の端材(家の屋根修理で出てきた)で作るのが平和かもしれないな。ある程度細く加工できるわけだし。蓋は100円のL金具にタッピンネジかなあ?



今日は少し頭痛がするのでこれで終わり。
また明日。

家でスピーカーを作っている途中

2025-02-20 21:17:47 | 日本でニャー2025
今日は家で作業。


リサイクルショップで無料でいただいたコンクリートブロックをキャサリンさんが塗って、花壇の拡張に使う。土は市が無料でくれる培養土をもらって、花壇は夕方完成したが暗かったので写真は無し。

何を植えるかは未定のまま。





懸案のスピーカー改造もやった。今日はここまで。明日には外形だけ完成できるだろう。

明日の工程は後部の隙間を板材じゃなくて角材に変更して中から貼り付ける。そして荒切りしてサンダーで角度を仕上げる。なぜサンダーになったかというと、電動丸ノコが45度を超えた角度で切れないと判明したから。知らないとはこういうことだ。まあ仕方ない。

ともかく、完成形は↓。



ジャパン・エスニック・カレーができた

2025-02-19 21:11:15 | 日本でニャー2025
本日も午前中に木彫の工房にお邪魔して皮剥きを手伝ってきた。






午後にはダイソーに行って例のスピーカーの分解で破損したところを補修するちょっとした木材と接着剤を買った。

接着剤は通常木工用なのだが、分解した跡に着いている硬化した接着剤を剥がさずに再度組み立てるつもりなので「工作用」というのを選んだ。これなら木工用と同じ酢酸ビニルが主成分で、しかも水性でなくて溶剤仕様だから硬化したものの表面を少し溶かして新たな接着剤と馴染むと思われる。

大丈夫だろう。





今夜はマグロとザーサイのカレー。

ルウは市販品だが、マグロのアバラに付着していた肉をミンチにして入れ、漬物になっていない生のザーサイの葉と茎を入れた。ジャガイモは無し。

これがなかなか美味い。ジャパン・エスニックなのだ。

ところで、生ザーサイを手に入れるのはなかなか難しいだろう。ここではそれがけっこうな頻度で買える。農家が作っているからだろうけれど。

我々は感情の安定に必要な想像力を十分に持っているのか?

2025-02-18 19:56:46 | 日本でニャー2025



昨日に引き続き木の皮剥きをする。昼前からやって弁当食べて本日終了。



昨日の「メタ読み練習」の記事は楽しんでいただけただろうか?

これがわかれば文章を読む時に二重に読める。つまり、一つの文章を一度読む中で「ベタ読み」しながら脳の別の部分で「メタ読み」ができる。すると文章が立体的に理解できるようになる。

そしてこれは文章のみならず、映画を観るとき、そして生活の中のいろいろな部分で二重の視点で理解することができるようになる。美術鑑賞でも使えるかもしれない。

他にはYoutubeなどで驚くような事実らしきことを強調するのがあるが、それもベタで鑑賞しているだけだと単純に「意味」に絡め取られてしまうが、「意図」が理解できるようになるとその意味の曖昧さや確実性がわかるかもしれない。まあ、だいたいわかると思う。多くの表現というのは何かしら他人を巻き込もうとする意図によるものなので、単なる情報露出ではないのだから。

まあ、続けて練習してみてください。
ついでに言うと、誰かの言葉などに自分の感情を絡め取られるという無駄を避けられるだろうから。







こんなポストがあった。これは以前もどこかで聞いたことがある。

亡き母の認知度が落ちてきて弟が週に一度買い物に連れて行っていた時のこと。弟が言ってもわからない母によく怒るような言い方をしていた。一般的な知識では、認知症を発症した人に怒ることは意味がないばかりか悪影響もあるそうだ。

けれども、側で見ている家族は相手が理解できないことに、つまりベースが同じという前提で生きているにも関わらず相手が理解できないことにイライラを募らせる。そしてイライラが相手の必要な支援に優先してしまう。なので怒る。

最近よく目にする生活保護バッシングも似たようなものだ。税金で食っているくせに酒を飲んだりパチンコしたり、身体が動くのに働かないなどだ。こうしたバッシングも基本的なところで誤認がある。被保護者が楽してお金をせしめようとしている、甘い汁を吸いたいだけのようなのは本当は彼らの考え方ではなくてバッシング側の考え方だということに気付いていない。

本当のことはその奥に隠れて見えないということに気付いていないし、もし公的援助が無ければ彼らがヤクザや闇金業者に利用される可能性もあり、世の中はもっと住みにくくなってしまうかもしれない。

そんなわけで、我々には支援の必要な人が支援したくない姿でそこに立っていて、自分には本当のことがわかっていないと想像するのが難しいのだ。どちらかといえば、そんなことで腹を立てる自分たちの脳みに何らかの支援が必要なのだろう。

スピーカー図面アップデートと、メタ読みの練習教材発見

2025-02-17 21:16:22 | 日本でニャー2025
2月13日に描いたスピーカーの手描き図面をアップデート。
少し作りやすいように変更した。


何しろ面倒なのは避けなければならないし、新規購入パーツや材料は少なくしたい。音のための改良じゃない。


今日は巨大木彫芸術作品の制作手伝いをした。
そして夕食をご馳走になる。



この記事、メタ読みの教材には持って来いだ。
決してこの内容が良いから引用しているのではなくて、文章の読み方を学ぶ教材としてわかりやすいという意味だ。

まずは読んでみてほしい。


1ページ目の下の方、子供から大人になり高齢になるに従っていろいろあり、他人との関わりは必然的に減ることが説明された後に書かれている。

「さらに老い、病み、配偶者を失ったりすれば、強烈な孤独感に苛まれるようになる。」

いきなり「孤独感に苛まれる」となっている。文の経緯から孤独感に苛まれることに説得力があるように思われる。ただ、前段とのつながりは希薄だ。他人との関わりが減ることで「孤独感」を感じると言えばそうかもしれないが、絶対ではない。

それを「仏教では、このような人生変化を「無常」と呼ぶ。」で強化しようとしている。「・・・と呼ぶ」は良いが、仏陀が言えば真理のようでいて断定することはできないはずだ。


次のページには古代インドで記された『マヌ法典』による理想的な生き方が引用されていて、前ページの仏陀と似た効果が期待されている。

さらに3ページ目。
「特にその孤独が、自分勝手な振る舞いが過ぎて、他人が離れていってしまった結果である場合・・・」には別の新たな課題が提示される。この部分は文脈を乱していることに注意しなければならない。なぜこれが挿入されているかと言えば、不安を煽るためだ。

さらに後半には学術研究の成果が出現してさらに不安を煽っている。最後には仏陀と「愛」が出てきて文章は終着点を迎える。

わかりましたか?面白い文章だよね。ある結論に導くために幾つものフワフワした根拠を並べ立てている。が、論理的では全くない。



ずっとずっと向こうまで続く菜の花畑・・・なんて実際には無いです

2025-02-16 22:27:44 | 日本でニャー2025
菜の花が見頃だ。


写真を見ると遥か彼方まで菜の花畑が続いていて壮大な・・・って思ってしまうが、実はそんなことはなくて、100メートルほど先に花はもう無い。

海に出て陸地が全然見えないというときに、見えている範囲はたった4kmほどだという。大海原とか思っても、なーんだ、すぐそこじゃん、てわけ。

人間の認識ってだいたいそんなもの。広い世界が存在するのは知っていても、自分の気になる範囲なんて身の回りのほんの狭い範囲だけ。狭い範囲のことが気になって気になって仕方ない。そしてそこで起こっている小さな小さな小さな点のような蚤のヘソほどのことに感情を絡め取られて怒ったり喚いたり。

それが普通の人間だよね。

でも、逆言えば、広い世界がその先に広がっているってのも知ってはいるんだ。知っているのと実感しているとか体験しているは全然違う。実感や体験は点ほどだから結局生きている範囲はその点の周囲だけ。知ってるんだよ。知ってるの。でも知ってるだけじゃダメってことだよね。ちゃんと想像しないと。

おやすみ。

写実の魅力を浴びて、その先鋭化した未来に何があるか想像してみたが

2025-02-15 21:32:09 | 日本でニャー2025
岡村悠紀さんの展示を見てきた。



写真を見てわかるように、一見これが人が作った物のようには思えない。でもよーく見ると確かに作り物。何と、手法は「陶芸」。物によって関節が動くようになっている。





最初の感想は「どうやって作っているの?」
だって、関節の嵌合が完璧でまるで工業製品のよう。

江戸時代くらいにカラクリ人形を作っていた職人や精巧な虫だったかエビだったかを作っていた職人がいたと思うけれど、その現代版と言って良さそう。しかし、目を凝らして見てもどうやって作っているかが全くわからない。



ただ、一つ思うのは、この先これがさらに先鋭化していくとして、どうなるのだろう?どこまで行けるのだろう?この先に何があるのだろう?ということ。

AIだと次第に人間と区別がつかなくなっていって、将来はある部分で人間を超えるだろうと想像できる。でもこうした「形」を本物に近づけていったところで最終形態は決まっているわけだしなあ???隣に本物のカニを置いたらカニは仲間だか敵だかと認識して・・・はあるかもしれないが。しかし自ら動けない作り物だからカニが絶滅した後にフェイク蟹として海を支配することもないだろうし。

うーん、こういうの作った時に作り手の意図って無くてもコピーは機械的にできるよなぁ・・・とも思ったり。まあ、作家さんの今後に期待ということで。また見る機会を楽しみにしていよう。


ともかく、見事な造形なのでもし時間があれば見るべきだよ。


絶望してますか? あなたの人生にはロックンロールがありますか?

2025-02-14 21:30:36 | 日本でニャー2025
Xにこんな画像付きポストがあった。


人間は早いうち、つまり人生慶経験が浅いうちからけっこう簡単に絶望するものだと思う。

ただ、その時点ではそれが絶望なのかどうかすらわからない。なぜなら絶望ってものがどういうものかがわからないから。大人からは希望の側ばかりを言われるが、実際のところそれだって何のことかはわからない。なので絶望が絶望だと認識できずになんとなく暗い雰囲気のままズルズルとしばらくの間生きていなければならない。

そしていつの間にかそれが当たり前ということになって自分が絶望していることすら忘れてしまう。絶望を覆い隠すようにどうにか賢く生きる術を身につけて何となくお金が入るようになるとモヤモヤを振り払うように消費して束の間の快感に浸る。それが癖になってお金を入れては消費して、と。

ロックンロールは・・・来ないわ。