今日マトリックスのリローデッドも観て、3つ全部観た。が、思ったほど深みが無い作品だった。結局、物語の設定と映像の見せ方が全てで、ストーリーはそれほど面白いものではない。1作目はいろいろわからなくて謎が深まっていたし、多分作る側もある意味恐る恐るだったかもしれない。けれど2作目と3作目は単純に終点を目指して走るだけだ。2作目で予言者とアーキテクトの関係が言われるところでほとんど謎解きが終わる。登場人物どうしの絡みが全く無くて、予言者とシステムから自由になってしまったスミスはニアミスで終わり、3作目の最後にネオが機械と取引する時にスミスを始末すると言うが、それ以前のところで機械がスミスに手を焼いている場面が無い。まるでスゴロクのような作品になってしまっている。1作目で未完な感じで終わるか、2作目からは監督を変えた方が良かったと考える。ついでに言うと、全ての謎の部分、つまり設定は作品の中でクローズアップされて注目はされる点ではあるが、映画としてはあまり重要ではない。なぜなら理解していなくても観られる程度のものだから。それよりドラマ的なポイントを充実して欲しかった。
久しぶりに映画を観た。と言っても20年も前に公開されたものを100円のDVDで観たのだが。
マトリックスを最初に観た時にはかなり面白いものだと感じた。けれどこの3作目のレボリューションズに関しては「作り直せ」と言いたい。というのは、この3作目は前2作で種明かしした流れで作ったもので、はっきり言ってただの戦いのシーンのための映像でしかないからだ。
観ている方は舞台の背景と仕組みを既に知ってしまっているし、それが大前提で作られた作品になっている。だからスミスが既に手を付けられないほどの力を持っている事は知っている。もちろん登場人物もそれを知っているという前提になっている。だから実際にスミスがどんな害悪を世界にもたらしているのかがほとんど描かれていない。機械から見ても手が付けられないのは前提としてわかるが、どう困っているのかは映像の中ではわからない。わからない脅威について話し合うためにネオが会いに行く。そして大した話も無しに交渉がまとまってしまう。(そんなのつまらなくないか?)
戦いのシーンは、実際、もう見飽きたと感じる。戦いはオールドファッションなカンフー風であるのはまあ許すとしても、空間を3次元的に使うとするならばカンフー風アクションのフィジカルな(筋肉質な)方法とのチグハグさが目立つ。仮想空間に偏らせるならば上下感覚は敢えて消すような、見ていて酔ってしまうほどの画面にすべきじゃないのだろうか?
それから、スミスが亡びる時のカメラがいきなり鳥瞰になってしまうのは、亡びる経緯を説明するには良いが、それは説明にしかならない。つまらない描き方だ。その目はいったい誰で、どこにいるのだ?
2012年のちょっと古い映画なのだけれど、先日近所のDVD屋さんで5枚いでRM10(270円程度)だったので買ってみた。5枚中の1枚。なぜかリージョンが違うはずなのに日本語吹き替えと字幕も付いていた。理由は不明。
これは、普通に白雪姫の実写版かと思って観たら全然違っていた。それは別にそれでも全く構わないが、何かお話がB級映画っぽい展開になっているのにCGや特殊効果はけっこう良く出来ていて観ながら頭が混乱してしまった。普通お話がB級だと画面も凝っていないはずで、幻想的な場面等だと砂漠とかどこかの森なんかでロケをしてそれらしさを出すだけだったりする。でも、これはちゃんとできている。なぜ?B級じゃないの?
と思って調べてみたところ、ちゃんと巨額予算が付いたA級作品として作られたらしいと判明。ホントかよ?!
少女が美しくて評判で大きくなっても美人はまあ許せる。だって歴代王様は妃に美人を選らんでいたからどう転んでも娘は美人しか生まれない、でもいい。製作者が日本贔屓だったり宮崎アニメを好きとかオタクって理由でソメイヨシノが咲いたりもののけ姫の一場面がそのまま出てきたり、それもまあ、仕方ないかもしれない。
でも、1番大事なのは主人公の心の動きに共感できるかと言う点だけれど、逃げている数日と言う短時間でショックな出来事があるにしても、心の成長とかそう言うのはどうもちょっと無理がある気もするし、妖精に会ったり導かれてもそれでどの程度本人に影響を与えているかがわからない。「私にできるかしら」から「私に従う者はいるか」までがずいぶんと弱いので先にストーリー用意されてて追ってるなと感じてしまう。
もう1つ。これはちょっとどうかな?と思う事は、女性の美しさの基準が「見た目」のみでOKに一貫してなっている事。スノーホワイトも悪役ラベンナも外見が美しいと言うわけで、それには何の対立軸も無い。
仕方ないよね、どっちも競うほどの美人て設定だし。この2人の争いって事だとどこから誰が来ても三つ巴にはなり得ない。
女性しかいない村に到着した時にそこの女たちは顔にキズがある。そのキズは美人と言う事で拐われない為に自ら付けた傷。顔にちょっとキズがあるだけでもう美人コンテストには出られない。顔にキズがあってミスユニバースに出られるかどうか知らないが、そう言う基準で全員納得?例えば肌色が暗めの人の場合、例えばちょっと体重が多い場合、足のサイズが平均より大きめ....
たまたま、理由はよくわからないが、スノーホワイトが勇気があるのとちょっと知恵が回る人だし、妖精に認められる何かがあるからそれも美人の要素に加味されているかな?と思わないでもないが、ここはけっこう気持モヤモヤポイントだ。
それと、どうもちょっと終わり方が中途半端になっていてエンドロールの後にもう1つ何か展開が?と思って観ていたが無かった。きっと次回作作りたいんだな?と思ったけれど、もう2019年末だからもしかしたら2作目の続編が出ているだろうか?(誰か教えて)
それにしてもお姫様と言うのはかように特別なメンタリティーを持っているものなのか?自分とはずいぶんと遠いところにいるらしい。
2作目?また安売りになってたら観ます。
これは、普通に白雪姫の実写版かと思って観たら全然違っていた。それは別にそれでも全く構わないが、何かお話がB級映画っぽい展開になっているのにCGや特殊効果はけっこう良く出来ていて観ながら頭が混乱してしまった。普通お話がB級だと画面も凝っていないはずで、幻想的な場面等だと砂漠とかどこかの森なんかでロケをしてそれらしさを出すだけだったりする。でも、これはちゃんとできている。なぜ?B級じゃないの?
と思って調べてみたところ、ちゃんと巨額予算が付いたA級作品として作られたらしいと判明。ホントかよ?!
少女が美しくて評判で大きくなっても美人はまあ許せる。だって歴代王様は妃に美人を選らんでいたからどう転んでも娘は美人しか生まれない、でもいい。製作者が日本贔屓だったり宮崎アニメを好きとかオタクって理由でソメイヨシノが咲いたりもののけ姫の一場面がそのまま出てきたり、それもまあ、仕方ないかもしれない。
でも、1番大事なのは主人公の心の動きに共感できるかと言う点だけれど、逃げている数日と言う短時間でショックな出来事があるにしても、心の成長とかそう言うのはどうもちょっと無理がある気もするし、妖精に会ったり導かれてもそれでどの程度本人に影響を与えているかがわからない。「私にできるかしら」から「私に従う者はいるか」までがずいぶんと弱いので先にストーリー用意されてて追ってるなと感じてしまう。
もう1つ。これはちょっとどうかな?と思う事は、女性の美しさの基準が「見た目」のみでOKに一貫してなっている事。スノーホワイトも悪役ラベンナも外見が美しいと言うわけで、それには何の対立軸も無い。
仕方ないよね、どっちも競うほどの美人て設定だし。この2人の争いって事だとどこから誰が来ても三つ巴にはなり得ない。
女性しかいない村に到着した時にそこの女たちは顔にキズがある。そのキズは美人と言う事で拐われない為に自ら付けた傷。顔にちょっとキズがあるだけでもう美人コンテストには出られない。顔にキズがあってミスユニバースに出られるかどうか知らないが、そう言う基準で全員納得?例えば肌色が暗めの人の場合、例えばちょっと体重が多い場合、足のサイズが平均より大きめ....
たまたま、理由はよくわからないが、スノーホワイトが勇気があるのとちょっと知恵が回る人だし、妖精に認められる何かがあるからそれも美人の要素に加味されているかな?と思わないでもないが、ここはけっこう気持モヤモヤポイントだ。
それと、どうもちょっと終わり方が中途半端になっていてエンドロールの後にもう1つ何か展開が?と思って観ていたが無かった。きっと次回作作りたいんだな?と思ったけれど、もう2019年末だからもしかしたら2作目の続編が出ているだろうか?(誰か教えて)
それにしてもお姫様と言うのはかように特別なメンタリティーを持っているものなのか?自分とはずいぶんと遠いところにいるらしい。
2作目?また安売りになってたら観ます。
マレーシアではJapan Film Festivalと言うのを毎年国際交流基金が主催してやっている。日本での公開前の作品も混じっているとかでそれなりに話題作を集めてやってくれる。以前には鈴木京香の出ていたセカンドラブ(だったっけ?)を観せてもらった。(有料だけど)
それで今回は「鈴木家の嘘」を選んでみた。英語での題名はLying to Mom (お母さんへの嘘) 。
いろいろある中でこれを選んだのは、他の作品がどうも若い人向けばかりだったので年長者も楽しめそうなものにしたかったから。それにこの鈴木家、映画のなんとか賞をたくさん取っていると書いてあったし。
それで、どうだったかと言うと、メタ情報読みなさいてんこ盛り作品だった。簡単に言うと、行間を読みまくれって事になっている。本当にこれ、現代人が読める作品なのか? よほど小説読んでいる人なんかでないとわからないんじゃないかな?
だって、要点になるようなポイントが全く説明されていない。シリアス作品にしたらエラいカッコ良いものになっていたかも知れないが、コメディタッチで包んでしまっているから全くもって読むのが難しくなっている。
長男っが自殺した原因、引きこもりの原因、お父さんが何やってた(定年?)人か、妹はトレーニングしかしてないが大学生?、近所の人とはどんな関係?、その他登場人物についてもほとんど詳しくは紹介されないし、自殺した兄はどんな本をあれだけ読んでいてそこに彼のどんな考え方が反映されていたのかなど、結局最後まで何の問題解決も提言も無し。
つまり観ていてわからない。わからないって所にポイントがあって、つまりメタの所が読まなきゃいけないテーマ的な事になっているらしいと脳みそをちょっと引いた視点に置いて気付く。
それで、ただわかるのはほとんどの人が良い人で愛情深いと言う事のみ。
結局のところ、これって、今の日本の現状そのものじゃないの!って事。毎年3万人近く自殺していて、引きこもりの人もたくさんいて、皆それを認識しているのに何もできず見ているしかない。原因はきっとその周囲にいた自分個人にあると自分を責める。つまり個人の問題として認識されて社会としてはそこから一歩も進まないまま。
解決策は生き残った家族と個人がその出来事を自分なりに解釈して納得する事しかない。妹は自助サークルに入る。父は少ないヒントを基に歩き廻る。母の妹はもう気持ちを切り替えて次へ行くしかないと言う。記憶の戻った母はそれは自分のせいだと考え、妹も自分の言葉が原因だったと考える。父も子への接し方がいけなかったと解釈。
日本中の誰も手も足も出ず。...それが現状。家族に愛があって解決する事でもなし、誰もアドバイスできるでもなし、と。採りようによっては痛烈な社会批判の社会派映画なのだけど、この作りからすると誰もそうはとらないと思う。
ちゃんと考えるなら、これ、鈴木家だけにやらせて家族に愛があって、お兄ちゃん死んじゃったけど仕方ないね、チャンチャン、にしといたらダメだろ日本!て映画のはず。家族の在り方とかそんなのじゃダメだったんだから。
数年経たないうちに「裏 鈴木家の嘘」作って欲しいな。
それで今回は「鈴木家の嘘」を選んでみた。英語での題名はLying to Mom (お母さんへの嘘) 。
いろいろある中でこれを選んだのは、他の作品がどうも若い人向けばかりだったので年長者も楽しめそうなものにしたかったから。それにこの鈴木家、映画のなんとか賞をたくさん取っていると書いてあったし。
それで、どうだったかと言うと、メタ情報読みなさいてんこ盛り作品だった。簡単に言うと、行間を読みまくれって事になっている。本当にこれ、現代人が読める作品なのか? よほど小説読んでいる人なんかでないとわからないんじゃないかな?
だって、要点になるようなポイントが全く説明されていない。シリアス作品にしたらエラいカッコ良いものになっていたかも知れないが、コメディタッチで包んでしまっているから全くもって読むのが難しくなっている。
長男っが自殺した原因、引きこもりの原因、お父さんが何やってた(定年?)人か、妹はトレーニングしかしてないが大学生?、近所の人とはどんな関係?、その他登場人物についてもほとんど詳しくは紹介されないし、自殺した兄はどんな本をあれだけ読んでいてそこに彼のどんな考え方が反映されていたのかなど、結局最後まで何の問題解決も提言も無し。
つまり観ていてわからない。わからないって所にポイントがあって、つまりメタの所が読まなきゃいけないテーマ的な事になっているらしいと脳みそをちょっと引いた視点に置いて気付く。
それで、ただわかるのはほとんどの人が良い人で愛情深いと言う事のみ。
結局のところ、これって、今の日本の現状そのものじゃないの!って事。毎年3万人近く自殺していて、引きこもりの人もたくさんいて、皆それを認識しているのに何もできず見ているしかない。原因はきっとその周囲にいた自分個人にあると自分を責める。つまり個人の問題として認識されて社会としてはそこから一歩も進まないまま。
解決策は生き残った家族と個人がその出来事を自分なりに解釈して納得する事しかない。妹は自助サークルに入る。父は少ないヒントを基に歩き廻る。母の妹はもう気持ちを切り替えて次へ行くしかないと言う。記憶の戻った母はそれは自分のせいだと考え、妹も自分の言葉が原因だったと考える。父も子への接し方がいけなかったと解釈。
日本中の誰も手も足も出ず。...それが現状。家族に愛があって解決する事でもなし、誰もアドバイスできるでもなし、と。採りようによっては痛烈な社会批判の社会派映画なのだけど、この作りからすると誰もそうはとらないと思う。
ちゃんと考えるなら、これ、鈴木家だけにやらせて家族に愛があって、お兄ちゃん死んじゃったけど仕方ないね、チャンチャン、にしといたらダメだろ日本!て映画のはず。家族の在り方とかそんなのじゃダメだったんだから。
数年経たないうちに「裏 鈴木家の嘘」作って欲しいな。
これ見るの二度目かもしかしたら三度目。
あまりコメディ映画は観ないのだけれど、これは別格。(どんな感想かはずっと前に書いたのを暇なら探して読んでくれれば良いのでここでは書かない。これはホントに好きな映画。)
最近日本人は働き過ぎていて効率が悪くてと言われれる。そのためにわけのわからない公休を随分と増やして強制的に休暇を取らせようとしたりしている。残業しないで帰ろうと言うようなのも強制休暇の一種なんだろうなぁ。別に悪い事じゃないのでそれはそれで良い。
決められた時刻に職場に行って仕事して、決められた時刻に退社して家に帰る。それはしないといけない。給料取りってそう言うシステムの中のものだから。
でも、個人としてそれが一番良いかと言うと、ちょっと疑問はある。
もし好きな音楽を聴くのが仕事だったら時間なんてどっちでも良いし問題としては些細な事になる。部屋に引きこもってずっと同じ事やってる。寝たい時に寝て食べたい時に食べてウンチしたいときにして... がやっぱり理想的には良い気がする。
もう1つは、居たいところに居ると言うのも。
何にしろ、世の中の良いもの、面白いもの、素晴らしいものってのは、仕事は仕事、プラベートはプライベートって分けてるところからは出てこないんじゃないかなと思うのだ。
とりあえず、レンタルでもネットでもこの映画は何度でも観るべきだと思っている。
きっとまた観るだろう。
あまりコメディ映画は観ないのだけれど、これは別格。(どんな感想かはずっと前に書いたのを暇なら探して読んでくれれば良いのでここでは書かない。これはホントに好きな映画。)
最近日本人は働き過ぎていて効率が悪くてと言われれる。そのためにわけのわからない公休を随分と増やして強制的に休暇を取らせようとしたりしている。残業しないで帰ろうと言うようなのも強制休暇の一種なんだろうなぁ。別に悪い事じゃないのでそれはそれで良い。
決められた時刻に職場に行って仕事して、決められた時刻に退社して家に帰る。それはしないといけない。給料取りってそう言うシステムの中のものだから。
でも、個人としてそれが一番良いかと言うと、ちょっと疑問はある。
もし好きな音楽を聴くのが仕事だったら時間なんてどっちでも良いし問題としては些細な事になる。部屋に引きこもってずっと同じ事やってる。寝たい時に寝て食べたい時に食べてウンチしたいときにして... がやっぱり理想的には良い気がする。
もう1つは、居たいところに居ると言うのも。
何にしろ、世の中の良いもの、面白いもの、素晴らしいものってのは、仕事は仕事、プラベートはプライベートって分けてるところからは出てこないんじゃないかなと思うのだ。
とりあえず、レンタルでもネットでもこの映画は何度でも観るべきだと思っている。
きっとまた観るだろう。

とっても久しぶりに映画を見た。なぜならラマダンセールでDVDが2枚でRM10、つまり270円ほどと安かったからだ。街の隅っこで売っているコピーDVDだって1枚RM8ほどもするのでこれは破格。とは言っても売れ残り品の処分なのだろうけれど。
今時映画はネットで観るものかもしれないが、良いじゃないか。こうしてゆっくり家で映画を観るなんて、たまには良いなぁ。2時間位その為だけに時間を使えるなんて。それに途中で停めといてトイレに行くのもお菓子取ってくることもできるし。
自分の普段の生活って、毎日仕事なんかしているとこうはならない。なんだかんだ言っても時間は細切れになる。ご飯食べてコーヒー淹れて猫の散歩してお風呂入って... ソリャ好きな事やってるけどさ。
でも、そう言う生活ってある時、これで良いのかな?、なんて思えてくるものだ。誰だってそうだろうけれど、マンネリと言うやつ。マンネリは幸せの1つの形であって、それが悪いと言うのじゃ無い。でも、だからこそ、これで良いのかな?、となってしまう。マンネリを捨てるとそれは幸せか、幸せじゃなくなるのか?
だからあえてマンネリの中に我慢して居続ける。人は脳みそのほんのちょっとしか使って生きてないと言われるけれど、それが幸せなのかもしれないし。できるはずの事をやらずに温存したまま死んで行くかもしれないが。
反対にそれを捨ててもっとハチャメチャ度合いを増やしたらどうなのか? そこには別のもっと濃い幸せがある、と願いたい。でもそれには勇気が要る。もしかすると勇気とかそう言うのでなくて後先考えないアホである必要があるのかもしれないな。
昔、日本で働いていた時にある人がこんな事を言っていた。「小利口になるな、大バカになれ」なんて。もちろんその人が大バカだったかはわからない。その人も小利口になり過ぎていたのを自覚してそう言っていたのかも。だってヘルマンヘッセとか読んでたと言うし。(自分も読んだ。)
でも、大バカでハチャメチャ、なかなかできる事じゃない。だってもうそんな風に言ってる時点で考え過ぎている。まあ、そんなもの、自分の人生のやり方。
えっ?映画の事書いてるかって? 書いてるつもり。
今時映画はネットで観るものかもしれないが、良いじゃないか。こうしてゆっくり家で映画を観るなんて、たまには良いなぁ。2時間位その為だけに時間を使えるなんて。それに途中で停めといてトイレに行くのもお菓子取ってくることもできるし。
自分の普段の生活って、毎日仕事なんかしているとこうはならない。なんだかんだ言っても時間は細切れになる。ご飯食べてコーヒー淹れて猫の散歩してお風呂入って... ソリャ好きな事やってるけどさ。
でも、そう言う生活ってある時、これで良いのかな?、なんて思えてくるものだ。誰だってそうだろうけれど、マンネリと言うやつ。マンネリは幸せの1つの形であって、それが悪いと言うのじゃ無い。でも、だからこそ、これで良いのかな?、となってしまう。マンネリを捨てるとそれは幸せか、幸せじゃなくなるのか?
だからあえてマンネリの中に我慢して居続ける。人は脳みそのほんのちょっとしか使って生きてないと言われるけれど、それが幸せなのかもしれないし。できるはずの事をやらずに温存したまま死んで行くかもしれないが。
反対にそれを捨ててもっとハチャメチャ度合いを増やしたらどうなのか? そこには別のもっと濃い幸せがある、と願いたい。でもそれには勇気が要る。もしかすると勇気とかそう言うのでなくて後先考えないアホである必要があるのかもしれないな。
昔、日本で働いていた時にある人がこんな事を言っていた。「小利口になるな、大バカになれ」なんて。もちろんその人が大バカだったかはわからない。その人も小利口になり過ぎていたのを自覚してそう言っていたのかも。だってヘルマンヘッセとか読んでたと言うし。(自分も読んだ。)
でも、大バカでハチャメチャ、なかなかできる事じゃない。だってもうそんな風に言ってる時点で考え過ぎている。まあ、そんなもの、自分の人生のやり方。
えっ?映画の事書いてるかって? 書いてるつもり。
最近、ちょっとB級映画を見ている。
B級映画と言っても2種類位あるように思う。あまり製作費がもらえないけれど良い映画を作ろうと頑張るものと、最初からB級品質で作ってしまってさっさと公開しようとするもの。最近見ていたのは後者の方だと思う。
なぜなら、あまりに出来が悪い。
例えば、宇宙船で宇宙に出かけて行って時空を超えるのだけど失敗してある星に着陸。着陸すると怪物みたいなのがいて追いかけられる。何とそこには馬がいて助かる。後に同じ人間がそこにいるとわかる。そして実はそこは地球の未来だったと言うような。
地球だったとか言う前に、風景は地球のどこかの原野だし、宇宙服不要で馬がいる。そりゃ説明されるまでもなく地球だろ、おい!
それに誰かがレーザー銃を乱射して来るけれど、乱射と言うか、普通にパン、パンの連続で当たらない。だから主人公は死なない。死んだらダメなんでそう言う設定なんだろう。もし真面目に相手に当てようとするならパンパンじゃなくてスキャンするように連続して左右に乱射しとけば良いのに。敵が不真面目すぎるだろ、おい!
そう言う意味では日本映画の多くは大作と宣伝していてもB級だ。設定の段階で言い訳の効かない破綻がある。(面倒なのであまり個々に詳しくは書かない。)
さて、何故こんなに多くのB級諦め映画が作られるんだろう?
うーん、それでも商売として成り立つって事なんだろうなあ。ダメ作品作っていても誰かがそこそこ見に行く。製作費を超える収益がどうにかある程度は。
そもそも、映画を見に行くって、それが評価の高い作品だからってだけじゃないんだろうなあ。でも、映画ってB級でもA級でも劇場で観るとあまり値段変わらないんだよなああ? 日本の映画だと作品ダメでも人気のタレントさんが出てるから一定数の人が観るかも知れない。アメリカのB級だと絶対そんなの無いが、あれはどうして観られるんだろう?
よくわからないが、何かバランス良く成り立つポイントがあるのだろう。世の中上手く出来ている。
B級映画と言っても2種類位あるように思う。あまり製作費がもらえないけれど良い映画を作ろうと頑張るものと、最初からB級品質で作ってしまってさっさと公開しようとするもの。最近見ていたのは後者の方だと思う。
なぜなら、あまりに出来が悪い。
例えば、宇宙船で宇宙に出かけて行って時空を超えるのだけど失敗してある星に着陸。着陸すると怪物みたいなのがいて追いかけられる。何とそこには馬がいて助かる。後に同じ人間がそこにいるとわかる。そして実はそこは地球の未来だったと言うような。
地球だったとか言う前に、風景は地球のどこかの原野だし、宇宙服不要で馬がいる。そりゃ説明されるまでもなく地球だろ、おい!
それに誰かがレーザー銃を乱射して来るけれど、乱射と言うか、普通にパン、パンの連続で当たらない。だから主人公は死なない。死んだらダメなんでそう言う設定なんだろう。もし真面目に相手に当てようとするならパンパンじゃなくてスキャンするように連続して左右に乱射しとけば良いのに。敵が不真面目すぎるだろ、おい!
そう言う意味では日本映画の多くは大作と宣伝していてもB級だ。設定の段階で言い訳の効かない破綻がある。(面倒なのであまり個々に詳しくは書かない。)
さて、何故こんなに多くのB級諦め映画が作られるんだろう?
うーん、それでも商売として成り立つって事なんだろうなあ。ダメ作品作っていても誰かがそこそこ見に行く。製作費を超える収益がどうにかある程度は。
そもそも、映画を見に行くって、それが評価の高い作品だからってだけじゃないんだろうなあ。でも、映画ってB級でもA級でも劇場で観るとあまり値段変わらないんだよなああ? 日本の映画だと作品ダメでも人気のタレントさんが出てるから一定数の人が観るかも知れない。アメリカのB級だと絶対そんなの無いが、あれはどうして観られるんだろう?
よくわからないが、何かバランス良く成り立つポイントがあるのだろう。世の中上手く出来ている。
最近発売されたホンダのCivicと言う車。日本ではセダンが不人気って事もあって売れないらしいとか。マレーシアは発売直後なのにもう結構走っている。近所にも何台か置いてある。
自分はもう古い人間なのでCivicって言うと、丸っこいてんとう虫的な小さな車がCivicだと思っていて、今売ってるあれを見せられて、後ろのところのバッジを見なければそれがCivicだとは認識できない。アコードだって言われれば、まあ、そうかもと思ってしまう。それにしても、いつの間にCivicあんなにデッカくなってたんだ?
自動車って昔から面白い事にちょっとづつちょっとづつ大きくなっていく。2回か3回モデルチェンジだとまだちょっと大きめなのね、程度で済むけれど、途中を抜かすともう、どうして同じ名前でこれと、これ?となる。名前考えるの面倒なのか、自動車会社?でも、ホントの事言えば、1回のモデルチェンジだって実際共通するものなんて実は1つも無いわけで、わずかに名前と同じ客層を掴むためのパスがあるだけ。それにしてもデカくなりすぎてないか、Civic?
久しぶりのキングコング、こっちもデカくなっていた。山みたいにデカい。よく育った。育ちすぎて何がなんだかよくわからない。手でヘリコプター掴むし、機関銃でバリバリ撃たれても怪我してるようだけれど別になんて事無い。人間だったら1発で死ぬところ、キングコングは全然死なない。
確かにスケールから考えれば銃弾なんて蚊に刺されるのと違わないかもっと小さい。でも、銃弾だよね。音より速い金属の玉がビュンビュン飛んでくるわけで、いくら皮膚が厚いと言ってもねえ。人やゴリラをあの大きさにしてみたらああなるのは合理的なんだろうか?そうかもしれないし、そうで無いかもしれない。
大きくなっただけでもうそう言う事が想像の域を出てしまう。何もかも。あのトカゲのガイコツみたいな生物もそう。撃っても撃っても死なない。だからアクションシーン長すぎ。まるでジャッキーチェン映画みたい。飽きる。もういい加減止めて死んでちょうだいって感じになる。
スーパーなのがスーパーになりすぎるとだんだん遠いところに行ってしまって心までどんどん離れていく。ゴジラも単独で巨大化し過ぎてほぼ敵なしになって持て余してああなってしまったけど、キングコングもそれにどんどん近付いて行ってさようなら〜になってきている。
どして逆できないんだろう。ゴジラが巨大化するんだったらキングコングは着ぐるみでできる程度に小型化してみるとか、せめて昔ホントにいた3m位の猿の生き残りにするとか。と言うわけで、ごめん、これ面白くない。(断言)
自分はもう古い人間なのでCivicって言うと、丸っこいてんとう虫的な小さな車がCivicだと思っていて、今売ってるあれを見せられて、後ろのところのバッジを見なければそれがCivicだとは認識できない。アコードだって言われれば、まあ、そうかもと思ってしまう。それにしても、いつの間にCivicあんなにデッカくなってたんだ?
自動車って昔から面白い事にちょっとづつちょっとづつ大きくなっていく。2回か3回モデルチェンジだとまだちょっと大きめなのね、程度で済むけれど、途中を抜かすともう、どうして同じ名前でこれと、これ?となる。名前考えるの面倒なのか、自動車会社?でも、ホントの事言えば、1回のモデルチェンジだって実際共通するものなんて実は1つも無いわけで、わずかに名前と同じ客層を掴むためのパスがあるだけ。それにしてもデカくなりすぎてないか、Civic?
久しぶりのキングコング、こっちもデカくなっていた。山みたいにデカい。よく育った。育ちすぎて何がなんだかよくわからない。手でヘリコプター掴むし、機関銃でバリバリ撃たれても怪我してるようだけれど別になんて事無い。人間だったら1発で死ぬところ、キングコングは全然死なない。
確かにスケールから考えれば銃弾なんて蚊に刺されるのと違わないかもっと小さい。でも、銃弾だよね。音より速い金属の玉がビュンビュン飛んでくるわけで、いくら皮膚が厚いと言ってもねえ。人やゴリラをあの大きさにしてみたらああなるのは合理的なんだろうか?そうかもしれないし、そうで無いかもしれない。
大きくなっただけでもうそう言う事が想像の域を出てしまう。何もかも。あのトカゲのガイコツみたいな生物もそう。撃っても撃っても死なない。だからアクションシーン長すぎ。まるでジャッキーチェン映画みたい。飽きる。もういい加減止めて死んでちょうだいって感じになる。
スーパーなのがスーパーになりすぎるとだんだん遠いところに行ってしまって心までどんどん離れていく。ゴジラも単独で巨大化し過ぎてほぼ敵なしになって持て余してああなってしまったけど、キングコングもそれにどんどん近付いて行ってさようなら〜になってきている。
どして逆できないんだろう。ゴジラが巨大化するんだったらキングコングは着ぐるみでできる程度に小型化してみるとか、せめて昔ホントにいた3m位の猿の生き残りにするとか。と言うわけで、ごめん、これ面白くない。(断言)
最近は新型の自動車は電子制御でいろいろやっていて、昔のそれと比べるとかなりの部分で進んでいる。先日会社の車出かける用があってキーを借りたところ、あのギザギザした鉄製のキーらしい部分が無いのに戸惑った。これはキーなのか? 確かに車メーカーのマークがあるので車の何かには違いないが....とやはりそれはキーの代わりをする物ではあった。
走り出してみるとすっと違和感は消えた。こりゃ確かに車だ。ステアリングの根元に何か仕掛けがしてあってちょっと違和感がある。エンジンの動きにも何かやっていると感じられる。あらゆるところに昔のオーソドックスな車にはない何かがあるのがわかる。が、やはり車は車だった。そして車の楽しみの部分は昔と何も変わっていない。良いと感じる部分、悪いと感じる部分、それははっきりと同じだ。
思うに、それはやはり自分の感覚の方があまり変わっていないせいだろう。車を作ってい人たちだってきっとそうなのだ。車が完全に自動運転になるまではきっと変わらないのではないだろうか?
そうそう、映画もきっと車と同じようなものだろう。
人が見て共感できると言うのは1番必要な事だ。人によっては戻って来ちゃったな、と感じるかもしれないが、これ以外、どんな方法があるだろう? 派手めの映像に騙されなければ、これ、結構地味な作品と言える。つまりは人間らしい人間の芯だけの物語なのだ。スカーレットヨハンソンもアクション物に出るのが多いせいかそう言う目で見られるけれど、ここで演じているのはそれ以外の部分だ。
自分は攻殻機動隊、この作品が出ると言うのでYoutubeで予習しただけなのでそっちの方の事を言う資格は無いけれど、印象としては全く違う物のように感じられる。映像的に共通点はあるのはわかるけれど、アニメ版が良いと言う人のお勧め映像を見ても何がお勧めなのかわからなかった。
最近のアニメにありがちな世界観と言う、何か焦点を結ばない雰囲気と想像力豊かな映像が組み合わさってはいるけれどドラマにはなっていない感じがした。続けて見ていればそれでも良いのだろうけれど、そうで無いとなぜ戦っているとか登場人物のモチベーションの元みたいなものが全くなくて、この人はこう言う行動パターンなのだと押し付けられているだけに思える。登場人物の喋り方だってありがちでどれもあまり違わないし、目新しい映像を除けばは飽きる要素満載なのだ。
ハリウッド版、元を知っている人たちからすればどうかな、と感じる面がありそうだけれど、これ、逆にお前たち、映画の作り方知らないだろ、アイデアを出すのはすごいけど、作品として完成するってこう言う事なんだよ、と言われているのかも知れない。まあ、良い部分もあるけれど、やっぱり見て残念だからリメイクしたいってのが正解じゃないだろうか。
あまり細かい事言っても仕方ないけれど、残念なのはタケシの日本語のセリフと他の登場人物の間合いが合っていない事。多分撮っている人は台本で意味を理解しちゃっていて、日本語の感覚をわかるまでに行ってないのかなと想像する。そこ、どうにかすればあの聞き取りにくいセリフがどうにかなったのでは? スカーレットヨハンソンの (日本人にはなかなかナチュラルに感じられるあの) ウェットな演技にも合う気がするのだけれど。
走り出してみるとすっと違和感は消えた。こりゃ確かに車だ。ステアリングの根元に何か仕掛けがしてあってちょっと違和感がある。エンジンの動きにも何かやっていると感じられる。あらゆるところに昔のオーソドックスな車にはない何かがあるのがわかる。が、やはり車は車だった。そして車の楽しみの部分は昔と何も変わっていない。良いと感じる部分、悪いと感じる部分、それははっきりと同じだ。
思うに、それはやはり自分の感覚の方があまり変わっていないせいだろう。車を作ってい人たちだってきっとそうなのだ。車が完全に自動運転になるまではきっと変わらないのではないだろうか?
そうそう、映画もきっと車と同じようなものだろう。
人が見て共感できると言うのは1番必要な事だ。人によっては戻って来ちゃったな、と感じるかもしれないが、これ以外、どんな方法があるだろう? 派手めの映像に騙されなければ、これ、結構地味な作品と言える。つまりは人間らしい人間の芯だけの物語なのだ。スカーレットヨハンソンもアクション物に出るのが多いせいかそう言う目で見られるけれど、ここで演じているのはそれ以外の部分だ。
自分は攻殻機動隊、この作品が出ると言うのでYoutubeで予習しただけなのでそっちの方の事を言う資格は無いけれど、印象としては全く違う物のように感じられる。映像的に共通点はあるのはわかるけれど、アニメ版が良いと言う人のお勧め映像を見ても何がお勧めなのかわからなかった。
最近のアニメにありがちな世界観と言う、何か焦点を結ばない雰囲気と想像力豊かな映像が組み合わさってはいるけれどドラマにはなっていない感じがした。続けて見ていればそれでも良いのだろうけれど、そうで無いとなぜ戦っているとか登場人物のモチベーションの元みたいなものが全くなくて、この人はこう言う行動パターンなのだと押し付けられているだけに思える。登場人物の喋り方だってありがちでどれもあまり違わないし、目新しい映像を除けばは飽きる要素満載なのだ。
ハリウッド版、元を知っている人たちからすればどうかな、と感じる面がありそうだけれど、これ、逆にお前たち、映画の作り方知らないだろ、アイデアを出すのはすごいけど、作品として完成するってこう言う事なんだよ、と言われているのかも知れない。まあ、良い部分もあるけれど、やっぱり見て残念だからリメイクしたいってのが正解じゃないだろうか。
あまり細かい事言っても仕方ないけれど、残念なのはタケシの日本語のセリフと他の登場人物の間合いが合っていない事。多分撮っている人は台本で意味を理解しちゃっていて、日本語の感覚をわかるまでに行ってないのかなと想像する。そこ、どうにかすればあの聞き取りにくいセリフがどうにかなったのでは? スカーレットヨハンソンの (日本人にはなかなかナチュラルに感じられるあの) ウェットな演技にも合う気がするのだけれど。
マレーシアなんかにいるとリアルタイムに伝わってくるのはニュース記事での露出度だけであって、一番話題になっている時点でそれに乗れない。この映画も全くそうで、やっと今見る事が出来ている。ちょっと前に国際交流基金の主催で日本映画祭みたいなのやっていた時、これ演目に入っていたけれど。
なぜ見てみたかったかと言うと、海外でも評判が良かったと言う事だったから。でも、海外でウケたからと言って即ち良い作品かと言うとそうでもないのは経験済み。とは言え、そう書かれちゃ、ちょっと見てみたくもなると言うもの。
何と、いつも行くフードコートで他はコピーDVDとかVCDばかりなのに、この「君の名は」に限って正規版が売られている。ピカピカ光るシールも恭(うやうや)しく、コピー品が1枚8リンギ、2枚買うと7リンギのところ、こいつは10リンギ(250円ほど)だ。おおっ!この2リンギの差こそ正規版証か!日本円でたったの50円だけど。ホントに正規版か?
そして見てどうだったか?
簡単に言うと、ガッカリである。
ガッカリだ。
ガッカリだった。
ガッカリ。
自分はアニメはあまり見る方ではないが、たまに見る。評判の宮崎駿作品とか、古いのではガンダムとか、ちょっとは見る。何もかも熟知しているとは言えないが、これに関して言わせて貰えば、そんなに新しさを感じない。そりゃ現代的に画面は良く描けてるし、動きなども以前のものとは比べ物ならない。
しかしながら、このフルCGでもないアニメでそれ、言うところじゃない。今時海外アニメでももっと凝った映像はあるわけだから。マレーシアで放送しているテレビアニメだったフルCGなのだ。わざわざ昔ながらの手描きアニメを選んで作ってやっているわけだから変なリアリティは余計なのじゃないかと感じる。写真から起こしたような凄い絵のすぐ後に来る登場人物の平面顔....... 新シリーズになって明らかに水木しげるが描いてない登場人物が混じってしまったゲゲゲの鬼太郎似たあの違和感とちょっと似た感じがする。
特にあの戸を引く場面。あれは何? 電車のドア、家の戸、どっちも同じようにスッと戸が動いてピシャリと閉まるんだったか開くのだったか、あの戸描写は何回も出てきて目に付くけれど、何かストーリー上の伏線? 1回で止めときゃ良かったのでない?
主人公の2人、特に目立つ特徴のない人物。これは特徴のない普通の人である事で見ている人に親近感を呼ぶためなのか? 最近のアイドル歌手と同じようなやり方? 話し方、驚き方、まるで普通のどこにでもあるアニメらしいアニメの登場人物。それも意図あっての事なのか?
人物描写に期待できないが、この作品の中で一番期待できるのはストーリーだろう。何だ! 、単なる中身交換じゃないのね、時間ズレもあり、 バックトゥーザ・フューチャー的なのもありか。意外な組み合わせ。この映画、この部分に尽きるかもしれない。でも、残念だけれどこれもちょっと新鮮味には欠ける。10年ほど前だったか、人が死んで生き返る映画が流行った事があったけれど、何と無く似ている。交換したりズレたり生き返ったり歴史が変わったり、もしもそうなったらどうしようね?が(不自然に)自然にそこにある。別に種明かしは必要ない。なっちゃっただけだもん。
と言うわけで、アニメファンには自然な描写と表現がたくさん詰まっているのだろう。こう言うのを自然に受け取れる人には評価高いんだろうか? 中途半端にアニメ見てる自分には、何だ、普通のアニメじゃないか!ってところ。アニメであって映画ってのじゃない。
平凡なアニメの感じしかしない。彗星が割れてカケラが落ちて来る時、これもある意味普通の弧を描いてこちらに来る。宇宙物のアニメとか戦闘物アニメなんかで良くある普通の弧を描いてそれは来る。登場人物が驚く声も普通のアニメだし、驚きはするけれど抑制が効いている声、悩んだりしない能天気感じもアニメらしい。
何か今時はアマチュアの方がチャレンジ精神旺盛だったりするのだろうか?こうして大きな予算で作られる作品はやはり大きく失敗するような事は出来ないのが前提なのかもしれない。安全やり方で大きな失敗をしない作り、これがトレンドなのか? 見慣れていない外国人や新聞の記者の人たちにはもしかしたら目新しいものかも知れないが、日本人にとっては普通のアニメなのじゃないだろうか? 尖ってない、安全で冒険しないそんな作品に見えて仕方ない。
なぜ見てみたかったかと言うと、海外でも評判が良かったと言う事だったから。でも、海外でウケたからと言って即ち良い作品かと言うとそうでもないのは経験済み。とは言え、そう書かれちゃ、ちょっと見てみたくもなると言うもの。
何と、いつも行くフードコートで他はコピーDVDとかVCDばかりなのに、この「君の名は」に限って正規版が売られている。ピカピカ光るシールも恭(うやうや)しく、コピー品が1枚8リンギ、2枚買うと7リンギのところ、こいつは10リンギ(250円ほど)だ。おおっ!この2リンギの差こそ正規版証か!日本円でたったの50円だけど。ホントに正規版か?
そして見てどうだったか?
簡単に言うと、ガッカリである。
ガッカリだ。
ガッカリだった。
ガッカリ。
自分はアニメはあまり見る方ではないが、たまに見る。評判の宮崎駿作品とか、古いのではガンダムとか、ちょっとは見る。何もかも熟知しているとは言えないが、これに関して言わせて貰えば、そんなに新しさを感じない。そりゃ現代的に画面は良く描けてるし、動きなども以前のものとは比べ物ならない。
しかしながら、このフルCGでもないアニメでそれ、言うところじゃない。今時海外アニメでももっと凝った映像はあるわけだから。マレーシアで放送しているテレビアニメだったフルCGなのだ。わざわざ昔ながらの手描きアニメを選んで作ってやっているわけだから変なリアリティは余計なのじゃないかと感じる。写真から起こしたような凄い絵のすぐ後に来る登場人物の平面顔....... 新シリーズになって明らかに水木しげるが描いてない登場人物が混じってしまったゲゲゲの鬼太郎似たあの違和感とちょっと似た感じがする。
特にあの戸を引く場面。あれは何? 電車のドア、家の戸、どっちも同じようにスッと戸が動いてピシャリと閉まるんだったか開くのだったか、あの戸描写は何回も出てきて目に付くけれど、何かストーリー上の伏線? 1回で止めときゃ良かったのでない?
主人公の2人、特に目立つ特徴のない人物。これは特徴のない普通の人である事で見ている人に親近感を呼ぶためなのか? 最近のアイドル歌手と同じようなやり方? 話し方、驚き方、まるで普通のどこにでもあるアニメらしいアニメの登場人物。それも意図あっての事なのか?
人物描写に期待できないが、この作品の中で一番期待できるのはストーリーだろう。何だ! 、単なる中身交換じゃないのね、時間ズレもあり、 バックトゥーザ・フューチャー的なのもありか。意外な組み合わせ。この映画、この部分に尽きるかもしれない。でも、残念だけれどこれもちょっと新鮮味には欠ける。10年ほど前だったか、人が死んで生き返る映画が流行った事があったけれど、何と無く似ている。交換したりズレたり生き返ったり歴史が変わったり、もしもそうなったらどうしようね?が(不自然に)自然にそこにある。別に種明かしは必要ない。なっちゃっただけだもん。
と言うわけで、アニメファンには自然な描写と表現がたくさん詰まっているのだろう。こう言うのを自然に受け取れる人には評価高いんだろうか? 中途半端にアニメ見てる自分には、何だ、普通のアニメじゃないか!ってところ。アニメであって映画ってのじゃない。
平凡なアニメの感じしかしない。彗星が割れてカケラが落ちて来る時、これもある意味普通の弧を描いてこちらに来る。宇宙物のアニメとか戦闘物アニメなんかで良くある普通の弧を描いてそれは来る。登場人物が驚く声も普通のアニメだし、驚きはするけれど抑制が効いている声、悩んだりしない能天気感じもアニメらしい。
何か今時はアマチュアの方がチャレンジ精神旺盛だったりするのだろうか?こうして大きな予算で作られる作品はやはり大きく失敗するような事は出来ないのが前提なのかもしれない。安全やり方で大きな失敗をしない作り、これがトレンドなのか? 見慣れていない外国人や新聞の記者の人たちにはもしかしたら目新しいものかも知れないが、日本人にとっては普通のアニメなのじゃないだろうか? 尖ってない、安全で冒険しないそんな作品に見えて仕方ない。
ジェームズ・ボンドのダニエル・クレイグは確か今40代後半に入ったと思う。
欧米の映画の主人公は中高年がけっこう多い。若い時に活躍した俳優さんたちもどんどん歳とって中高年になって行くけれども、それでダメかと言うとダメどころかだんだん良くなっていったりする。デカプリオ、トム・クルーズとか。子供のヒーロー、アイアンマンもバットマンもキャプテン・アメリカだって言っちゃえばおっさんヒーローだ。
おっさん、であるが故に、余計な装飾無しに堂々と芯のあるヒーローになっている。カッコ付けなくてもそれなり、ダメだったりだらしなかったり、そう言う部分をそのままそれとして、つまりちゃんとそこまで生きて来た人間としての有り様みたいなものがそこにちゃんとあって、その上にヒーローが乗っかって安定しているのだ。
映ってないところにドラマが、その人の人生がちゃんとあったって感じがする。そこ行くと日本の映画はアニメにより似ている。そこまでの人生や時間てのは全くどうでも良い。その場その場だけが問題にされている。だから役作りは「キャラクター」作りと言う事になる。
サザエさんは何十年経ってもサザエさんに変わり無し。ドラえもんもそう。だって彼らには観客に見えている部分しか人生が無い。見ている在り方そのものがサザエさんやドラえもんの人生なのだ。
日本では若者が映像コンテンツにお金を使う主な層だと見なされているし、俳優さんを選ぶとした場合にキャーキャーでも何でも騒いでもらえる人から選ぶ。経費回収を考えればそれが一番安全なのだろうとは容易に想像できる。仮に中高年のアイドル君麻呂氏を主役に映画を撮っても小栗旬に勝てるとは誰にも思えない。で、それに挑戦して変えてみようとする人だってほとんど現れないわけだ。
こうしていつまで経っても日本では若さ礼賛から抜け出せないのだ。特にヒーロー物は無理だ。(例外はゼブラーマンと復帰した仮面ライダー本郷猛程度か?)
そしてこのルパン三世、しっかり日本の病を背負って出てくれた。ストーリー?、そんなもの言う前の問題だよね。でも もう1つ言ってしまうと、カメラワークがテレビのそれになっていてせっかく変わった景色の中で撮影しているのにつまらない絵になっていて残念。
これ、せっかくだから作り直ししていただきたい。
(アマゾン・プライム・ビデオで見ている。)
欧米の映画の主人公は中高年がけっこう多い。若い時に活躍した俳優さんたちもどんどん歳とって中高年になって行くけれども、それでダメかと言うとダメどころかだんだん良くなっていったりする。デカプリオ、トム・クルーズとか。子供のヒーロー、アイアンマンもバットマンもキャプテン・アメリカだって言っちゃえばおっさんヒーローだ。
おっさん、であるが故に、余計な装飾無しに堂々と芯のあるヒーローになっている。カッコ付けなくてもそれなり、ダメだったりだらしなかったり、そう言う部分をそのままそれとして、つまりちゃんとそこまで生きて来た人間としての有り様みたいなものがそこにちゃんとあって、その上にヒーローが乗っかって安定しているのだ。
映ってないところにドラマが、その人の人生がちゃんとあったって感じがする。そこ行くと日本の映画はアニメにより似ている。そこまでの人生や時間てのは全くどうでも良い。その場その場だけが問題にされている。だから役作りは「キャラクター」作りと言う事になる。
サザエさんは何十年経ってもサザエさんに変わり無し。ドラえもんもそう。だって彼らには観客に見えている部分しか人生が無い。見ている在り方そのものがサザエさんやドラえもんの人生なのだ。
日本では若者が映像コンテンツにお金を使う主な層だと見なされているし、俳優さんを選ぶとした場合にキャーキャーでも何でも騒いでもらえる人から選ぶ。経費回収を考えればそれが一番安全なのだろうとは容易に想像できる。仮に中高年のアイドル君麻呂氏を主役に映画を撮っても小栗旬に勝てるとは誰にも思えない。で、それに挑戦して変えてみようとする人だってほとんど現れないわけだ。
こうしていつまで経っても日本では若さ礼賛から抜け出せないのだ。特にヒーロー物は無理だ。(例外はゼブラーマンと復帰した仮面ライダー本郷猛程度か?)
そしてこのルパン三世、しっかり日本の病を背負って出てくれた。ストーリー?、そんなもの言う前の問題だよね。でも もう1つ言ってしまうと、カメラワークがテレビのそれになっていてせっかく変わった景色の中で撮影しているのにつまらない絵になっていて残念。
これ、せっかくだから作り直ししていただきたい。
(アマゾン・プライム・ビデオで見ている。)
久しぶりにDVDで映画を見た。
最近、忙しくてブログすら書いていなかったが、
ここに来て一段落。
そしてある方にこのDVDをいただいたのだった。
このシン・ゴジラ、ネットのニュースでは大変評判が良いようだった。
なので見てみたいと思っていた。
が、近所の映画館で上映していない。
上映しているのは同じ系列のKLの映画館のみ。
で、必然的に話題にもならず、DVDも売られていなかった。
もうダメか!、と思ったところにこれをいただく。
ありがたい。
DVDをマシンに吸い込ませる。
アレっ?メニュー画面無くいきなり始まった。
さすがマレーシアのDVD、何かエラーでも?
何だかセリフが多い。
早回しかと思ってしまう感じで出演者、
一所懸命しゃべっている。
モゴモゴ、モゴモゴ。
おいおい!ゴジラ出て来たんだぜ!
ちょっとは慌てろよ!
そのうち画面の色が往年のあのゴジラかと思うような
色味になったり、
あの、今にしてみれば幼稚な特撮っぽくなったり、
これは古い年代へのサービスなのか?
確か現代のCG技術駆使してって評判では?
でっかいスクリーンで見てないからか?
それにしても登場人物が多い。
そしてみんなよくしゃべる。
画面が無ければラジオドラマのよう。
で、カメラワーク、人間の視点と全然関係ない感じ。
立体感はあるんだけど、グイーンと動いても
全然怖くも下半身ムズムズもしない。
武器関係とかがあまり実写映画では無かった感じに描写されてたり、
事務機などもホントにアニメ風にきれいな動きで移動したり、
ポンプ車のノズルがものすごい速さで一斉に動くとか、
ゴジラなんかも好都合な場所に留まってて、
ああ、これってそう言う映画なのね、と思たり。
ゴジラ、子供の頃に映画館で見てたけれど、
今いろいろ言われているよりは無邪気に
怖がって見ていたと思う。
今になって完成度も上げてもらって見る。
そして大人として納得するようにちょっと
意味みたいなものも追加してもらう。
でも、何だかけっこう意味深過ぎないか?
ゴチャゴチャ言い過ぎないか?
ハリウッド版ゴジラ、
単なるデッカいトカゲに"なり下がった"みたいに言われてたけど、
こっちのはそれが無さ過ぎやしないか?
表情の無い平らな顔で朴訥とセリフを吐く
最近のこのスタイル、なんか飽きる。
やり方自体がちょっとうるさい。
ゴジラの新しい作り方を模索している過渡期である事を望みます。
最近、忙しくてブログすら書いていなかったが、
ここに来て一段落。
そしてある方にこのDVDをいただいたのだった。
このシン・ゴジラ、ネットのニュースでは大変評判が良いようだった。
なので見てみたいと思っていた。
が、近所の映画館で上映していない。
上映しているのは同じ系列のKLの映画館のみ。
で、必然的に話題にもならず、DVDも売られていなかった。
もうダメか!、と思ったところにこれをいただく。
ありがたい。
DVDをマシンに吸い込ませる。
アレっ?メニュー画面無くいきなり始まった。
さすがマレーシアのDVD、何かエラーでも?
何だかセリフが多い。
早回しかと思ってしまう感じで出演者、
一所懸命しゃべっている。
モゴモゴ、モゴモゴ。
おいおい!ゴジラ出て来たんだぜ!
ちょっとは慌てろよ!
そのうち画面の色が往年のあのゴジラかと思うような
色味になったり、
あの、今にしてみれば幼稚な特撮っぽくなったり、
これは古い年代へのサービスなのか?
確か現代のCG技術駆使してって評判では?
でっかいスクリーンで見てないからか?
それにしても登場人物が多い。
そしてみんなよくしゃべる。
画面が無ければラジオドラマのよう。
で、カメラワーク、人間の視点と全然関係ない感じ。
立体感はあるんだけど、グイーンと動いても
全然怖くも下半身ムズムズもしない。
武器関係とかがあまり実写映画では無かった感じに描写されてたり、
事務機などもホントにアニメ風にきれいな動きで移動したり、
ポンプ車のノズルがものすごい速さで一斉に動くとか、
ゴジラなんかも好都合な場所に留まってて、
ああ、これってそう言う映画なのね、と思たり。
ゴジラ、子供の頃に映画館で見てたけれど、
今いろいろ言われているよりは無邪気に
怖がって見ていたと思う。
今になって完成度も上げてもらって見る。
そして大人として納得するようにちょっと
意味みたいなものも追加してもらう。
でも、何だかけっこう意味深過ぎないか?
ゴチャゴチャ言い過ぎないか?
ハリウッド版ゴジラ、
単なるデッカいトカゲに"なり下がった"みたいに言われてたけど、
こっちのはそれが無さ過ぎやしないか?
表情の無い平らな顔で朴訥とセリフを吐く
最近のこのスタイル、なんか飽きる。
やり方自体がちょっとうるさい。
ゴジラの新しい作り方を模索している過渡期である事を望みます。
Twitterを見ていたら仮面ライダー1号と言う映画が今日から公開と書いてある。
あの時代に描き切れなかった特撮をCGで補ってもっとパワーアップしたリバイバル版かなと思って公式サイトを見てみたら、ちゃんと本郷猛は藤岡弘だ! リババルと言うより帰ってきた仮面ライダーそのものらしいとわかった。
けれど、同時に現代の仮面ライダーも一緒に出る。まあ、それはそうかもしれない。親も子も一緒に楽しめるようにしているのだろう。ただ、登場キャラクターのタブを開いて、う~ん…と。
その理由は、現代版仮面ライダーはそのちょっと前の仮面ライダーの魂を受けて何度も変身を繰り返すと言うところだ。その、何度も変身する魂を提供する仮面ライダー達の事、もちろんそんなの見ていないので全然わからない。だからいくら変身してくれたところで、それが何を参照しているのか、どの部分がそれに反映されているのか、全く意味不明なのだ。
後でマレーシアでもDVDで見られるかなと期待していたのだけれど、この現代版仮面ライダーの複数回の変身のでいでだいぶ気分が萎えてしまった。もっとも、最近の仮面ライダーしか知らない世代に藤岡弘を見せてもどうって事もないだろうからお互い様と言えばそうでもあるわけだけど…。
こう言う、謂わば内輪受け的な作りをする映画って、日本ではけっこうあって、以前見た巨大ロボットが主役の映画なんかもそうだった。元を知らないで見ると全然楽しくない。そこ行くと、ずっと前の仮面ライダーThe Firstみたいなゼロ・リセット版なんかの方が見易いんじゃないかな、と思う。
そう言えば、007のカジノ・ロワイヤルもリセットでリメイクされた映画だ。これんかは新しい方が面白い。なぜって、カジノ・ロワイヤルって原作がつまらない。ペンギン・リーダー(英語の勉強の為の本とCD)にカジノ・ロワイヤルがあって、簡略版なのだけれど、聞いていると、それはないだろ、と言うようなお話で展開がなってない。(これ、話が長くなるので興味あれば書店でペンギン・リーダー探してもらう事にします。)
話は元に戻るけれど、要は無理矢理ずっと前の話に続けたりあり物を使うより、原点に戻ってちゃんと解釈し直して作る方が良いような気もするし、見る方にとっても楽しめるのじゃないかな、と思ったりする。
でも、この仮面ライダー1号、見てなくて言ってるんだけど。見た人、感想聞かせて欲しいなあ。
ちなみに、私、仮面ライダーリアルタイムで見てた世代です。歳わかっちゃうけど。
あの時代に描き切れなかった特撮をCGで補ってもっとパワーアップしたリバイバル版かなと思って公式サイトを見てみたら、ちゃんと本郷猛は藤岡弘だ! リババルと言うより帰ってきた仮面ライダーそのものらしいとわかった。
けれど、同時に現代の仮面ライダーも一緒に出る。まあ、それはそうかもしれない。親も子も一緒に楽しめるようにしているのだろう。ただ、登場キャラクターのタブを開いて、う~ん…と。
その理由は、現代版仮面ライダーはそのちょっと前の仮面ライダーの魂を受けて何度も変身を繰り返すと言うところだ。その、何度も変身する魂を提供する仮面ライダー達の事、もちろんそんなの見ていないので全然わからない。だからいくら変身してくれたところで、それが何を参照しているのか、どの部分がそれに反映されているのか、全く意味不明なのだ。
後でマレーシアでもDVDで見られるかなと期待していたのだけれど、この現代版仮面ライダーの複数回の変身のでいでだいぶ気分が萎えてしまった。もっとも、最近の仮面ライダーしか知らない世代に藤岡弘を見せてもどうって事もないだろうからお互い様と言えばそうでもあるわけだけど…。
こう言う、謂わば内輪受け的な作りをする映画って、日本ではけっこうあって、以前見た巨大ロボットが主役の映画なんかもそうだった。元を知らないで見ると全然楽しくない。そこ行くと、ずっと前の仮面ライダーThe Firstみたいなゼロ・リセット版なんかの方が見易いんじゃないかな、と思う。
そう言えば、007のカジノ・ロワイヤルもリセットでリメイクされた映画だ。これんかは新しい方が面白い。なぜって、カジノ・ロワイヤルって原作がつまらない。ペンギン・リーダー(英語の勉強の為の本とCD)にカジノ・ロワイヤルがあって、簡略版なのだけれど、聞いていると、それはないだろ、と言うようなお話で展開がなってない。(これ、話が長くなるので興味あれば書店でペンギン・リーダー探してもらう事にします。)
話は元に戻るけれど、要は無理矢理ずっと前の話に続けたりあり物を使うより、原点に戻ってちゃんと解釈し直して作る方が良いような気もするし、見る方にとっても楽しめるのじゃないかな、と思ったりする。
でも、この仮面ライダー1号、見てなくて言ってるんだけど。見た人、感想聞かせて欲しいなあ。
ちなみに、私、仮面ライダーリアルタイムで見てた世代です。歳わかっちゃうけど。
「進撃の巨人」、前編の評判が悪かったからマレーシアでは後編は入手できないかなと思っていたところ、DVDがちゃんと売られてた。
でも、ちょっとこれは失敗だった。裏面をよく見ると、オーディオは英語となっていた。けれど、さらに悪い事に、実はそれ英語版どころか中国語吹き替え版だった。英語にすら変更できない。何ていい加減な!救いは英語字幕があること。台詞が複雑なニュアンスをあまり含んでいないらしくて英語字幕でほとんど理解できる。
それにしても、マレーシアの中国語吹き替えは酷い。よくカンフー映画とかコメディ映画で台詞じゃなくて叫び声とか合いの手とか意味の無い声、そんなものが入るけれど、この映画の戦闘シーンにそれが平気で入る。「アヨッ」とか平気で入ってる。それだけでも相当に変なのに、あまり心を込めてやっていないと言うか、話が分かれば良い程度に考えているのか、映画的にけっこう台無しって感じになる。笑わせてるのか、みたいな。他の映画の吹き替えってどうなっているかわからないけれど、吹き替え版は見たくないと思わせるに充分だ。(もっとも中国語吹き替え版なんて見るわけないけれど。)
ところでこの映画、評判悪いと言うのを知っていて怖い物見たさで見ている。
前編はえっ、ここで終わっちゃうの? でもまあ、仕方ないかと思っていたけれど、後編、意外に複雑だった。よく考えれば前編は敵が巨人だけだったわけで、巨人には人格が無いような感じで要はシューティングゲーム。後編になってそのままシューティングゲームじゃ、そりゃおかしい。映画にならない。
そこで後編は前編に出てきた人間どうしがちゃんと争うように出来ていた。それも最もらしい(?)理由付けをされて。しかしながらそりゃ、ちょっとリスキーな考え方過ぎやしないか?、と思えもする。納得し辛い感じ。
たぶん、こんな事は他の人がけっこう書いているのじゃないかと思うのでここで止め。
巨人の誕生秘話が出てきたのだけれど、あれ?、聞いた事あるような..... そうだ、ゴジラってこの巨人と似た感じで大きくなったんじゃなかったっけ? ゴジラの元が人間だったら...なるなる。もう1個、巨人てのは中に元の人間が入っていて巨体をコントロールしている。あっ、これってガンダムの生肉版だ。
新しいアイデアは既存のそれを新しい場所に置いたようなもの、と言われるけれど、確かに。巨人を生み出す発想としてはなかなかユニークだなあ、と思う。犬とか猫とかゴキブリとかを最初に巨大化してコントロールできなかったから人間もさらに巨大化させて身体に赤と銀のペイントしてウルトラマン対怪獣、みたいなのもできるかも。
いろいろな可能性ってのがまだまだ世の中にはあるものだと感心。
でも、ちょっとこれは失敗だった。裏面をよく見ると、オーディオは英語となっていた。けれど、さらに悪い事に、実はそれ英語版どころか中国語吹き替え版だった。英語にすら変更できない。何ていい加減な!救いは英語字幕があること。台詞が複雑なニュアンスをあまり含んでいないらしくて英語字幕でほとんど理解できる。
それにしても、マレーシアの中国語吹き替えは酷い。よくカンフー映画とかコメディ映画で台詞じゃなくて叫び声とか合いの手とか意味の無い声、そんなものが入るけれど、この映画の戦闘シーンにそれが平気で入る。「アヨッ」とか平気で入ってる。それだけでも相当に変なのに、あまり心を込めてやっていないと言うか、話が分かれば良い程度に考えているのか、映画的にけっこう台無しって感じになる。笑わせてるのか、みたいな。他の映画の吹き替えってどうなっているかわからないけれど、吹き替え版は見たくないと思わせるに充分だ。(もっとも中国語吹き替え版なんて見るわけないけれど。)
ところでこの映画、評判悪いと言うのを知っていて怖い物見たさで見ている。
前編はえっ、ここで終わっちゃうの? でもまあ、仕方ないかと思っていたけれど、後編、意外に複雑だった。よく考えれば前編は敵が巨人だけだったわけで、巨人には人格が無いような感じで要はシューティングゲーム。後編になってそのままシューティングゲームじゃ、そりゃおかしい。映画にならない。
そこで後編は前編に出てきた人間どうしがちゃんと争うように出来ていた。それも最もらしい(?)理由付けをされて。しかしながらそりゃ、ちょっとリスキーな考え方過ぎやしないか?、と思えもする。納得し辛い感じ。
たぶん、こんな事は他の人がけっこう書いているのじゃないかと思うのでここで止め。
巨人の誕生秘話が出てきたのだけれど、あれ?、聞いた事あるような..... そうだ、ゴジラってこの巨人と似た感じで大きくなったんじゃなかったっけ? ゴジラの元が人間だったら...なるなる。もう1個、巨人てのは中に元の人間が入っていて巨体をコントロールしている。あっ、これってガンダムの生肉版だ。
新しいアイデアは既存のそれを新しい場所に置いたようなもの、と言われるけれど、確かに。巨人を生み出す発想としてはなかなかユニークだなあ、と思う。犬とか猫とかゴキブリとかを最初に巨大化してコントロールできなかったから人間もさらに巨大化させて身体に赤と銀のペイントしてウルトラマン対怪獣、みたいなのもできるかも。
いろいろな可能性ってのがまだまだ世の中にはあるものだと感心。
今頃、と言われそうな本当に今頃、やっと「デスノート」を見た。
デスノートの前編、後編、それにL 最後の23日、ついでにアニメ版の「リライト」まで続けて見た。
原作は全然知らないので題名からもっとオカルトかと思ったら意外に探偵物っぽくてちょっとビックリ。で、この作品自体には、原作を全く知らない者として言いたい事はたくさん出てきた。多分、こう言うのを見る人は原作から入るから全然気にならないのだけれど、それを知らずに映画としてだけ見ると映画そのものとしては成立していないだろ、と突っ込みたくなる。でも、原作が売れて出来た作品なのでこれは仕方ない事にしよう。
それとはちょっと別の話になるけれど、アニメと映画、実写で実際の人間が演じているのと絵が動くだけのアニメ、これはこんなに違うものかな、と再発見。
実写版で気になってしまう第一の事は、登場人物の行動の動機。原作から入る人にはもうLって人が、この人はそんな人だってわかってるからどうでも良いんだと思うのだけれど、普通に映画として見ているこちらにはとてもそうは行かない、けっこう気になる点だ。まずそこで不親切だと感じてしまうし、描けていないとも思う。
しかしながら、同じような話をアニメで見ると、そう言う部分を問う気持ちが自分自身から全く湧いて来ない。動く絵に、こいつはこんなものだ、みたいなところで思考を止めて見てしまうのを感じる。気にならない。自分自身、これには驚く。
もう一つ、実写の方が微妙な登場人物の心の動きが気になるのだけれど、アニメだとそれが無い。例えば、実写の月が正義感から始まって、次第に心を変質させて行くんだろうなと言うような部分、描き方が不十分に感じる。もっと変質の色がわかるようにしても良いように思うのだけれど、同じ事がアニメでは感じられない。アニメの方がストーリー主義で成立してしまうような、かなりザックリとした描き方に感じられるけれども、それはそれで良いと、見ている自分が許してしまっている。
こんな比較ができる事はあまり無いから、今回は貴重な体験になった。
ところで、アニメ版のリライトはまだ後編があるのだと、最後のところでわかった。後編が今後入手できるかわからないのだけれど、ちょっと驚いたのはLが前編の最後で死んでしまった事。ネットで調べると死んだのは捜査のためのウソってわけじゃなく、本当に死んでしまって後編では月が二代目Lとなるらしい。
それを聞くとやっぱりアニメはストーリー主義的に行っちゃうんだな、と改めて思う。アニメは人間の視点を大切にしなくても意外性のあるストーリーだけでも成立してしまうものらしい。実写の映画だと続編と言うのができる場合があるけれど、だいたいそれは、実はね、この人の過去はこうでとか、この人のその後の人生はみたいな一人の人間への興味みたいなものが原動力になっている場合が多い。お話の続きだけじゃなかなか面白い映画にはならないのだから。
アニメにはそう言うのは必要無いらしくて、単に次の活躍とかお話の続きと言うだけで済んでしまう。人間が演じるか、絵が演じるかだけの違いなのに、受け取るこちらもそれに応じてそれなりに受け取っているのが不思議だ。もちろん作る方もわかっているんだろうな、リライトでLを殺してしまうのはその証拠だろう。原作がそうなっているのなら、(知らないけれど)アニメと漫画は映画よりも近い存在なのだろう。
デスノートの前編、後編、それにL 最後の23日、ついでにアニメ版の「リライト」まで続けて見た。
原作は全然知らないので題名からもっとオカルトかと思ったら意外に探偵物っぽくてちょっとビックリ。で、この作品自体には、原作を全く知らない者として言いたい事はたくさん出てきた。多分、こう言うのを見る人は原作から入るから全然気にならないのだけれど、それを知らずに映画としてだけ見ると映画そのものとしては成立していないだろ、と突っ込みたくなる。でも、原作が売れて出来た作品なのでこれは仕方ない事にしよう。
それとはちょっと別の話になるけれど、アニメと映画、実写で実際の人間が演じているのと絵が動くだけのアニメ、これはこんなに違うものかな、と再発見。
実写版で気になってしまう第一の事は、登場人物の行動の動機。原作から入る人にはもうLって人が、この人はそんな人だってわかってるからどうでも良いんだと思うのだけれど、普通に映画として見ているこちらにはとてもそうは行かない、けっこう気になる点だ。まずそこで不親切だと感じてしまうし、描けていないとも思う。
しかしながら、同じような話をアニメで見ると、そう言う部分を問う気持ちが自分自身から全く湧いて来ない。動く絵に、こいつはこんなものだ、みたいなところで思考を止めて見てしまうのを感じる。気にならない。自分自身、これには驚く。
もう一つ、実写の方が微妙な登場人物の心の動きが気になるのだけれど、アニメだとそれが無い。例えば、実写の月が正義感から始まって、次第に心を変質させて行くんだろうなと言うような部分、描き方が不十分に感じる。もっと変質の色がわかるようにしても良いように思うのだけれど、同じ事がアニメでは感じられない。アニメの方がストーリー主義で成立してしまうような、かなりザックリとした描き方に感じられるけれども、それはそれで良いと、見ている自分が許してしまっている。
こんな比較ができる事はあまり無いから、今回は貴重な体験になった。
ところで、アニメ版のリライトはまだ後編があるのだと、最後のところでわかった。後編が今後入手できるかわからないのだけれど、ちょっと驚いたのはLが前編の最後で死んでしまった事。ネットで調べると死んだのは捜査のためのウソってわけじゃなく、本当に死んでしまって後編では月が二代目Lとなるらしい。
それを聞くとやっぱりアニメはストーリー主義的に行っちゃうんだな、と改めて思う。アニメは人間の視点を大切にしなくても意外性のあるストーリーだけでも成立してしまうものらしい。実写の映画だと続編と言うのができる場合があるけれど、だいたいそれは、実はね、この人の過去はこうでとか、この人のその後の人生はみたいな一人の人間への興味みたいなものが原動力になっている場合が多い。お話の続きだけじゃなかなか面白い映画にはならないのだから。
アニメにはそう言うのは必要無いらしくて、単に次の活躍とかお話の続きと言うだけで済んでしまう。人間が演じるか、絵が演じるかだけの違いなのに、受け取るこちらもそれに応じてそれなりに受け取っているのが不思議だ。もちろん作る方もわかっているんだろうな、リライトでLを殺してしまうのはその証拠だろう。原作がそうなっているのなら、(知らないけれど)アニメと漫画は映画よりも近い存在なのだろう。