人だすけ、世だすけ、けんすけのブログ

愛知13区(安城市・刈谷市・碧南市、知立市、高浜市)
衆議院議員 おおにし健介

「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」と「心臓を貫かれて」

2004年10月25日 | Weblog
THE LIFE OF DAVID GALE
 2003年 アメリカ 131分
 監督:アラン・パーカー

をビデオで見た。スリリングなストーリー展開で最後まで楽しめるサスペンスだった。
 この映画では、死刑制度の是非が一つの重要なモチーフになっている。
 死刑制度反対論の有力な根拠の一つである「冤罪に対する死刑は殺人であり、冤罪は必ずある」というのがこの話の重要な鍵になっている。
 死刑制度に対する深い洞察を期待して観ると期待はずれかもしれないが、サスペンスとして楽しむなら、よい作品だと思う。

 この映画で思い出した死刑制度に関係する話で、自分が大きな衝撃を受けた作品がある。

「心臓を貫かれて」
 マイケル・ギルモア/村上春樹 訳
 文春文庫

 この本の著者、マイケル・ギルモアは、自らの銃殺刑を求めて、全米中に死刑制度の是非をめぐる議論を巻き起こした殺人犯ゲイリー・ギルモアの実弟である。
 当時、ゲイリーはニューズウィーク誌の表紙を飾るなどかなり大きな話題となったようだ。ノーマン・メイラーがこの事件を扱った「死刑執行人の歌」も当時、大変な反響をよんだ。
 しかし、「心臓を貫かれて」は、死刑制度の是非について論じた作品ではない。
 兄がどうして殺人を犯すに至ったかを、実弟がファミリーの暗い歴史をたどりながら解き明かしていくノンフィクションである。
 人間が人間の人生を台無しにしてしまう恐ろしい現実が克明に描かれており、くだらないホラーなんかよりもずっとぞっとする。
 近年、児童虐待に関するニュースが後を絶たないが、虐待が肉体だけでなく、人間の精神を損なっていく過程というのは身の毛がよだつものがある。
 私は、村上春樹が好きで、翻訳も含めて彼の作品のほとんどを読んでいるが、彼がこの本を翻訳しようと思ったのは分かるような気がする。
 村上ファンもそうでない人もぜひ読んでみてほしい。
 圧倒的な事実の力に打ちのめされる作品だ。

「国連改革議員連盟」の設立

2004年10月25日 | Weblog
日本の常任理事国入りを高評価…緒方JICA理事長 (読売新聞) - goo ニュース

 同じ日、国会では、自民党安倍晋三衆議院議員、民主党前原誠司衆議院議員、公明党高木陽介衆議院議員が呼びかけ人となって、「国連改革議員連盟」の設立総会が開かれた。
 議員の中には「日本は国連安保理常任理事国となって相応の役割を果たすべし」という声がかなり高まっている。
 気になるのは、世論はそれについて行っているのかということ。
 また、今日の設立総会でも再三強調されていたが、重要なのは「常任理事国となることではなく、なって何をするのか」である。
 日本は、今回、非常任理事国に選出された。任期中、どのような実績を示せるのだろうか。
 日本が常任理事国にふさわしいということを言葉ではなく、行動で示すことができるか、試金石となる。


「和の訳はrespect」

2004年10月25日 | Weblog
 先日、奈良に縁のある人を中心に集まったとき、奈良を代表するイメージの話になり、聖徳太子の話題になった。
 聖徳太子の十七条憲法の「和を以て貴しとし、忤うこと無きを宗と為せよ」にしめされた「和」の精神は、我が国の精神文化、国家の基本理念の一つであるということで意見が一致した。
 すると、アメリカへの留学経験のあるその場に居た一人が「アメリカ人にいつも和の精神を説明しようとするのだが、どうもうまく説明できない。和の訳をharmonyとすると、どうもしっくりしない。」と言い出した。
 それを聞いた別の人が「和の訳はrespectじゃない」と言い、それを聞いて、一同「なるほど」とうなずいた。

 「調和」という言葉もよい言葉だが、日本のイメージと重ね合わせると、どうも調和を重んじるあまりに自己主張しない日本というイメージがつきまとう。
 これをrespectとすると、それぞれ意見や立場は違っても、互いに尊重しあうという語感が伝わってくる。
 それは、とりもなおさず、民主主義の基礎であり、その精神を1400年も前に我々の先祖が説いていたというのは驚嘆に値する。

「政治とは鎮魂である」

2004年10月25日 | Weblog
 「政治とは鎮魂である」というのは、藤波孝生元官房長官の言葉だが、どこかでこの言葉を見て以来、ずっと記憶に残っている。
 先日、読んだ井沢元彦氏の「逆説の日本史」には、古代日本における怨霊信仰について詳しく説明がされており、奈良の大仏についても、怨霊を恐れる聖武天皇と光明皇后が建立したものとされている。
 怨霊はともかく、教科書でも大仏建立は、当時の疫病の流行等に対して、仏教による「国家鎮護」を目指したものと説明されている。
 国を鎮め、人心を安らかにするというのは、古来、政治の基本である。
 古代においては、現代であれば、科学的な根拠のある疫病の流行や天災を、祟りと考え、そのため、怨霊を鎮めるための方策が様々な形でとられたのである。
 時代が進み、戦国時代には、河川の氾濫等の自然の脅威に対しては、さすがに人知をもってこれに対応しようとするようになったが、治水は領国経営の基本であり、政治そのものであった。
 文明が高度に発達した現代社会においても、いまだ、人間は、台風による水害や地震に脅かされている。
 我々は、もう一度、国を鎮め、人心を安らかにすることこそが、政治の基本であることを肝にしっかりと銘じて、この事態に対処すべきではないだろうか。
 

生き方としての秘書、職業としての秘書

2004年10月25日 | Weblog
 先日、知人の議員から、議員会館で電話番や庶務をする女性が辞めてしまって、いい人がいないか探しているとの相談を受けた。適当な女性を思いついたので、紹介したが、後で話を聞いてみると、どうも事務所のなかでいろいろあって、大変らしい。
 日本では、国会議員の事務所といっても、所詮は「家内制手工業」の世界で、資金力がある有力議員を別にすれば、3名の公設秘書に加えて、数名の私設秘書、ボランティアといった体制で、地元事務所と議員会館事務所を回しているのが実情だ。
 少人数だが、担う責任、プレッシャーというのは大きい。事務所をうまくマネージメントするのは想像以上に難しい。一人が辞めれば、事務所に与えるダメージも大きな組織と違い甚大だ。私の知り合いの議員のように事務所運営に悩みを抱える議員は多いのではないか。
 仕える議員によって差はあるが、秘書には、労働基本権はないと思ったほうがよい。特に、私設秘書は、待遇にも恵まれないことが多い。秘書の立場からすると、政治家の秘書と言うのは、生活の糧を得るための「職業」と考えると、とても割に合わない。何らかの「思い」がなければできない「商売」だ。
 私も同じ秘書として、秘書の立場もよく分かる。しかし、議員から事務所の運営について相談を受け一緒に議論する中で、最近は、雇う側の議員の立場にも同情する。ただでさえ、人を雇うというのは難しいものだが、秘書の場合なおさらである。
 うちの議員は常々「政治家は職業でなく生き方だ」と言っている。だから、それを支える者も職業ではなく、生き方としてこの道を選んで欲しいと言う。
 「生き方としての政治」を選んだ者たちが、本当に信頼できる同志として、スタッフに同じ目線を持って欲しいと望む気持ちも私にはとてもよく分かる。
 しかし、必ずしもそういう人は多くはなく、現実には、家族や住宅ローンを抱えて、「職業としての」秘書という生き方を選らばなければならない人も多いはずである。
 「生き方としての秘書」を強調するばかりに、この世界をいつまでもアウトローなものにしておいてよいのかという考え方もある。秘書は、プロフェッショナルな政策スタッフであるべきという主張も一理ある。
 「生き方としての秘書」と「職業としての秘書」、この二つのバランスをいかにとるかが問題だ。
 この難問に簡単な答えはないが、一つの進むべき方向として、政策市場の流動性を高めていくことが考えられる。
 米国でも、議会スタッフの待遇と言うのは必ずしもよくない。しかし、彼らの多くは、キャピトル・ヒルでの経験をキャリアとし、その後、ロビイ団体等で多額の報酬を得る者もいれば、専門領域での知見を深めシンクタンクやアカデミアに進むべき者もいる、はたまた、政治の世界や政府機関での政治任用への野心を抱く者もある。
 秘書、さらには政治の世界がもっとオープンなものとなり、政策市場での人材の流動性が高まれば、秘書の身分の不安定さというのは、リスクが高い反面、多様なキャリア・パスを開くものと認識されるようになるかもしれない。
 私自身は、安定した公務員の身分を捨て(正確に言うと公設秘書も公務員だが)、秘書になった以上、「生き方として」政治の道を選んだ者の一人であると思っている。
 よくよく考えると、本来、生き方が職業と一致するのが、人間にとって幸福な姿といえるのではないだろうか。「天職」と言う言葉があるが、好きなこと、人生を賭けることができるものを見つけ、それを職業にできれば、そんな幸せなことはないだろう。
 たしかに、リスクはある。しかし、生き方を職業にできる喜びを感じながら、この世界で生きて行きたいと思う。
 
 

 

永田町の風景

2004年10月25日 | Weblog
 千代田区永田町1丁目7番地1は、国会議事堂の住所だ。
 私は、大学を卒業して、国会職員となり、現在は、国会議員の政策秘書をしており、この十余年というものここ永田町周辺に毎日通う生活をしている。
 十年前の春、上京してここにやって来た時は「ああ、ここが日本の政治の中心、永田町かぁ」という感慨もあったし、私にとっても「永田町」、「霞ヶ関」というのは、ある種特別な響きをもった言葉だった気がする。ここを訪れるお客の多くも、ここかしこに警官が立ち、黒塗りの車が往来する雰囲気を独特と感じるようだ。
 しかし、不思議なもので毎日通っていると、どんな独特の風景も日常の見慣れた風景となり、生活の一部となる。
 今日も窓から議事堂が見えているが、澄み切った秋空に映える議事堂の姿というのは、改めて見るとなかなかのものだ。
 もう少しすると、議事堂と議員会館の間の銀杏並木が黄金色に色づく。それはまた見事なものだ。毎年、この銀杏を見ると「金色の小さな鳥の形して銀杏散るなり夕日の丘に」という教科書に載っていた歌を想いだす。ただ、厄介なのは、大量の落ち葉と道に落ちた銀杏の実。銀杏の放つ独特の臭いもご愛嬌というところか。
 私は、アメリカのワシントンDCにいたことがある。DCでは議事堂のある辺りをCapitol Hillと呼ぶが、これは、文字通り議事堂のあるところが少し小高い丘になっているからだ。永田町という地名に特別な意味をこめるのは、むしろ英国の首相官邸がある「ダウニング街10番地」の使い方に近いかもしれない。
 ちなみに、この周辺が「永田町」と呼ばれるようになったのは、明治になってからのことらしい。一説には、江戸時代この辺りに旗本の永田伝十郎及び永田一族の屋敷があったためと言われているが定かでない。
 これから、ここ「永田町」で日々思うことを徒然なるままに記して行きたいと思う。