選挙区を歩いていると、有権者のみなさまから西三河の政治の世界の先人たちの名前を耳にすることがしばしばあります。たとえば、渡辺武三、中野四朗、浦野幸男、小笠原三九郎・・・といった先達の名前です。現在の愛知13区を含む、11区、12区を合わせた地域は中選挙区時代には愛知4区と呼ばれ4人の国会議員が同じ選挙区から選ばれていました。そして、中選挙区時代の愛知4区では、同じ自民党同士で派閥の違う3陣営がそれぞれしのぎをけずっていたのです。
まだ、私が現職になる前のことです。高浜である瓦関係の会社に飛び込みで挨拶に行きました。会社の中には、相手候補のポスターが貼ってありましたが、社長は「時間があるなら、あがりん。」と私を応接室に招き入れて、コーヒーを入れてくれました。
雑談の中で「うちの親戚に中垣国男という議員がおってなあ。わしも子どものころからその人の選挙を見とったから、政治家はたいへんやな。中垣さんのところは、選挙をやる度に財産がなくなっていった。」と話してくれました。
しかし、私は当時、「中垣国男」という名前は知りませんでしたので、その名前は記憶からもいつの間にか消えていました。しかし、その社長さんがしてくれたこんな話だけはとても印象に残っていました。中垣さんというのは、筋を重んじる人で、昔は現在と比べれば口利きのようなことが広く行われていましたが、国立大学の入試と税金に関する陳情は絶対に受けつけなかったそうです。なぜなら、納税は国民の義務であり、さらに、その税金を使って国家に有意な人材を育成するのが国立大学の責務だから、それらを徒にゆがめるようなことは決してあってはならないと考えていたからだそうです。
ずっと後になって、私がたいへんお世話になっている支援者で、かつてこの中選挙区の4区から衆議院に出ていた稲垣実男代議士を支援していた方から、一冊の本を貸してもらいました。それは「戦後政治の思い出」という回顧録です。政界を引退した後の中垣国男元法務大臣が非売品として昭和55年に発行したものです。私は、地元と東京の往復の新幹線で中垣先生の「戦後政治の思い出」をカバンの中から何気なく手にとりました。新憲法の施行とともに35歳で国会の赤じゅうたんを踏んだところから始まるこの回顧録は、国会議員になったばかりの私には自分の心境と重なる部分もあり、すぐに引き込まれてしまいました。
まず、読んでいて心洗われる思いがしたのは、中垣代議士が権力とカネに清潔な点です。政治としてのキャリアを通じて、少数派閥「石井派」を貫いたこと。相手が外国の議長であろうが、佐藤栄作総理大であろうが納得がいかない場合には黙っていないところ。田中角栄元総理に代表される自民党の金権体質を真っ向から批判してはばからないところに魅かれました。。
国会内で中垣代議士が佐藤代議士に「君はぼくの選挙区に中野(中野四朗)の応援に来た。しかし中野はぼくに一万五千票も負けた。君がぼくの選挙区に立ったって負けない。君は将来、総裁選をやるといっているそうだが、ぼくは断じて君に一票も入れない。」と啖呵をきったエピソードなどは、中選挙区当時の政治状況を物語っています。
中垣代議士は、政界引退の時の新聞のインタビューにこう答えています。「自民党代議士の悲劇は、選挙の過当競争にある。政治家を志した時の夢や理想を追っていたのでは議席を保てない。個人としては立派な人たちが、選挙で生き残るために、夢や理想を次つぎの放棄してゆく。」。いまも繰り返される「政治とカネ」をめぐる問題を見るとき、この先達の言葉は重く響きます。
当選9回、30年以上代議士生活を送り、法相まで務めた中垣代議士の引き際は、実にあっさりとしたもので、長年秘書を務めた稲垣実男氏に地盤を譲り政界を引退しました。この三河地域にこんな清々しい政治家がいたことを誇りに思います。
もう一つ、中垣代議士はもともと鹿児島の出身で三河人ではありません。私ももともとは三河人でないので三河人でないにもかかわらず、三河から代議士になり、法務大臣にまでなった中垣代議士には強い共感を覚えました。
私は、西三河、碧海5市に骨を埋める覚悟でこの地での出馬を決めましたが、ある支援者の方が三河の古い呼び方に「介木」というのがあり、私の名前に「介」の字が入っているのは運命だと言ってくれました。碧海5市、13区から初当選を果たした年にこの地で生まれた長男には、その「介」の字をとって「透介」(すかい)と名づけました。
ちなみに、引退した中垣氏の後継者が初当選以来中垣代議士の秘書をしていた稲垣実男氏で、稲垣氏は、初出馬は次点に泣きましたが、浦野幸男代議士の急死ですぐに繰り上げ当選になりました。その浦野幸男代議士の娘婿が浦野保興代議士で、その浦野代議士を初当選以来長年秘書として支えていた人が、偶然私と出会い初当選までの間はボランティアとして私を支えてくれたGさんです。彼は、現在は私の政策秘書をしてくれていますが、これも何か不思議な縁のような気がするとともに、中選挙区時代から脈々と流れているこの地域での政治の系譜というものを意識せざるを得ません。
まだ、私が現職になる前のことです。高浜である瓦関係の会社に飛び込みで挨拶に行きました。会社の中には、相手候補のポスターが貼ってありましたが、社長は「時間があるなら、あがりん。」と私を応接室に招き入れて、コーヒーを入れてくれました。
雑談の中で「うちの親戚に中垣国男という議員がおってなあ。わしも子どものころからその人の選挙を見とったから、政治家はたいへんやな。中垣さんのところは、選挙をやる度に財産がなくなっていった。」と話してくれました。
しかし、私は当時、「中垣国男」という名前は知りませんでしたので、その名前は記憶からもいつの間にか消えていました。しかし、その社長さんがしてくれたこんな話だけはとても印象に残っていました。中垣さんというのは、筋を重んじる人で、昔は現在と比べれば口利きのようなことが広く行われていましたが、国立大学の入試と税金に関する陳情は絶対に受けつけなかったそうです。なぜなら、納税は国民の義務であり、さらに、その税金を使って国家に有意な人材を育成するのが国立大学の責務だから、それらを徒にゆがめるようなことは決してあってはならないと考えていたからだそうです。
ずっと後になって、私がたいへんお世話になっている支援者で、かつてこの中選挙区の4区から衆議院に出ていた稲垣実男代議士を支援していた方から、一冊の本を貸してもらいました。それは「戦後政治の思い出」という回顧録です。政界を引退した後の中垣国男元法務大臣が非売品として昭和55年に発行したものです。私は、地元と東京の往復の新幹線で中垣先生の「戦後政治の思い出」をカバンの中から何気なく手にとりました。新憲法の施行とともに35歳で国会の赤じゅうたんを踏んだところから始まるこの回顧録は、国会議員になったばかりの私には自分の心境と重なる部分もあり、すぐに引き込まれてしまいました。
まず、読んでいて心洗われる思いがしたのは、中垣代議士が権力とカネに清潔な点です。政治としてのキャリアを通じて、少数派閥「石井派」を貫いたこと。相手が外国の議長であろうが、佐藤栄作総理大であろうが納得がいかない場合には黙っていないところ。田中角栄元総理に代表される自民党の金権体質を真っ向から批判してはばからないところに魅かれました。。
国会内で中垣代議士が佐藤代議士に「君はぼくの選挙区に中野(中野四朗)の応援に来た。しかし中野はぼくに一万五千票も負けた。君がぼくの選挙区に立ったって負けない。君は将来、総裁選をやるといっているそうだが、ぼくは断じて君に一票も入れない。」と啖呵をきったエピソードなどは、中選挙区当時の政治状況を物語っています。
中垣代議士は、政界引退の時の新聞のインタビューにこう答えています。「自民党代議士の悲劇は、選挙の過当競争にある。政治家を志した時の夢や理想を追っていたのでは議席を保てない。個人としては立派な人たちが、選挙で生き残るために、夢や理想を次つぎの放棄してゆく。」。いまも繰り返される「政治とカネ」をめぐる問題を見るとき、この先達の言葉は重く響きます。
当選9回、30年以上代議士生活を送り、法相まで務めた中垣代議士の引き際は、実にあっさりとしたもので、長年秘書を務めた稲垣実男氏に地盤を譲り政界を引退しました。この三河地域にこんな清々しい政治家がいたことを誇りに思います。
もう一つ、中垣代議士はもともと鹿児島の出身で三河人ではありません。私ももともとは三河人でないので三河人でないにもかかわらず、三河から代議士になり、法務大臣にまでなった中垣代議士には強い共感を覚えました。
私は、西三河、碧海5市に骨を埋める覚悟でこの地での出馬を決めましたが、ある支援者の方が三河の古い呼び方に「介木」というのがあり、私の名前に「介」の字が入っているのは運命だと言ってくれました。碧海5市、13区から初当選を果たした年にこの地で生まれた長男には、その「介」の字をとって「透介」(すかい)と名づけました。
ちなみに、引退した中垣氏の後継者が初当選以来中垣代議士の秘書をしていた稲垣実男氏で、稲垣氏は、初出馬は次点に泣きましたが、浦野幸男代議士の急死ですぐに繰り上げ当選になりました。その浦野幸男代議士の娘婿が浦野保興代議士で、その浦野代議士を初当選以来長年秘書として支えていた人が、偶然私と出会い初当選までの間はボランティアとして私を支えてくれたGさんです。彼は、現在は私の政策秘書をしてくれていますが、これも何か不思議な縁のような気がするとともに、中選挙区時代から脈々と流れているこの地域での政治の系譜というものを意識せざるを得ません。