火曜日の夜、「をかしら屋盛岡大通店」店員二人が閉店後、飯を食いに行こうと言う。
目指すは、「をかしら屋松園東黒石野店」の常連、実は大通にある「焼肉店」の店員さん二名がいる店である。
いつも来ていただいているのに、こちらが行かないわけにはいかないとT嬢が言う。
もっともだ。仁義を尽くさねば。
と、勇んで行ったのだが肝心のお二人がいない。非番だ。
店に対する仁義はない。この二人に対する仁義はある。しかし二人はいない。
という事だから、違う店に行こうと決めた。
で、「をかしら屋盛岡大通店」が開店する前に、同じ大通に開店したG店に行く。
開店前に店員一同様で「をかしら屋松園東黒石野店」に、普通小型自動車に六名乗りあわせで来ていただいたお店である。
こちらも返礼でお食事せねば。
と、行く。
イケメンが売りの店であるから、当店の店員二名(うら若き美女達!!)の興味は同業者の視察にあるのか、男の値踏みにあるのかはわからないが・・・。
店の評価は控える。
一言で言えば、盛岡に無かった「いい店」である。
主張もあって頼もしい。
で、感じたことは、同じ内蔵系を売りにする店であるが、やはり「をかしら屋」とは違う。
いや、「をかしら屋」がこの手の一般的な焼肉ホルモン屋と違うことを、あらためて認識させられたと言うことだ。
原材料は同じなんだけど、提供のしかた、サービスのしかた、ターゲット、タレ、調理方法、全てが違う。
この店が違うのではなく、たぶん、私の店=「をかしら屋」が違うのだろう。
タレ。
多くの焼肉屋、ホルモン店はタレで肉を、ホルモンを食わす。
この店のタレも確かに秀逸だ。
でも、私から見れば、タレがまさって肉が死ぬ。いい肉なのに。
「をかしら屋」のモミダレはツケダレを水で薄めたようなものだ。
それも、「揉まない」。
ただ、かけるだけである。薄いタレを。
原料のホルモンや肉の素の味をいかすためのモミダレである。引き立てるためのタレである。
隠したり、美しくするためのタレではない。
もちろん、ツケダレも同じである。
決して弱いタレではない。
しかし、素材を引き立てるためにあるタレである。
ホルモンという、各々の部位が各々の風味・食感を持つ内臓の、それぞれを引き立てるためのタレである。
「をかしら屋」のタレは素材に勝らない。
この店の秀逸なタレは勝る。
しかし、新鮮な素材にこだわっていると聞く、各々の内蔵をすべて同じ味に包み込む。
一口、二口はうまい。
甘みもあり、うまみも辛みも、バランスもすごくいい。
でも、そうたくさんは食べれない。
「をかしら屋」の常連さんは、一週間に二三度来られる方が珍しくない。
二日続けて来られる常連さんも多い。
そういう提供の仕方だし、素材をいかすタレの味もそう作っている。
甘みは本能的に受け入れられる「うまさ」の要素だ。
そして、あえて「をかしら屋」はそれを避けている。
「をかしら屋」はやはり「をかしら屋」だ。
それは店員が一番よく知っている。
なぜなら、彼女らは毎日と言っていいほど、賄いや試食で「ホルモン」を食べているから。
もちろん「をかしら屋」のタレをつけて。
とびっきりの「うまいタレ」、「タレ」で喰わせるなんていう趣向のタレではない。
だから毎日食べれる。
「をかしら屋」は「をかしら屋」である。
他がどうかは、やはり私には関係ないような気がする。
完成はしていないが、他と比べることは止めよう。
自分の目指すものにいくら近づけれるのかを指標としよう。
「をかしら屋」が「をかしら屋」でありつづけるために。