筑後川の川土手をひたすら南下して大川市に辿り着いた。雨脚が強い。雨に叩かれて白い飛沫を騰げる広い川面を眺めつつ、ゆっくり運転をした。昇開橋のたもとへ来た。今は廃止になっている佐賀線の鉄道鉄橋である。
今日は雨。昨日が蒸し暑かった。夕方だったのに、畑に出ただけで顔の汗が膝元に滑り落ちてきた。降り出して当然だろう。夜明け方から雨の音が響きだした。雨量も少なくない。土がしっとり濡れている。これだけ降り続けば、深くまで染み入っていけるだろう。秋野菜の若い葉っぱが鮮やかな緑になっている。猫が土竜(もぐら)を捕まえて玄関先に置いている。オレの仕事ぶりを見てくれと言わんばかりだ。畑に土竜が掘り進んだ跡が明らかに見える。土が動いている。所在は隠しようがない。猫はふっくら盛り上がった土を前足で掻き分けて追求する。目が見えない土竜はすぐに捕まってしまう。土の中の竜という漢字名にしてはいささか可愛いすぎる。さっき外に出たら雨に打たれていた。雨が止んだらどこぞに穴を掘って土に返してあげようと思う。
「おおいおおいおおい」
空は威張らない/おいらは威張る
威張らない空を/見上げていられることを/威張る
空と対等の姿勢を貫いていることを/威張る
ここにこうして/朝から晩まで1対1で/対面し合っていられることを/威張る
おおいおおいおおい/おおいおおいおおおおい
威張らないでいられる空と/威張りたくてならないおいらとが/対等だなんて/信じられるかい?
おおいおおいおおい/おおいおおいおおおおい/腹の底から叫んでみる
叫びを吸い上げた深い秋の空が/山の方から海の方まで/ずずずずっと澄み渡った
「案山子(かかし)」
威張ることが大嫌いだと日頃洩らしているくせして案山子はちょいちょい威張る。
昇ってくる朝日を仰いでその後、独り片足立ちして目を剥き、行く雲を睥睨する案山子。ふんぞり返っている。奴は何を威張っているのだ? 「オレはいま八天山になっているのでそれで威張っているのだ」と答える。八天山になったらそうしていなくちゃならないらしい。またあるときには「オレはいま秋の空になっているのでそれで
威張っているのだ」と言う。山になったり空になったりご苦労なこった。しかし、いつもは沼泥のようにだらりして力がないのだ。がくりと首を垂れている姿を見かけたこともあった。それがどうだ。「いま風を孕んだ凧になっているのでそれでおれは風に猛然と威張りたくなった」と叫び出す始末。こんなふうに時折彼は俄然元気を取り戻す。何にでもなれるという特技を身につけたらしい。なあに、遊びにすぎまいが。案外しかし、彼は菩提達磨のように悟ったのかも知れない。無碍自在の顔をしているときもある。雀の番をしているだけではなかったのだ。そこで大空面壁座禅5年をやり通したのかも知れない。だとすると、案山子の威張りを見直してやらねばならないだろう。
「小栗(ささぐり)」
父は晩婚であった。その上なかなか子供ができなかった。しかし、結局は二人の男の子に恵まれた。可愛がった。わたしと弟である。弟は父の40歳の時の子。弟とは4歳違う。
わたしは小学校低学年で、弟がその頃完成した幼稚園の一期生だった。父が日曜日に秋の山に誘ってくれた。沼地を抜けて行くので、3人は長靴を履いて出掛けた。父の手には鉈鎌、わたしの手には藁で編んだ「とうみゃあぶくろ」。弟の手には蒸かした薩摩芋の袋。山深くに分け入って小栗狩りに行くのである。
小栗は山中に自生している。名の通り毬(いが)も実も小さい。山中に入るとそこらの高い樫の木に父が登って、探す。これを見つける。そこへ藪を掻き分け掻き分け辿り着く。そして鉈釜を腰に差して父が栗の木へよじ登る。枝先ごと切って落とす。これをわたしが木の下で拾い集める。父が降りて来て長靴と鎌の先で青い毬を裂く。此に時間が掛かった。弟は袋の中の芋を食べながら、父の作業を面白がった。わたしは早速栗を歯で割ってみる。柔らかい。乳の味がした。残りの毬栗は「とうみゃあぶくろ」に放り投げた。袋を突き破った毬が足腰をちくりちくり刺した。父と子、男3人の楽しい一日だった。
尊敬していた父は70歳で他界した。立派な死に様だった。そして一昨年弟が病を患って他界した。まだ父の年齢を超えないうちに。両者とも秋だった。秋が来ると寂しい。寂しがっているうちにあの日の山中の小栗の味を思い出す。と決まって、笑顔の父と弟が登場してくるのである。小栗の乳の味も蘇って来るのだが。
真夜中、急に食べたくなって食べた。こっそり起きて台所へ行き、テーブルを動かし、床下収納所を引っ張り開けて、2年物の梅酒の瓶を引っ張り上げて、固くなった蓋を回し、沈んでいる梅を数個柄杓で掬い上げた。忽ちあの独特の甘い香りが辺りに拡散した。それを小さなお皿に載せて、我が書斎にまで運んできて、齧りついた。糖分が唇に粘り着いた。果肉がとろりとした。これでよし。1個で満足した。残りがそのままになった。氷砂糖と焼酎が育んだ梅漬けの甘いやるせない匂いが、部屋に充満した。粘り着いた糖分を洗い流すのにペットボトルの水が半分にまで減ってしまった。急に母を思い出したのである。台所の床下収納所にいろいろな漬け物を漬けていた母を思い出したのである。14年死んでいた母が床下収納所から現れて出て、こんばんはをした。もちろん今夜味わったのは家内が母に教わって漬けた新しい梅酒のそれであるが。
さあさあこれくらいにしよう。日が翳って来た。畑に出よう。いい詩を書きたいのだが、もう諦めよう。
詩はたましいの食事。しっかり食べさせてないと腹ぺこを訴えて、夜になっても寝かせてくれないからなあ。駄々を捏ねるのがたましいなのかなあ。そうじゃないんだろうけどなあ。
*
食わせても食わせても痩せているさぶろうのたましい/足の脛なんかには骨が露わだ/消化し切れていないんだろうねえ/何を食わせようとそれはこちらの勝手/それで栄養をつけるべきだ/それがさぶろうの言い分/言い分を聞いても/たましいはぎょろりと目を剥いているばかりだ/
「よろこび分量計器袋」
夜が明けるとよろこびが
届け物をしに来ています
これが今日一日あなたが
よろこぶ予定の
よろこび分量計器袋です
袋の表には決まりが
幾つか書かれています
「この袋の大きさは
昨日あなたがよろこんだ
分量に合わせています
明日のは今日に合わせます
よろこびは
誰の所有でもありません
何をよろこんでもいいし
よろこび過ぎても
欲張りにはなりません
あなたの息が楽になったら
そこで計器が1を数えます」
紅葉をした野山を歩いた
大空が澄み切っていた
モズが甲高く秋を知らせた
尾花に風が渡ってきた
そのたびに
わたしの息が楽になった
袋の計器が跳ね上がった
「険悪と不逞と焼酎」
死ぬまでは
よろこんでいていいんだよ
彼のたましいが
彼の耳にささやいている
よろこんでいいところを
よこばないでいるのは
耳なのか
耳だけではなさそうだ
真夜中 冷たい台所に座って
口と喉と胃袋が
険悪と不逞と焼酎とを飲み出した
三者三様にくだくだくだくだ
愚痴っている
この世の全部が全部を
そっくりよろこびに来たのに
このていたらくぶりだ
死ぬまでは
よろこんでいていいんだよ
彼のたましいは
彼の耳にまだささやいている
***
この世の全部をそっくりよろこびに来たのに、まだほんの少ししか喜んではいない。喜ばせないようにしている険悪と不逞と焼酎との戦いが続く。今夜も続く。不逞は不平の塊のことだ。険悪の相と不逞の顔つき、こいつらが居座ってこの世を従順に過ごさせないでいるのだ。
「冬籠もり」
「あなたを恋しく思ってはなりませんか」/「なりません」/「これ以上はなりません」/彼女はそういう/彼女は高い秋の空である/青く澄み渡った大空である/蜥蜴はすごすごと穴に引き込むしかない/「なりません」は禁止命令である/蜥蜴は穴に入る前にもう一度/青い大きな空を仰いでみた/「あなたを恋しく思ってはなりませんか」の問いを放ったときよりも/空はいよいよ青く澄み渡って/美しくなっていた