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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

じわりじわり嬉しくなって来る

2014年06月28日 08時06分03秒 | Weblog
禅悦食(ぜんねつじき)という食べ物があります。禅は静慮。ニルバーナ。入涅槃。騒ぎがおさまっていて平和なこころ。悦はよろこび。食は食べ物。目を閉じて自分のこころの奥を見つめているとそこに朝の光が差し込んできているので、あたたまったこころがそろりそろりと融け出して来ている。

禅悦食は、よろこびというこころの食べ物。それが食べられる。静かになるとそれが食べられる。口で咀嚼して食べる食べ物のほかにも、ここではいろいろな食べ物が食べられるのだ。目で食べ、耳で食べ、こころで食べ、たましいの深い海でこれを食べる。おいしがるとそれで食べ物になる。

目を瞑る。そこにも青空がある。広がっている。夏の空だ。むくむく入道雲も上がっている。活気があって生き生きしている。そこに居合わせていることが嬉しくなってくる。じわりじわり嬉しくなってくる。そこにそれがある、それを見いだして、よろこびになっている。そこにそれがよろこびとして、ある。
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蝶々の世界に三郎が舞っている

2014年06月28日 07時44分00秒 | Weblog
蝶々が来ている。三郎のいる空を舞っている。ひらりひらりして往来している。三郎はこれで泣き出したくなっている。

三郎のいる空に蝶々が舞っていることにどんな意味がこめられているのか。どんな意味もこめられてはいないのかもしれないのに、三郎にはそれでいいらしい。

熱いものが胸にこみ上げてきている。そういう世界を蝶々と共有していられるということが、三郎の胸の薬缶を熱く沸かしているのだ。ゆうらゆうら湯気が上がる。

そういう世界は二度と来ないかもしれない。三郎はやがてここを去って行く。それが辛く悲しいからではない。そこを超脱して、ここにいま現出させている蝶々の世界に、三郎が舞っていられるのが嬉しいのだ。

三郎はひらひらと舞っている。いまはそれだけで熱くなっている。風が少しある。梅雨空は今朝もまだどんよりして厚ぼったい。
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むっつりしている男がこれで蕩(とろ)ける

2014年06月28日 07時23分18秒 | Weblog
ベートーベンのバイオリンソナタ「春」を聞いている。三郎のこころがこれでほぐれていく。ああ、よかった。むっつりしている三郎の気分をほぐしてあげようというのだ。

三郎は音楽が理解できるように高等ではない。ただ、それでとろりとなるだけだ。とろけるだけだ。かたまっているのが、角をなくして、溶けだして来る。だらりとなる。

三郎の赤ん坊がこれで泣き止んだようだ。ああ、よかった。ところで、三郎は幾つになるまで、このむずがる赤ん坊を抱いていなければならないのだろう。
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どういうことだ 声をかけて来る入道雲

2014年06月28日 07時04分23秒 | Weblog
「ごきつぶし」は「縠(ごく)潰し」がなまったものだ。食べるだけで何の役にも立たない者はこうやって嘲りを受ける。縠は五穀米のこと。穀類には虫がつく。虫は、人間が食べる前にこれを潰してしまう。



おまえ、ごきつぶしか。

へ。さようで。

潰すだけで潰しがきかない者だな。

さようで。



このごきつぶしの虫にも、こうやって声をかけてくださる方がおられる。見上げて、きょろきょろして声の主をさがす。夏の空に入道雲がもくもく上がっている。声はそこらあたりから聞こえてくる。入道雲に目がある。引き攣っていて恐そうにしている。

そうまでして、このごきつぶしに声をかけてくださるということは、どういうことだ?
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ごきつぶしのままでありました

2014年06月28日 06時52分30秒 | Weblog
仏像をスケッチしてみた。昨日のお昼。ずいぶん時間をかけて。でも、仏像にはならなかった。似ても似つかぬ。これじゃ、二枚目のタレントの顔だ。にやけている。失敗だ。仏さまにはほど遠い。こっちのこころがそうなっていないからだ。邪気が多いからだ。邪悪だからだ。そんなのじゃ、描けるわけがない。投げた。

おまえ、人間を何年やっているのだ。何年も何年も人間をやっていながら、まだそんなところか。

へ、お恥ずかしいばかりでございます。ごきつぶしのままでありました。
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修正を入れよう 今日こそは

2014年06月28日 06時13分31秒 | Weblog
瓢箪がとうとう金木犀の木のとっぺんまで駆け上がってしまった。これ以上は登っていけないので、途中で枝(蔓)分かれしてこんどは横へ広がりだした。割と小さな花を着けている。実はまだつけていない。草藪のどこかで虫が鳴いている。ちろちろちろちろと鳴いている。風はない。午前6時。肌寒いので長袖を羽織る。僕の一日が始まる。



僕は無愛想だ。僕に会った人は、だから、にっこりができない。にっこりさせるような顔をしていない。そのくせ、にっこりしている人を見るとこころがなごむ。だったら、自分もにっこりしていればよさそうなものを、そうしていない。無愛想である。こちらからはことばもかけない。とりつく島がない。人が近づいて来たら、ぷいと顔を横に向けてそろそろとその場を去ってしまう。嫌なやつだ。



嫌なやつでいいか。よくない。どうすればいい?



愛想良くすることだ。



どうやって?



にこにこしていればいい。



にこにこできないときには?



作り笑いをすればいい。



面倒だなあ。面倒なことはしたくないよ。



これで、けりがつく。僕はそれいじょうは、アドバイスの声にも応じない。すたこらすたこら歩き去ってしまう。



森へ入って山鳩のほうほうほう、ぶほうぶほう、ぽうぽうぽうを聞いている。鳥鳴きをして遊ぶ。ほうほう、ぶほうぶほう、ぽうぽう。これで自分を遊ばせる。山里の集落には、ちょっとした森があちこちにある。隠れるところが森だ。



年を取っていよいよこうだ。醜悪な顔がいよいよ醜悪を深めてくる。



しかし、しかし、しかし、今日はこれを改善しよう。ちょっとだけでいいから、改善しよう。修正を入れよう。
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わたしという一人の悪人のために

2014年06月27日 14時06分50秒 | Weblog
歎異抄にこうある。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」



阿弥陀如来が五劫の間(考えられもしないほどの長い時間をかけて)思惟なさった衆生救済の誓願は、考えてみれば、この悪人である親鸞一人を助けんがためであった。



阿弥陀如来の誓願が空疎であるはずはない。観念であるはずがない。



誓願はひたひたひたと打ち寄せているのである。わたしの足下にひたひたひたと打ち寄せているのである。大海の波になってわたしに打ち寄せているのである。



濡らしているのは弥陀の誓願である。これに濡れているのはわが足である。



わたしがこれで助からなければ阿弥陀如来の誓願は雲散する。



親鸞聖人はこれを「わたしのために」と受け止められたのである。



救済されるべきほかの悪人のためにではなく、わたしという悪人のために、五劫の長きにわたって願を起こされた。そのように真っ直ぐに我が身に受け止められたのだ。



滂沱の落涙であったことであろう。
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たった一人をよろこばすための海

2014年06月27日 13時27分28秒 | Weblog
そんなことがあるものか。そう信じてかかっているが、もしもほんとうにそんなことがありえているのだとしたら、驚きである。

三郎は、海に来ている。白い砂浜に立っている。足下に潮が打ち寄せる声がしている。



「三郎一人のために」

海が青いのは三郎のためである
海が広いのは三郎のためである
海が深いのは三郎のためである

三郎一人のためである
三郎一人をよろこばせるためである
よろこばせてよろこばせて
それでこれまで以上に三郎を高く高くするためである

潮が満ちて引いて膨らんだり萎んで見せたりしているのは
ただ三郎一人を揺さぶって揺さぶって
激しく爆発させんがためである
爆発させて新しい元素でもって三郎を満たすためである

海の砂浜が白いのは三郎のためである
海の砂浜が潮の匂いをさせているのは三郎のためである
海の砂浜へ終日波が打ち寄せているのは三郎のためである

なにからなにまでが三郎のためである
三郎を明るくするためである
三郎をあたたかくして包みこむがためである

海の上に空があるのは三郎のためである
海の上に海鳥が飛んでいるのは三郎のためにである
海の上に風が吹いているのは三郎のためにである

三郎は海に来ている
白い砂浜に立っている
足下に潮が打ち寄せて来て三郎に語りかけている



そんなことがあるものか。三郎はこれを拒否している。海があるのは三郎ひとりのためだとは到底信じることができない。



海が万年億年を費やして三郎に語りかけてきてもまだ三郎はこれを信じることができないでいる。
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人は病によって死ぬのではない

2014年06月27日 12時57分50秒 | Weblog
人は病によって死ぬのではない。病むくらいなことで人は死ねない。人が死ぬのは、そうしてもいい条件がすべて整えられたからである。

すなわち、そうしていいからである。そうすることで変革を遂げられるからである。

爆発を果たして自己のうちにニューワールドの超新星を授けられるがためにである。

三郎は不安がる自分にあれこれを言い聞かせる。

もちろん病も、死ぬことができるための条件のひとつである。これで膠着の駒を一つ前に、次なる明るい方へ進められるのである。

人が死ぬことは、たとえば地球の誕生ほどに重大な事件なので、個人の力の及ぶものではないのである。

もっと大きな大きな歯車と歯車が噛み合って、見事に噛み合って、成立するものである。

したがって、ゆだねるものである。お任せしてはじめて成就するべきものである。

人に生まれてくるときにもこの大きな大きな完全成立の機構にすっぽりゆだねて来たのだ。

わたしの力の及ばないことを心配してもしようがないのである。

生まれて来たときにはじめて産声を上げてよろこんだように、しばらくを期待に胸を膨らませながら、待っていればいいのである。

嬉しいことの前兆であるのに、それをことさらに渋面をして悲しんでなんかいなくてもいいのである。
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人を元気にする検定試験

2014年06月27日 10時06分39秒 | Weblog
人を元気にすることが得意な人がいます。いいなあと思います。とても真似はできません。

人を元気にする検定試験があったら面白いだろうなあと思います。5級合格だと5分間は人を元気にしてやれます。

4級だと30分、3級だと60分、2級になると3時間、1級合格者は6時間です。

6時間元気にしてもらうとたいがいの人はそれで自分の元気モーターが回り始めます。もう大丈夫です。



人の体が元気になる元気コースと、人のこころが元気になる元気コースと、そのほかにもう幾つかのコースがあります。

森を元気にするコースとか川を元気にするコースとかです。

宇宙を元気にするコースというのもあります。これに挑戦すると愉快が1万倍します。

でもスケールが大きいほどいいというわけでもなさそうです。

ちなみに雨蛙は4級検定の合格者です。



ともかくまわりを元気にすることができればいいなあと思います。

それよりなにより、自分なんかまわりの元気を抜かないようにしないといけないなあと自省します。



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