<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

それがそうなるときにはそれに従う

2014年06月28日 09時53分16秒 | Weblog
それをそうせしめている力。わたしをわたしせしめている力。わたしにわたしが生きる世界をあらしめた力。宇宙全体を総動員してわたしにそれを思わせている力。



ここには物理的エネルギーともう一つ、非物理的エネルギーというものが働いているはずだ。



病むときには病むが宜しく候。
死ぬときには死ぬが宜しく候。

これは良寛禅師のことば。



それがそうなるときにはそれに従う。そうしていいときがきているからその時に従う。そうしていい条件がすべて整えられたのだからこれに従う。



これに従わないものはここには存在していない。小鳥が山里に来て鳴いている。向日葵が風に揺れている。大空がわたしの前に来て無際限に広がって、それを見せている。
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非物質化したわたしが見ている夏空

2014年06月28日 09時15分26秒 | Weblog
物質世界に生きていたからものが見えたのだ。物質には形がある。それでそれを見ることができる。見ているのは目である。これも物質である。物質で構成されている。

目はしかし、見たものを超えたものをも見ていることがある。物質で構成されている目でありながら、そこに潜むものをすら見ているときがある。その力もまた物質といっていいのか。

それをそうせしめている力というものをこの頃とくに意識しているようになった。ものごとの前面に出て形を作っているもの=物質を、そうせしめている力があるはずだ。

物質としてそれをわたしのまえに置いている力、それがあったはずだ。その力には意図がある、意思がある。こころがある。そういうふうに思えて来る。そうでなければわたしの目ごときがそれを見ることなどできなかったはずだ。

わたしの目にそれを見させている力。わたしの背後の力。わたしを超えている力。わたしを動かそう動かそうとしている大きな力。それを動かしているさらに大きな、大きな大きな力。それがわたしのところへ届いているので、わたしの目がそれをそう見ているのだ。その奥のものをも見ようとしているのだ。



わたしがものを見ることができるのは、わたしに物質の目がある間である。



ほんとうにそうか。ほんとうにそうか。



わたしに物質の目がなくなったときには、わたしは青空を見ないのか。見ないでいられるのか。



夏空が海の上に広がっているのを、わたしは見ないのか。広がっているのに、わたしはそれを見ることができないのか。



広がっていないのであれば、もはや見ることもないであろうが、空が青々として海の上に広がっているのに、それを見ないでいられるのか。



夏空が大海(おおうみ)の上に広がっているのは、それをそうせしめている力があるからだ、その力が、わたしを切断することがあるだろうか。わたしを不平等にすることがあるだろうか。ありえない。ありえないとわたしは思う。



わたしは形の目を失ったとしても見るのである。わたしが見なければそれをそうせしめている大きな力が否定されてしまうのだ。



わたしが非物質化したくらいで、大きな大きな力が消失するとはとても思えない。思えない。



物質に頼る以外の手段があるはずだ。物質に依存していた以外の方法があるはずだ。厖大な手段を持ち合わせている宇宙生命にはまだどれだけでもそれに代わる方法、手段があるはずだ。



では、どうやってそれを見るのか、それはいまのわたしにはわからない。わからないが、わたしは、非物質化しても、そこにいて、青々として広がる大海原と夏の空を見ているはずである。そしてやはり、今と同じようににっこりしているはずである。とろとろと飴のように蕩けているはずである。



そしてますます、それをそうせしめている力、わたしをそうせしめている大きな力、物質を物質化せしめた大きな大きなパワーの実在を信じるようになっているはずである。
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じわりじわり嬉しくなって来る

2014年06月28日 08時06分03秒 | Weblog
禅悦食(ぜんねつじき)という食べ物があります。禅は静慮。ニルバーナ。入涅槃。騒ぎがおさまっていて平和なこころ。悦はよろこび。食は食べ物。目を閉じて自分のこころの奥を見つめているとそこに朝の光が差し込んできているので、あたたまったこころがそろりそろりと融け出して来ている。

禅悦食は、よろこびというこころの食べ物。それが食べられる。静かになるとそれが食べられる。口で咀嚼して食べる食べ物のほかにも、ここではいろいろな食べ物が食べられるのだ。目で食べ、耳で食べ、こころで食べ、たましいの深い海でこれを食べる。おいしがるとそれで食べ物になる。

目を瞑る。そこにも青空がある。広がっている。夏の空だ。むくむく入道雲も上がっている。活気があって生き生きしている。そこに居合わせていることが嬉しくなってくる。じわりじわり嬉しくなってくる。そこにそれがある、それを見いだして、よろこびになっている。そこにそれがよろこびとして、ある。
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蝶々の世界に三郎が舞っている

2014年06月28日 07時44分00秒 | Weblog
蝶々が来ている。三郎のいる空を舞っている。ひらりひらりして往来している。三郎はこれで泣き出したくなっている。

三郎のいる空に蝶々が舞っていることにどんな意味がこめられているのか。どんな意味もこめられてはいないのかもしれないのに、三郎にはそれでいいらしい。

熱いものが胸にこみ上げてきている。そういう世界を蝶々と共有していられるということが、三郎の胸の薬缶を熱く沸かしているのだ。ゆうらゆうら湯気が上がる。

そういう世界は二度と来ないかもしれない。三郎はやがてここを去って行く。それが辛く悲しいからではない。そこを超脱して、ここにいま現出させている蝶々の世界に、三郎が舞っていられるのが嬉しいのだ。

三郎はひらひらと舞っている。いまはそれだけで熱くなっている。風が少しある。梅雨空は今朝もまだどんよりして厚ぼったい。
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むっつりしている男がこれで蕩(とろ)ける

2014年06月28日 07時23分18秒 | Weblog
ベートーベンのバイオリンソナタ「春」を聞いている。三郎のこころがこれでほぐれていく。ああ、よかった。むっつりしている三郎の気分をほぐしてあげようというのだ。

三郎は音楽が理解できるように高等ではない。ただ、それでとろりとなるだけだ。とろけるだけだ。かたまっているのが、角をなくして、溶けだして来る。だらりとなる。

三郎の赤ん坊がこれで泣き止んだようだ。ああ、よかった。ところで、三郎は幾つになるまで、このむずがる赤ん坊を抱いていなければならないのだろう。
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どういうことだ 声をかけて来る入道雲

2014年06月28日 07時04分23秒 | Weblog
「ごきつぶし」は「縠(ごく)潰し」がなまったものだ。食べるだけで何の役にも立たない者はこうやって嘲りを受ける。縠は五穀米のこと。穀類には虫がつく。虫は、人間が食べる前にこれを潰してしまう。



おまえ、ごきつぶしか。

へ。さようで。

潰すだけで潰しがきかない者だな。

さようで。



このごきつぶしの虫にも、こうやって声をかけてくださる方がおられる。見上げて、きょろきょろして声の主をさがす。夏の空に入道雲がもくもく上がっている。声はそこらあたりから聞こえてくる。入道雲に目がある。引き攣っていて恐そうにしている。

そうまでして、このごきつぶしに声をかけてくださるということは、どういうことだ?
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ごきつぶしのままでありました

2014年06月28日 06時52分30秒 | Weblog
仏像をスケッチしてみた。昨日のお昼。ずいぶん時間をかけて。でも、仏像にはならなかった。似ても似つかぬ。これじゃ、二枚目のタレントの顔だ。にやけている。失敗だ。仏さまにはほど遠い。こっちのこころがそうなっていないからだ。邪気が多いからだ。邪悪だからだ。そんなのじゃ、描けるわけがない。投げた。

おまえ、人間を何年やっているのだ。何年も何年も人間をやっていながら、まだそんなところか。

へ、お恥ずかしいばかりでございます。ごきつぶしのままでありました。
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修正を入れよう 今日こそは

2014年06月28日 06時13分31秒 | Weblog
瓢箪がとうとう金木犀の木のとっぺんまで駆け上がってしまった。これ以上は登っていけないので、途中で枝(蔓)分かれしてこんどは横へ広がりだした。割と小さな花を着けている。実はまだつけていない。草藪のどこかで虫が鳴いている。ちろちろちろちろと鳴いている。風はない。午前6時。肌寒いので長袖を羽織る。僕の一日が始まる。



僕は無愛想だ。僕に会った人は、だから、にっこりができない。にっこりさせるような顔をしていない。そのくせ、にっこりしている人を見るとこころがなごむ。だったら、自分もにっこりしていればよさそうなものを、そうしていない。無愛想である。こちらからはことばもかけない。とりつく島がない。人が近づいて来たら、ぷいと顔を横に向けてそろそろとその場を去ってしまう。嫌なやつだ。



嫌なやつでいいか。よくない。どうすればいい?



愛想良くすることだ。



どうやって?



にこにこしていればいい。



にこにこできないときには?



作り笑いをすればいい。



面倒だなあ。面倒なことはしたくないよ。



これで、けりがつく。僕はそれいじょうは、アドバイスの声にも応じない。すたこらすたこら歩き去ってしまう。



森へ入って山鳩のほうほうほう、ぶほうぶほう、ぽうぽうぽうを聞いている。鳥鳴きをして遊ぶ。ほうほう、ぶほうぶほう、ぽうぽう。これで自分を遊ばせる。山里の集落には、ちょっとした森があちこちにある。隠れるところが森だ。



年を取っていよいよこうだ。醜悪な顔がいよいよ醜悪を深めてくる。



しかし、しかし、しかし、今日はこれを改善しよう。ちょっとだけでいいから、改善しよう。修正を入れよう。
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