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夕べに死すとも可なり

2014年06月20日 16時22分30秒 | Weblog
朝顔は一日花である。朝開いて夕べには閉じてしまう。

朝に道を聞いてしまうからである。それで「夕べに死すとも可なり」になってしまう。

仏教ではこれを解脱としている。「夕べに死すとも可なり」に到達して、渡ってしまうのだ。

渡るのは、旅をしているからである。こちらの岸に愛想をつかしたからではない。

ひとつの回遊の輪を飛び越えてしまって、次の周回に入るのだ。

次の周遊があることをわきまえているから、潔いのである。未来永劫のいのちの旅を熟知しているから迷いがないのである。

潔い者にしか、朝に道を聞くことが許されていないかのように、潔いのだ。



潔くなれないのは、自分のこの先に「たしかな未来」が開かれていないという虚妄に堕ちているからである。



三郎は、未だ以て、たしかな未来を楽しんでいない。

朝顔のようには行かない。一日花ではない。



しかし、長く咲いていることができる。その点では、一生花である。

しかし、その最後には夕べが来る。夕べに死すとも可なりのその夕べが来る。



だから、その夕べが来たときには潔くしていたいと思っている。「可なり」とはすんなり受け入れてしまうことである。

その段階に来たらその段階が来ていることをよしとしてすんなり受け入れてしまうと、肩の力を抜いたときのように爽快になれるのだ。



朝顔が道を聞く。朝日が射してその日が中天に上がるよりも早く、道を聞くのだ。



三郎は朝顔にその道を聞く方法を尋ねてみたいと思って、朝ごとにそこへ行って眺めているが、朝顔はそれを極秘としている。

極秘として容易に明かしてくれないのである。そこは自己啓発によるしかないといって拒否をしているかのようだ。



だが、たしかに道を聞くことができるのだ。両手をはっしと叩いて、分かったと叫ぶことができるのだ。

そのために花を咲かせているのだ。

花を咲かせたことが無になることはない。これは必然なのだ。

「夕べに死すともかなり」とは必要十分条件の間柄である。



三郎は、たしかに道を聞くことができるということを毎朝毎朝指し示されている。それが三郎をよろこばせているようだ。
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