<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

動かないと決めつけたら大間違いだ

2014年06月13日 09時35分13秒 | Weblog
ようございますよ。どういうふうに思っていてもようございますよ。



それこそ思いのままですからね。ただしこれは方寸のこころの中だけのことでございますよ。



即現実が伴っていることではない。といっても何をもって現実とするかは決まってはいないのですがね。



思いのままにならないのが苦でありましたが、これを超えて出てしまいます。



思いのままになれる世界がある。わたしたちの胸の内側の方寸大の、拳(こぶし)大の、こころの世界。



ここではすべてが可能になる。思ったことの全てが可能に帰結する。思いさえすれば容易に実現し、そしてまた解体する。



この方寸のこころは、なんとまあ、広い広い。広い広い。広い広い。



場の広いところに住んでいるのでございますよ、わたしたちは。



わたしは胡蝶。ただし宇宙という胡蝶。わたしひとりで宇宙を席巻する。わたしがひらひらするとあんなにでかい宇宙がひらひらする。わたしが夢を見ると宇宙がそれだけ明るくなる。



どう思ってもいい。狭くしてもいい。広くしてもいい。ゆったりしていてもいい。気息奄々にしていても、もちろんいい。悪くはない。



三郎はこの頃やけに淋しさを訴えているところがある。こころの筋肉やこころの血管が収縮をしているようである。宇宙膨張だけではつまらなかったと見える。一人へ戻って来て自分の臑(すね)毛を撫でている。



臑毛を撫でながら、やっこさん、唯心論を思い出したらしい。すべてはこころの為すわざである、そこへ来て久しぶりに明るさを得ている。



オオヤマレンゲの黄緑の大葉が風を受けてここちよげにしている。木は動かないが、動かないと決めつけたら大間違いだ。やつもこころを持っている。



こころは自由飛翔をする。飛翔の翼をどこまでもどこまでも広げることができる。翼を広げているのであんなふうにここちよげにして風に吹かれていられるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それを思えばそうなる自由

2014年06月13日 09時04分40秒 | Weblog
思えばいいのである。それを思えばいいのである。



思うにはどうすればいいか。



思うには目を瞑ればいいのである。瞑らなくたっていいかもしれないが、瞑った方が思い易くなる。



深々と思う。思いの海底に潜む。



高く高く思う。思いの大空を昇って昇って昇りきる。



わたしは仏陀に成っている。妙音菩薩の仕えている如来になっている。この如来は太陽までの距離くらいの身長である。目が青い。澄み切っている。



人間でいる間は人間にしていなければならないということはない。自由だ。



思うことが自由にさせる。わたしは人間だったり鬼だったり夜叉だったり神々だったり、菩薩だったり明王だったり、仏陀だったりする。



思いの虚空の中で変身を遂げる。変化(へんげ)の主体になる。肉体という囚われをしばらく離れる。



そうだったのか、囚われたままでなくともよかったのか。安堵が来る。



病という捕縛の網から解脱する。さみしさの籠の扉を開くともうそこは広大な虚空である。



思えばいいのである。それを思えばそうなるのである。これを制止し制限する者はいない。



しばらくわたしは光輝く日月燈明如来になっている。そうするとそこへ、それと知った鶯が来てさっそく妙なる音楽の供養をしだした。



花菖蒲が美しい眉を開いてわたしを仰ぎ見ている。わたしが如来として、自然界の法(ダンマ)として、ここにいることが彼女らを元気づけているようだ。



瞑想が解ける。もう一度深い息をする。深い息がおいしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深い湖のよろこびの色

2014年06月13日 08時20分11秒 | Weblog
書いておくといつか読み直すことになるのかもしれない。読み直すのは、死後である。書いておくのは生前である。



記録をすると消えない。水に書いたら水の文字は消えるけれども、書いたという事実は消えない。書いたものはそれがどこに書いたとしても消えないで、記録される。



大空は記憶の脳を持っていて忘れないのだ。誰がいつ何処で何をして過ごしていたかも記憶される。そしてそれは誰が読んでもいいように開放される。



わたしの肉体の目が消滅をしても読めるのである。わたしはそれを読んで懐かしむのだ。懐かしむだけではなく次の行動の指針にもするのだ。もちろん恥じたり悔やんだりもする。



こうしておくと生きたということが無駄にならない。つまりここへ帰ってくる度に何度でも生きることができる。蘇りが起こるのである。わたしはこれを指先でなぞる。復唱する。その度に喜んだり悲しんだりする。



それより何より、美しいものをうつくしがるのだ。風景を美しいと思う。思い直す。見ていたはずなのにその実は見ていなかったということを知る。いい加減な生き方をしていたのだから、こうなったのだ。



人間の美しさを見て感動を覚える。ああ、これほどに美しかったのだと思い知る。早くその時に、つまり生きている内に思い知っていればよかったのだろうが、しかし、間に合う。やっと間に合う。



読みに来る度にこの思いは強くなる。わたしはついに詠嘆する。しみじみと詠嘆する。生きるということはこういうことだったのかと詠嘆する。表面だけを上滑りして生きて来たことを恥じる。



恥じながら、しかし、ここへ来てもう一度記憶を辿ることが許されたことを感謝する。そうだったのか、そんなに美しいところに住んでいたのか、そんなに美しい人たちといっしょだったのかと思う。



そうすると、感謝が深いよろこびの湖の色になる。



透かし百合が咲き出した。赤、白、黄色、橙色、それぞれが清澄に咲いている。美しいあの人がわたしのそばに来て眺めている。わたしはあたたまる。この風景を肉体の目が追っている。肉体の脳に焼き付けておく。



100年たち、1000年が経過するうちに、わたしは何度もこの風景を改めて読み返すことになるだろう。読み返す度に美しい湖の色が深くなる。わたしと湖の二つのよろこびの色が、それぞれに深くなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする