<おでいげ>においでおいで

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化ける 化かす

2015年05月11日 10時34分48秒 | Weblog

化ける。化かす。などというと狐狸の所行のようだが、仏さまもこれをなさるのである。むしろ得意芸である。

お寺に行くと木像を借りて仏に化けておられる。そこへ人が行くと人を仏にしてしまわれる。これが「化かす」である。

化けるも化かすも変化を遂げることである。鬼に化けた人間を、そこで一挙に仏にしてしまわれることがある。これが教化である。教えて化かしてしまわれる。

仏陀は化学の先生である。ただし、カガクではなくバケガクの。いやいやバカシガクの。われわれは化けてしまえばいいのである。化けるとはその気になって振る舞うことだ。信じて行動を起こすことだ。

「あなたがここでわたしに代わって仏として暮らして下さい」というメッセージ電流をキョウレツに放電しておられるのでこれに感電すると、化けるのだ。

化かされたくはない。われわれは用心する。狐憑きにはなりたくない、狸憑きにはなりたくない。幸運に憑かれても、仏憑きなど科学者らしくもない。憑きものなどは嫌だ。嫌だ嫌だというけれど、これが凡庸な凡夫の一番手っ取り早い方法でもある。よほど学問研究に明け暮れた篤学の博士でないと、自力で仏に化けるのは難しい。

仏陀を狐狸と同様に扱うなどは危険な思想である。仏教学の権威者に百叩きされてしまいそうだ。化かされたくなかったら、自分で修行をして、仏陀と等しい悟りを開いて成仏することだ。

でも変化(へんげ)は楽ちんである。第一、長い年月を要しない。春になれば、空だって霞の空に変化しているではないか。冬の間の枯れ木だって、春が来るごとに真新しい新緑をつけて、自由自在の変化(へんげ)身を楽しんで居るではないか。

「わたしゃあなた(阿弥陀仏)に拝まれて、仏になってくれよと拝まれて・・・」それで化かされて仏に成って、仏の念仏を唱えているのは真宗篤信の妙好人たちであった。

仏に化けたらどうなるか。嬉しさがわが胸に湖を造ります。これが忝くて忝くて、両目から涙がこぼれます。仏さまと同待遇をされて、小さなわが瞳に、この世の物とも思われぬ、美しい五月の、真っ赤な芥子の花が映ります。

一日駅長、一日郵便局長というのがある。幼稚園や小学校には体験入学というのもある。一日一時間の期限付きお化けでもいいではないか。

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