僕は不感症か。
とある新聞の「短歌月評」蘭を読んだ。炬燵に入って一人で。合計で秀歌16首が載せてあった。何々賞何々結社賞などの受賞の作品群だったが、まるで全然感じなかった。わたしのこころは、些細なさざ波すらも起こさなかった。ときのニュースを絡めたような内容の作品が目立った。そんな醒めた印象を受けた。<そんなの、散文じゃん>と思った。此処に長居する気持ちすら起きなかった。
僕が不感症だったというだけなのだが。僕が、鑑賞力無能病を病んでいるからに違いない。観賞しないというのは、横柄な態度である。
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あらためて思う。わたしにとっての文学とは? そりゃ、一人のわたしを癒してくれるものでなければならない。わたしを元気づけてくれるものでなければならない。わたしを面白がらせ、愉快がらせ、楽しませ、発奮させてくれるものでなければならない。
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今日の新聞の秀歌は、わたしとの共通性がなかったということか。いや、わたしが彼ら受賞者たちと共通性がなかったということか。そうかもしれない。わたしは選者でもない、批評家でもない。なんでもない。でも、読んだのである。何かを得たかったのである。徒労に終わった。
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新聞が騒ぐほどの秀歌なのである。専門家が誉め讃えている作品群である。大概の読者諸氏は感服しただろうに、それに、わたしは少しも感動をしなかったのである。わたしが異常なほどに傲慢なのかもしれない。ともあれわたしは興味をそこから引き出し得なかったのである。その辺りのすれ違い、不協和がどうして起こるのかを考えさせられた。