すべては望んでいた通りだったのである。右往左往することはあったが、それでも最終ではすべてがさぶろうが望んでいた通りだったのである。そしてそれが奇しくもブッダが望まれた通りだったのである。逃げても逃げても。道を外れても。行方知らずになっても。ここに戻って来ていたのである。これまでがそうだったので、これからもそうなるであろう。それを思って、安堵にたどり着いている。そんなこんなを考えて、今日の春の日を、顔を空に映して嬉しくてならないのである。すべてが望んでいた通りだったのである。
外は寒い。ときおり突風が吹いて来て寒い。これでは風邪を引く。午後からの外仕事を切り上げて家の中に戻って来た。
午前中はひとしきり花壇の草取りをして楽しんだ。あちこちからユリが芽立っている。それを折らないように切らないように注意をしていなければならなかった。それでも2、3度、「しまった、やっちゃった」「ごめんごめん」を呟いた。この時期の草取りは要注意だ。右手に握っている小型の鍬で芽吹きを切ってしまう恐れがある。それからプランターで3年がかりで育ててきた鹿の子ユリの青年たちを掘り上げて、深めの鉢に移し替える作業をした。石灰と油粕を施肥しながら。茎の先に一輪が咲きほどが好みだ。6月には花が咲き始める。それまでずっと見回りして育ち具合を観賞する。これが楽しくてならない。飽きが来そうなはずだが、来ない。ほぼ60年間近くもこの楽しみを続けている。育てた鹿の子ユリももう数知れない。
炬燵に入ってあたたまってイズミ屋の珈琲を飲んでいる。一切れの長崎カステラもおいしい。
わざとわざと、いいことばかりを考えてにたりにたりしているさぶろう。ちょっと気持ちが悪い。こうであったらどんなにいいだろうかということを夢想して、それを空想実現して赤ちゃんの涎になっている。口の端からとろんとろんと涎の玉が垂れている。気持ちの悪いさぶろう。齢71にして幸福の絶頂に辿り着いているのだ。勝手気ままな自由人さぶろう。春の光の中に居てひとり遊び。最高最上最適な空想遊び。さて今度はどんないいことを思いつこうか。宝船が我が家の港を目指してきて次々に宝を下ろして行く。物質的な宝に加えて精神的な宝までも玄関先にどさりどさりと積まれる。さぶろうの胸の宝蔵は豊かだ。春になっていよいよ豊かさの度合いを加えて行く。菜の花には菜の花の甘い匂い。沈丁花は奥底の性を擽る匂い。青空は青空の涅槃の匂い。怠惰な霞は怠惰な匂い。溢れて来るにやりにやり。にたりにたり。涎がとろりとろり。気持ちが悪いと何度言って諫めても、止まらない。
やや寒いけどいい天気。光に恵まれている。だったら、もう家の中にはいられない。シャガの花も垣根に咲き出し、お出でお出でをしているし。椅子を出して座りまずは日向ぼっこをするのもいい。それからおもむろに草取りにかかる。青年鹿の子ユリを独り立ちさせて鉢に移す。たくさんだからすぐには終わらない。それに飽いたら今度はサイクリングだ。いつものように今日もひとり遊びをする。(昨日走りすぎたらしくて脚の膝あたりが痛んでいるが) いまはYouTubeでバイオリンの曲を聴いて日向の飴棒のようにうっとりしている。