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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

もう種子島

2016年03月06日 17時06分41秒 | Weblog

種子島に着いた。12時20分、新鳥栖で新幹線に乗って、鹿児島に13時42分に着いた。鹿児島の港から15時00分発の高速船に乗る。16時35分西之表港に接岸した。早い早い。待望の南の海と島を見た。

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ほにょほにょする癖

2016年03月06日 09時48分51秒 | Weblog

春の鳥な鳴きそ鳴きそ汝(な)が鳴けば外(と)の面(も)の草に日の入る夕べ    

北原白秋

上の句では、「春の鳥よ鳴いてくれるな」と懇願している。下の句ではこれが、「春の鳥が鳴き出すと草の野原に日が翳って来て一挙に夕方になってしまうではないか」と辨じている。春の鳥が鳴くとどうして日が傾いていってしまうのか、ちょっと解せない。麗らかな春が来ている。そこへ小鳥たちが来て遊んでいる。その場の幸福が小鳥たちによって吸い取られていって、それで一挙に日までもが沈んでいってしまう。だから、小鳥たちよ騒がしくしてくれるな、鳴き叫んでくれるな。そういうふうに懇願するのだが、小鳥たちは聞き入れてくれない。やはり麗らかな春を満喫して鳴いて楽しんでいるきりである。白秋がこの野原に来ている。彼は春の憂愁にむせんであどけない顔をしている。

これはさぶろうが高校時代から愛唱している作品だ。どうしてだか分からないが、この歌を歌うとほにょほにょとなる。これはさぶろうのほにょほにょ癖だから説明が付かない。

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おれは強いぞという暴力が無用になった人間世界

2016年03月06日 09時36分03秒 | Weblog

威嚇するな。脅すな。強がるな。恐い顔をするな。でも、動物はこれをする。これをしないと反対に喰われてしまう。食い殺されてしまう。で、毛を逆立てて歯を剥いて近寄る敵を威嚇する。

人間もときどきこの種の動物になる。人を威嚇する。脅す。恐い顔をする。歯を剥く。毛を逆立てる。鬼の顔をして「おれは強いぞ」を示す。暴力を振り回す。相手もまた動物である、敵であると思い込んでいるので、そういうふうに攻撃的になってしまうのだ。

人間に戻ってみると、そんなことをしないでもよかったと言うことが分かる。互いに人間だったということが理解できると安心をして、もう威嚇はしなくなる。おだやかな顔になる。言い争いや暴力を振るわないでもよいということが分かってくる。

穏やかな顔をしていたら相手も穏やかな顔になる。落ち着いた目をしていれば相手も落ち着いた目を返してくる。安心した表情をしていれば相手も安心した表情をして暮らし始める。そういう人間社会でありたい。

 

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己の恐怖心を捨てることが大菩提心の受容である

2016年03月06日 09時18分46秒 | Weblog

願力不思議の信心は/大菩提心なりければ/天地に満てる悪鬼神/みなことごとくおそるなり        親鸞聖人著述「現世(げんぜ)利益(りやく)和讃」より

「願力不思議」は阿弥陀如来の誓願の願力である。摩訶不思議だからそう呼ぶ。衆生救済が誓願されている。何が何でもさぶろうを救うと48ヶ条に亘って誓ってある。これは阿弥陀如来の菩提心から起こされたものである。間違いはない。狂いはない。そこで悪鬼や悪神どもが天地にうようよいても、さぶろうに手を出すことは出来ないで、みなことごとく退散して行ってしまう。悪鬼も悪神も阿弥陀如来の大菩提心に刃向かうことは出来ないのだ。恐がらせることを得意としている彼らが恐がって逃げ惑っている。そういう和讃だ。分かり易くていい。悪鬼も悪神もおのれの恐怖心が見るものである。己に恐怖心が起きていないときにはそれらは存在していない。信心は阿弥陀如来から廻向されてくるので、そのままそれが大菩提心になっている。

己の恐怖心を捨てることがそのまま阿弥陀如来の信心を忝くすることである。ここが悪鬼や悪神の住処ではなく、阿弥陀仏大菩提心の発露する仏国土、お浄土であるということに安心を覚えていればいいのである。

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威張らないところ落ち着いたところが好きだ

2016年03月06日 09時08分27秒 | Weblog

一段高くなっているところを「どんだ」と呼んでいる。このドンダに山椿の木が距離を置いて3株ある。どれも4~5mくらいはある。ここにいま椿の花が咲いている。真っ赤だ。わっと全開するのではなく、慎ましやかに筒型に開いている。それが実に素朴だ。静かだ。落ち着いている。中型の山鳥が来て枝を揺らしている。花蜜を吸っているのだろう。鳴き声はしない。死んだ弟が好きだった。よくここへ来て数本の枝を手折って持ち帰っていた。絵にでも描くのだろう。さぶろうも好きである。素朴さが好きである。威張らないところ落ち着きのあるところが好きである。小さい頃は小鳥になって花蜜を吸ったこともあった。花蘂の黄色い色が唇に付着した。いまはもうこれはやらない。近くへ来て眺めているきりである。

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進歩向上を促されている

2016年03月06日 08時51分24秒 | Weblog

恐い夢を見た。恐い夢だから恐がった。恐がるとますます恐い夢を見る。恐い夢に追い立てられてしまう。恐い夢はいじめっ子のようだ。虐めるのが快感なのかもしれない。

殺される夢が多い。殺す夢もある。ともかく窮地に陥れられてしまう。いわゆる悪夢というやつだ。地獄にまで追い立てられる。切って切り刻まれる。悲鳴を上げる。どうしてこんなことになるのか分からない。まだ真夜中だ。目が覚めてほっとする。夢であってよかったと胸を撫で下ろす。目を瞑るとまた悪夢の続きになる。いい鴨にされている。またぞろ怯える。翻弄されて、ひいひい恐がる。まるで無力だ。赤子なみだ。

どうすればいいか。悪夢のいいようにされてたまるか、と思う。夢の戯作者はもちろん己である。己の恐怖心である。恐がるので、面白がって恐がされるのだ。この恐怖心を除去する以外に対策はない。逃げ腰にならないことだ。立ち向かうことだ。来るなら来いと迎え撃つことだ。ともかく恐怖心を乗り越えなくてはならない。

さぶろうはこんなに小心者だったのか、と我ながらあきれかえる。いつも怯える。さんざん恐がる。方々へ逃げ回る。うんざりだ。恐怖心の克服をしておかねばならない。そうでなければいつまでたっても、悪夢のいいようにされてしまう。腹を決める。さあ掛かってこい。逃げないぞ。鬼の金棒を振り上げる。もういい加減ここを脱出して次の地点へ向かおう。進歩向上を促されているのだ。

 

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そろそろ雨が降り出してきそう

2016年03月06日 08時37分13秒 | Weblog

そろそろ雨になりそうである。まだいまのところは保てている。菜の花の首がすんすん伸びて行く。どれもこれもというのではないが。どうしてこんなに長い首をしているんだろう。はてな、である。雨になれば、昨日どっさり有機肥料を施肥しておいたのでこれが土に染み入るだろう。本来は耕しておくべきだったが、していない。次善だが、これで土が肥えることになりそうだ。蕗の畑にも一面にうっすら撒いたから、新しい芽が出て太ってくれるだろう。昨日は22度cにまで気温が跳ね上がった。今日はどうなるだろう。

さぶろうは7時半に朝ご飯をした。味噌汁とご飯と白菜の胡麻和え。ご飯はお茶碗にやっと半分という所の軽めにした。味噌汁にはやわらかい蕪大根がいれてあった。

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