自力で到彼岸できる人と自力の到彼岸に自信が持てずにいる人がいる。堂々としている人の横で身を隠すようにしてうなだれている人がいる。
前者は仏道の修行を積んでいるので仏と向かい合っても顔を背けるようなことはしなくてもいいが、後者はそうではない。仏と向かい合うにも気が引ける。どんな戒も守ってきてはいない。ぐうたらに過ごして来ているので、前進する脚力も筋力も身についていない。まあ、言ってみれば落伍者、落第生だ。優等生と落第生がいるのはこの世の習いだ。
此の岸(この世)から彼の岸(あの世)の間に横たわっている川があるとする。肉体の死を迎えた者はすべて、此の岸を離れなければならない。
川は深い。しっかり泳げる人と溺れそうな人とがいる。溺れそうな人はボートに引き上げてやるしかない。オールを漕げば向こう岸まで着ける。泳いで渡れる能力を持つ者にはボートはいらない。急ぐことはない。ゆっくりでいいのだから。オールを漕ぐ力もない人は、持っている人のボートに相乗りさせてもらえばいい。仏の救済のシステムはあらゆるケースにも対応しているのだから。
こうしてすべての死者がこの川を渡り終える。有能な者も無能な者も渡り終える。己を悪人として過ごして来た者も、己に善を積み上げる努力をしてきた者も、平等な結果を得る。仏の救済は無条件だから。どちらかを優先するということもない。
仏の救済の第一次実行はここで閉じることになるが、旅はそこからも続いている。次には第二次の救済事業が働いてくることになる。これは第100次ほどもあるからゆっくりゆっくりでいい。本当のことを言うと、此の岸を離れる前段階まで、つまり肉体の生き死にをもってわが生き死にとしてきた<人生>でも仏の救済事業は第100次ほどもあったのだ。
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あらゆる場合を想定して、救済のシステムが完了しているということが、仏の救済なのだ。救済などと言うと落伍者だけの救済に聞こえてくるがそうではない。誰もが進んでいけるすべての行程を準備してもらっているということだから、これは力強くエネルギッシュなのだ。わたしたちは一人残らずこの行程を歩き続けて仏陀に至り着くのである。そこまでの全肯定が用意されているということが、仏の慈悲の実践の活動事業なのだ。
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これだけの救済事業が完備しているので、わたしたちはこの世に居るときにも生老病死がかなうのである。病んでもいいのである。老いてもいいのである。死んでもいいのである。災難に遭ってもいいのである。悲しみや苦しみに遭ってもいいのである。不安や心配や恐怖を嘗めてもいいのである。そこから立ち上がっていく具体的救済策が次へ次へ見事なまでに配備されているからである。