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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

弟の入院

2015年06月12日 17時35分54秒 | Weblog

夕暮れである。弟は今日入院した。病室の窓にも夕暮れが忍び寄っているだろう。月曜日に手術を受けるので、今日から三日間はその準備に充てられるだろう。昨日、弟が来て我が家の仏壇にお参りした。浄土の父母は、我が子の無事を祈ってくれたはずである。困難を乗り越える力を授けてくれたはずである。

弟は水彩画を三枚描いて来た。一枚は昔風の田植えの図で、水田に女性たちが列を作って苗を植えていた。一枚は菩薩の絵だった。もう一枚は奈良の興福寺・東大寺に遊んだときの鹿の絵だった。素人離れをしていた。これも仏壇に供えて浄土の先祖に見てもらった。回復するまで病室のベッドでこの水彩画を描けるようであってほしいと思った。

浄土教は祈りをしない。祈りをしなければ聞き届けられないのではないからである。ずべてを熟知する阿弥陀仏は、祈りによって現世の遣り取りをするのではない。仏の慈悲、救済は、祈りが介在しなくとも、行き届いているはずである。それでも祈りたい。祈らずとも救済が約束されているのだが、それでも弟の無事を祈りたい。全治を祈りたい。

 

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まろび伏す天邪鬼

2015年06月12日 12時09分46秒 | Weblog

びしゃもん の おもき かかと に まろび ふす おに の もだえ も ちとせ へ に ける    会津八一 「三月堂にて」の添え書きがある。

此処では鬼が主人公になっている。この鬼は天邪鬼(あまのじゃく)。踏み従えているのは毘沙門天だ。彼はもう1000年もここにいて懲らしめられている。このお暗い三月堂のお堂で。来る人見る人に、おのれの無様を呈して、戒めを教示している。「己の如くに邪心を起こしてあたら無常の人の世を渡ってはならぬぞ」と。彼は重たい踵に踏み固められてもだえもだえに苦しんでみせる。天邪鬼も仏教界の俳優である。脇役だが、立派な役目を負っている。

毘沙門天:

四天王・十二天の一。須弥山の中腹で北方をねめ回している。夜叉や羅刹の頭目となって北方を守護している。甲冑を着けた武将の姿で忿怒の形相をしている。片手に宝塔、もう片方に宝棒を捧げているから、財宝を守る役目だろう。別名多聞天。梵語ではクベーラ。七福神の一。

財宝を持つ者の守護をするのが毘沙門天。だから、必然的に、財宝を持たない者は守護の対象ならない。虐げられるばかりだ。虐げられるばかりの無力者は、ではどうすればいいか。覆すしかない。財宝を持てる者の絶対天下をひっくり返すしかない。これを考えて敗者復活戦を実行に移しているのが天邪鬼だろう。現代資本主義とこれに対立する前代共産主義みたいだ。作者会津八一は、持てる者優位のこの社会のカラクリにも、憐れを催しているのかもしれない。楯突く勢力といえど、もういい加減、解放してやったらどうかと。これは穿った見方、それこそアマノジャク的発想なのだが。

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調和している

2015年06月12日 12時04分34秒 | Weblog

もうお昼時。さやさやさやと風が草の葉に渡ってきている。わが庭の草原の、草が一様に右へ流れ左に戦いでいる。この従順がとっても美しく見える。反逆を試みているものはいない。調和しているといってもいいのかもしれない。日差しがことのほか明るい。

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わが魚走る

2015年06月12日 11時43分11秒 | Weblog

澄みていよ なほ澄みていよ はつなつの空の底辺(そこべ)をわがうを走る   薬王華蔵

空の底とはどこにあるか。空の湖の底は果てしもなき高みにある。それでしっかり澄んでいなくては、そこを泳ぐわたしのうを(魚)の姿が見通せない。はつなつが来ている。今日は上天気だ。空が水色をして澄み渡っている。わがたましいの魚が溌剌として泳いでいる。そこはもう天界の国の境である。

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すべてのケースの救済システムの完了

2015年06月12日 10時33分29秒 | Weblog

自力で到彼岸できる人と自力の到彼岸に自信が持てずにいる人がいる。堂々としている人の横で身を隠すようにしてうなだれている人がいる。

前者は仏道の修行を積んでいるので仏と向かい合っても顔を背けるようなことはしなくてもいいが、後者はそうではない。仏と向かい合うにも気が引ける。どんな戒も守ってきてはいない。ぐうたらに過ごして来ているので、前進する脚力も筋力も身についていない。まあ、言ってみれば落伍者、落第生だ。優等生と落第生がいるのはこの世の習いだ。

此の岸(この世)から彼の岸(あの世)の間に横たわっている川があるとする。肉体の死を迎えた者はすべて、此の岸を離れなければならない。

川は深い。しっかり泳げる人と溺れそうな人とがいる。溺れそうな人はボートに引き上げてやるしかない。オールを漕げば向こう岸まで着ける。泳いで渡れる能力を持つ者にはボートはいらない。急ぐことはない。ゆっくりでいいのだから。オールを漕ぐ力もない人は、持っている人のボートに相乗りさせてもらえばいい。仏の救済のシステムはあらゆるケースにも対応しているのだから。

こうしてすべての死者がこの川を渡り終える。有能な者も無能な者も渡り終える。己を悪人として過ごして来た者も、己に善を積み上げる努力をしてきた者も、平等な結果を得る。仏の救済は無条件だから。どちらかを優先するということもない。

仏の救済の第一次実行はここで閉じることになるが、旅はそこからも続いている。次には第二次の救済事業が働いてくることになる。これは第100次ほどもあるからゆっくりゆっくりでいい。本当のことを言うと、此の岸を離れる前段階まで、つまり肉体の生き死にをもってわが生き死にとしてきた<人生>でも仏の救済事業は第100次ほどもあったのだ。

あらゆる場合を想定して、救済のシステムが完了しているということが、仏の救済なのだ。救済などと言うと落伍者だけの救済に聞こえてくるがそうではない。誰もが進んでいけるすべての行程を準備してもらっているということだから、これは力強くエネルギッシュなのだ。わたしたちは一人残らずこの行程を歩き続けて仏陀に至り着くのである。そこまでの全肯定が用意されているということが、仏の慈悲の実践の活動事業なのだ。

これだけの救済事業が完備しているので、わたしたちはこの世に居るときにも生老病死がかなうのである。病んでもいいのである。老いてもいいのである。死んでもいいのである。災難に遭ってもいいのである。悲しみや苦しみに遭ってもいいのである。不安や心配や恐怖を嘗めてもいいのである。そこから立ち上がっていく具体的救済策が次へ次へ見事なまでに配備されているからである。

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ナスの初生り

2015年06月12日 10時27分38秒 | Weblog

家族の者が北の畑からナスをもいできた。今年の初生りだ。1個。そうでかくない。初生りは小さくして摘んだ方がいいらしい。さっそく今朝の味噌汁の具になっていた。味噌汁がちょっぴりナスの肌色に染まっていた。

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友人の夢を見た

2015年06月12日 09時55分32秒 | Weblog

一転した。お天気上々。雨の六月が爽やかな五月に転じている。日差しは明るいが気温は上がらずひんやりとしている。

腰痛悪化で昨日はまる一日家の中に閉じ籠もって過ごした。外へは出なかった。お布団一枚をわが住居とした。腰の左側が鬱屈してぎこちない。半座でもするとそこへ体重がかかって痛み出す。読書は進むが退屈この上ない。

朝方、20台くらいの若い頃の、友人の夢を見た。にこにこして我が家へやって来た。彼は人間の出来が上等で常日頃そうしている。嫌な顔をしたためしがない。ケチをつけたって反発が来ない。感情の波が入り江のようにおだやかなのだ。板張りの台所の座りテーブルのところへ来てわたしの隣に座った。わたしの読んでいる本を借りて読んでみたが、ちっとも分からなかったと言った。彼はクリスチャンだったから、仏教に関する本は読んでいなかったのであろう。すまなさそうにして返却した。それだけの夢だったが、彼は定年間近に病を得てなくなったから、行き来が途絶えてもうかれこれ10年近くなっている。それが今朝方ひょっこり現れた。またいつものように一緒に遊びたくなったんだろう。神の国ヘブンからここへ来るにはどんな交通手段を用いたのか。僕はそこで目が覚めたから、彼も夢から撤退して行ったはずだ。すぐに乗り合いバス(それともジェット機?)は来ただろうか。目覚めた後で、しかし、僕は彼に会えたことで清々しい感覚を味わうことができた。彼の初々しい、若々しい表情がそうさせたのだろう。神の国ヘブンでの現在の彼の過ごし方が彷彿として来るようだった。

そうか、僕の腰痛の見舞いにやって来たのかも知れない。

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