夕暮れである。弟は今日入院した。病室の窓にも夕暮れが忍び寄っているだろう。月曜日に手術を受けるので、今日から三日間はその準備に充てられるだろう。昨日、弟が来て我が家の仏壇にお参りした。浄土の父母は、我が子の無事を祈ってくれたはずである。困難を乗り越える力を授けてくれたはずである。
弟は水彩画を三枚描いて来た。一枚は昔風の田植えの図で、水田に女性たちが列を作って苗を植えていた。一枚は菩薩の絵だった。もう一枚は奈良の興福寺・東大寺に遊んだときの鹿の絵だった。素人離れをしていた。これも仏壇に供えて浄土の先祖に見てもらった。回復するまで病室のベッドでこの水彩画を描けるようであってほしいと思った。
浄土教は祈りをしない。祈りをしなければ聞き届けられないのではないからである。ずべてを熟知する阿弥陀仏は、祈りによって現世の遣り取りをするのではない。仏の慈悲、救済は、祈りが介在しなくとも、行き届いているはずである。それでも祈りたい。祈らずとも救済が約束されているのだが、それでも弟の無事を祈りたい。全治を祈りたい。
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