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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

幸福はこころの升では量れない

2015年06月18日 16時11分42秒 | Weblog

受持法華名者(じゅじほっっけみょうしゃ)福不可量(ふくふかりょう)。  日蓮宗の「除病祈祷文」より

法華経の名を受持する者ならば、福は量(はか)るべからざるなり。

法華経を信じてこれを踏み行う者であれば、身に受ける幸福はこころの升で量ることなどができないほである。

もろもろの苦難を受けることができる者は幸福者である。この中にあっても幸福を見いだせるからである。彼は仏に信頼されて、こころの升で量ることができないほどの大量の幸福を受けている者だからである。

法華経の信者が病を得て苦しんでいる。重篤である。彼はどうしてもこの現実の中に光を見いださねばならない瀬戸際に立っている。仏の光明の明るさを身を以て知るという行に打ち込んで数日が経った。空の一点で明けの明星が輝きだした。彼はこの明るさの中に我が身を放ってみた。生きているうちに、大きな大きな転機が訪れて来ていた。まさしく福不可量だった。彼はにんげんの一生のクライマックスを得たのだった。

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あなたが仏であるならばどう答えますか

2015年06月18日 15時01分43秒 | Weblog

定難を変じ転じて、除病(じょびょう)延寿(えんじゅ)離苦(りく)得楽(とくらく)と守護し給え。令百由旬内(りょうひゃくゆじゅんない)無諸衰患(むしょすいげん)。受持法華名者(じゅじほっっけみょうしゃ)福不可量(ふくふかりょう)。諸余怨敵(しょよおんてき)皆悉(かいしつ)摧滅(さいめつ)、得聞是経(とくもんぜきょう)病即消滅(びょうそくしょうめつ)不老不死。   日蓮宗「除病祈祷文」より

病む者がいる。苦しむ者がいる。悲しむ者がいる。衰えていく者がいる。弱り果てて行く者がいる。恨んでいる者がいる。敵を作っている者がいる。戦っている者がいる。老いる者がいる。死ぬ者がいる。

病まずにいたいが病んでいる。苦しまずにいたいが苦しんでいる。悲しまずにいたいが悲しんでいる。衰えずにいたいが衰えている。弱り果てずにいたいが、弱り果ててしまっている。

恨まずにすむものなら恨まずにいたいが、恨んでいる。敵を作って戦いたくはないが、敵を作って戦っている。

老いずにすむものなら老いずにいたいが、老いている。死なずにすむものなら死なずにいたいが、死のうとしている。

これが現実の世の中であり、われわれはすべてこの現実の世の中にいて暮らしている。

仏はこの人間の現実をどう見ているか。見ていないわけはない。見捨ててしまうのか。守護の手を差し伸べないか。これを逃れさせる方法はないか。逃れていく方便はないか。これを立てるのは仏意に背くのか。

日蓮宗にあからさまな祈祷文がある。それがこれだ。さぶろうはある物語を思って見た。

1,運命として定まっている苦難を、変転させてください。

2,わたしを守ってください。

3,病を除いてください。

4,寿命を延ばしてください。

5,苦しみから離れさせてください。

6,楽しみを見出させてください。

7,わたしのまわりに衰えや患いを置かないでください。

8,怨敵を作らずにいられるようにしてください。

9,敵が攻めてくるようなことがあればこれを摧滅してください。

10,老いることがないようにしてください。

11,死ぬことがないようにしてください。

12,計り知れないほどの幸福をお与えください。

わたしは法華経を信じこれを受持して日々を暮らしています。どうかわたしの苦しみをやわらげてください。法華経の信者が祈っている。彼はどん底の暮らしをしている。額をそのどん底につけて、嗚咽を漏らしながら祈っている。

信者の祈りは間違っているだろうか? あまりにも我が儘が過ぎているだろうか? 宗教をはき違えている行為だろうか?

それに宗教はどう答えるのだろうか? 仏は彼をどうお救いなさるのだろうか?

「あなたが仏ならあなたにどう答えますか?」 祈りを受けておられた仏さまは、しばらくして、この法華経の信者にこう投げかけられた。彼はこの祈りを続けながらこの答を探した。聞いてもらったということが彼を少し落ち着かせていた。

仏教はわたしが仏に成って救われていく道でもある。わたしが仏であればわたしをどう救って行くか。わたしを仏にするという仏の真意はどこにあるのか。

* 

彼はすべての苦難を受ける決心をした。それが法華経の信者が進むべき道程であれば、この苦難の道を歩んでいこうと決心をした。長い長い祈りであった。長い夜が明けて朝になっていた。見上げると山脈のあちこちに霧が立ち昇っているのが見えた。この男の苦難が去ったわけではなかったが、新しい展開が広がっているように思って、彼は大きな深い息をついた。

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煩悩と悟りの両方を楽しむ

2015年06月18日 14時30分58秒 | Weblog

年がら年中雨の日ばっかりではじめじめしてしまう。年がら年中お天気続きだったら大地はからからに乾いてしまう。降ったり止んだり照ったり翳ったりしていなくちゃならないんだよなあ。洪水も嫌だ、旱魃も困る。極端はいけない。極度は避けたい。全体として調和がとれているのがいい。

幸福だけではからからに乾いてしまうのかもしれない。不幸ばかりだとじめじめになってしまいそうだ。

大金持ちさんはどうだろう。大金持ちだから困っているということはないだろうか。お金の価値がなくなってお金は乾いて干からびてしまっていないか。貧乏な人の処へこれを分けてあげればどっちもこれで潤うということがありそうに思える。

貧乏はどうだろう。貧乏だからよかった、お金が宝に見えてくる、ということもあるのかもしれない。ないかもしれない。不平と不満の水浸しになってじめじめした生活をしているということもあり得る。足るを知ることで充実した暮らしをしている人もいるはずである。

煩悩という雨と悟りという快晴も、もしかしたら、そうかもしれない。降ったり止んだりしてていいのかもしれない。照ったり翳ったりして、煩悩と悟りの両方を楽しめるのかも知れない。

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トマトの実 受難

2015年06月18日 14時08分15秒 | Weblog

雨は降っていないが、日も照っていない。日が照らないとトマトが熟れない。熟れても甘くならない。雨が多いとトマトははち切れて割れてしまう。雨模様の日が続いている。日陰の子のようにほっそりとしてしまったトマトの実、受難。

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仏にしてもらいますだいなあ

2015年06月18日 13時04分44秒 | Weblog

「親さん(阿弥陀仏)が仏にしてやるとおっしゃいますだけに、仏にしてもらいますだいなあ」    妙好人 因幡の源左 語録より

妙好人源左爺さんは物書きはしない。だから、人が聞いて書き残したもののようである。学者ではない。物知りでもない。難しいから文字も書けない。信だけである。だからこの信に威力がある。

お寺のお堂に、仏像を枕にして昼寝をしている。人が見てこれを咎めたが、爺さんはけろりとしたものである。親さんに添い寝している子のようであった。もはや、底が抜けていたのかもしれない。

仏と源左に介在がない。直通している。疑心がない。知者の振る舞いもない。評価も求めていない。頭の中の観念ではない。仏に頼まれた通り、仏そのものに成りきっていれば、それも無用だったことだろう。

どんなものが仏か。知者は詮索をせねばならない。仏に成るとはどういうことか。知者は理解を通さねばならない。だから、仏をまるごと呑み込めない。その前に、靴を履かせて着物を着せ、身なりをよくさせておかねばならない。学者は人の客観を大事にするから、わが主観だけでは恐ろしいのである。

親さん(阿弥陀仏)が誓いを建てて「我が子の源左爺さんを仏にする」と言う。それで十分で、彼はそのままそこで仏になれる。念仏が称えられる。あたたまれる。安心ができる。これが妙好人の得意技である。自力に頼む学者知者、理屈屋にはそれができぬ。

無量寿経に48個の人間救済の誓願が連ねてある。48個列べられてもそれでも、誓願が腑に落ちてこないのである。

「あなたをわたしが助けます。あなたが助からないのなら、わたしは仏にはなりません」

「その証明にあなたに六字の名号を差し上げておきます。お念仏の場がわたしの浄土です」

そう言われてもなおなおその真意が伝わってこないので、70年を生きてもなお、疑心の強いさぶろうは仏の本願功徳にあたたまれないでいるのである。安心が届いてこないのである。受領証が書けないので、報恩感謝からも遠離っているばかりである。

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おいしい隠元豆

2015年06月18日 12時45分16秒 | Weblog

我が家では隠元豆がたくさん獲れています。殆ど毎日摘んでいます。葉っぱを掻き揚げるとそこにぷらりぷらりと莢が垂れています。すぐに笊いっぱいになります。隠元豆にもいろいろな種類があります。蔓なし、蔓あり、平莢、丸莢、赤豆、白豆などなど。その蔓なしを各種買ってきて、プランターや畑に蒔きました。少し長く火にかけねばなりませんが、煮物、揚げ物、酢物、サラダ、吸い物、炒め物、どんな料理にしてもおいしいです。殆ど毎日、だから、食べています。新緑の色が料理を引き立たせてくれます。隠元豆は夏場に強そうです。新しく種を買ってきてまた別の畑に蒔いておけば、これで秋口までは堪能できそうです。

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足の関節の痛風の症状は消えた

2015年06月18日 11時06分28秒 | Weblog

痛風の症状は一回きりで、その後は発症していません。腫れも治まってきています。痛風は足だけに発症するのでしょうか。右手の指の先端の関節がどうも変です。五指とも。ぎこちなくしています。曲げるときにこちこちという音を立てます。そんなに痛いわけではありませんが、固まった感じがします。左手はさほどでもありません。指先の末端神経の症状は糖尿病との関連があるのかもしれません。自己判断ですが。1週間ほど前の血糖値は空腹時で108でした。ヘモグロビンの値は正常値を逸脱しています。体があちこちで故障をします。長年酷使してきたのだから当然かも知れませんが。

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気力が萎(な)えています

2015年06月18日 10時55分51秒 | Weblog

おはようございます。朝ご飯を食べたあと、またぐうぐう朝寝をしていました。体長がいまいち戻って来ません。気力も衰えています。シャキッとしません。なんか、やるぞおっという気になれません。

今朝は気温が下がっています。長袖を着込んでいます。雨は降っていませんが、空はどんよりして鉛色です。風が渡っていて庭の木々が大袈裟に揺れています。地を這っている南瓜類が風に煽られ、寝返りを打たせられています。

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