定難を変じ転じて、除病(じょびょう)延寿(えんじゅ)離苦(りく)得楽(とくらく)と守護し給え。令百由旬内(りょうひゃくゆじゅんない)無諸衰患(むしょすいげん)。受持法華名者(じゅじほっっけみょうしゃ)福不可量(ふくふかりょう)。諸余怨敵(しょよおんてき)皆悉(かいしつ)摧滅(さいめつ)、得聞是経(とくもんぜきょう)病即消滅(びょうそくしょうめつ)不老不死。 日蓮宗「除病祈祷文」より
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病む者がいる。苦しむ者がいる。悲しむ者がいる。衰えていく者がいる。弱り果てて行く者がいる。恨んでいる者がいる。敵を作っている者がいる。戦っている者がいる。老いる者がいる。死ぬ者がいる。
病まずにいたいが病んでいる。苦しまずにいたいが苦しんでいる。悲しまずにいたいが悲しんでいる。衰えずにいたいが衰えている。弱り果てずにいたいが、弱り果ててしまっている。
恨まずにすむものなら恨まずにいたいが、恨んでいる。敵を作って戦いたくはないが、敵を作って戦っている。
老いずにすむものなら老いずにいたいが、老いている。死なずにすむものなら死なずにいたいが、死のうとしている。
これが現実の世の中であり、われわれはすべてこの現実の世の中にいて暮らしている。
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仏はこの人間の現実をどう見ているか。見ていないわけはない。見捨ててしまうのか。守護の手を差し伸べないか。これを逃れさせる方法はないか。逃れていく方便はないか。これを立てるのは仏意に背くのか。
日蓮宗にあからさまな祈祷文がある。それがこれだ。さぶろうはある物語を思って見た。
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1,運命として定まっている苦難を、変転させてください。
2,わたしを守ってください。
3,病を除いてください。
4,寿命を延ばしてください。
5,苦しみから離れさせてください。
6,楽しみを見出させてください。
7,わたしのまわりに衰えや患いを置かないでください。
8,怨敵を作らずにいられるようにしてください。
9,敵が攻めてくるようなことがあればこれを摧滅してください。
10,老いることがないようにしてください。
11,死ぬことがないようにしてください。
12,計り知れないほどの幸福をお与えください。
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わたしは法華経を信じこれを受持して日々を暮らしています。どうかわたしの苦しみをやわらげてください。法華経の信者が祈っている。彼はどん底の暮らしをしている。額をそのどん底につけて、嗚咽を漏らしながら祈っている。
信者の祈りは間違っているだろうか? あまりにも我が儘が過ぎているだろうか? 宗教をはき違えている行為だろうか?
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それに宗教はどう答えるのだろうか? 仏は彼をどうお救いなさるのだろうか?
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「あなたが仏ならあなたにどう答えますか?」 祈りを受けておられた仏さまは、しばらくして、この法華経の信者にこう投げかけられた。彼はこの祈りを続けながらこの答を探した。聞いてもらったということが彼を少し落ち着かせていた。
仏教はわたしが仏に成って救われていく道でもある。わたしが仏であればわたしをどう救って行くか。わたしを仏にするという仏の真意はどこにあるのか。
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彼はすべての苦難を受ける決心をした。それが法華経の信者が進むべき道程であれば、この苦難の道を歩んでいこうと決心をした。長い長い祈りであった。長い夜が明けて朝になっていた。見上げると山脈のあちこちに霧が立ち昇っているのが見えた。この男の苦難が去ったわけではなかったが、新しい展開が広がっているように思って、彼は大きな深い息をついた。