<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

入道雲さん、暑くはありませんか

2014年07月24日 14時50分43秒 | Weblog
外に出て働いてもいないのに、汗をしこたま掻きましたので、これからシャワーにかかります。我が家は井戸水ですから、冷たいです。夏冷たく、冬あたたかいのが井戸水です。

空には入道雲がむくむく湧いています。夏の日をぎらぎら浴びて輝いています。雲さんは暑くはないのですかねえ。

楽しいことを考えます。考えているだけで楽しくなるものを探し出して来ることにします。

山の奥深いところを流れている渓谷へ行きます。谷川に下りて行きます。折りたたみ椅子を広げて座ります。渓流に足を浸します。両岸はジャングルから夏の渡り鳥が鳴いて来ます。それから僕は読書を楽しみます。青空文庫で中島敦の作品を読みます。

頭の中の渓谷ですから、到着するのに3分もかかりません。さあ、もう足下に冷たい水が流れてきました。透き通った川の中には鮠が遊んでいます。娑婆世界の暑さをものともせずに悠然と。
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長々駄弁を弄してごめんなさい

2014年07月24日 14時31分25秒 | Weblog
駄弁を弄すのはいただけませんね。ごめんなさいね。さっき書いた「心田を耕す」のブログはだらだら延びてしまいました。夏の日の安っぽいチョコレートでした。

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帰り着くところはわたしの中の心田だった

2014年07月24日 10時58分23秒 | Weblog
「われは心田(しんでん)を耕す」



お釈迦様がインドの各地を歩いてご説法の旅を続けておられます。とある農村にお入りになられました。農民が農事に勤しんでいます。お釈迦様は農民をねぎらってお声をかけられました。ちょうどお昼時になりました。彼らは農具をそこに置いてお弁当を開きました。

仏道を行ずる者は誰であろうと無所有を貫いていなければなりません。無所有とは、「すべてをわたしのものとしない」ということです。住むところも所有してはなりませんから、無住所になります。所有するために働いてもいけません。ですから、食べるものも着るものもただただ押し頂いて分けてもらうしかありません。



「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」という句がありますが、僧が腹を満たす食べ物も風頼み人頼みです。乞食(こつじき)をせねばなりません。食を乞うのです。人の善意を通して如来さまから食をおいただきするのです。お釈迦様もこれをなさいました。阿羅漢に達した者は宇宙の理法(ダンマ)から食をおいただきすることができますから、路傍の物乞いのように、けっして卑屈になってはおられません。むしろ誇りにすら思っておられます。

(阿羅漢はサンスクリット語でアラハン、或いはアラファット。尊敬と供養を受けるに値する人、仏道修行の最高の段階に達し得た人、の意。応供(おうぐ)とも言う。仏陀、如来、世尊の別号)



お釈迦様が農民の中に入られて食を乞われました。お釈迦様は裸足で粗衣を纏っておられます。農民の一人が「あなたもわたしたちのように田を耕して働いたらいかがですか」と言いました。その時にお答えになられたのが上の言葉「われは心田を耕す」です。わたしは心の田を耕す者です、と。僧は心の田を耕して仏の法を成就させてこれを人々に届ける役割です。今のお坊様方も田圃の形をした袈裟を身につけておられます。



これはしかしお釈迦様だけの専用ではありません。わたしたちはみな心に田を持っています。この田を耕すことで、わたしみずからを深く耕します。カルテイベイトします。



農民は農具を使って田を耕します。それはそれで大切なことです。商人は算盤をはじいて国の経済を耕します。これはこれでまた大切なことです。これは工場で働く人、研究室で研究をする人、世の中の政治に関わって活動する人、漁業、林業、観光業などなどに従事する人にも当てはまります。みななくてはならない大切な仕事です。



さて、長くなってしまいましたから、そろそろペンを措こうと思います。

すべての人が無所有だったのではないか。死に臨んでみればそれが合点されるのではないか。所有したというのが幻想だったのではないか。心の田以外には畢竟するに何も所有してはいなかった、という結果になるのではないか。

わたしの外にある田をどうやって耕したところで、そこが行き着くべき目標地点ではないのではあるまいか、という疑問がわたしには残りました。たしかにそうすることで目に見える業績というものが得られます。評価も加わります。ですが、わたしたちは一人残らず独去独来、独死独生をするしかありません。一人になった時にわたしを温めてくれるものはわたしの心田だろうと思います。

そうであれば終着地点こそが、わたしの心田なのではないか。紆余曲折して長い人生遍歴をしてきて、帰り着くところはわたしの中の心田ではないか。そういうことを考えてしまいました。

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山が問いを発し、山へ問いを発する

2014年07月24日 10時09分59秒 | Weblog
分け入っても分け入っても青い山  種田山頭火



山間(やまあい)の村を雲水が一人歩いている。頭に菅笠を被っていて顔は見えない。墨染めの僧衣が下腹のあたり白い帯で堅く結ばれている。片方の手には杖、もう片方には鉄鉢(てっぱつ)。早足で歩くほどの力はない。



山を越えるには山に分け入らねばならない。山道はしだいに険しくなる。左右に青い夏の山が屹立する。青い空に白い入道雲が湧き立っている。峠でしばらく呼吸を整える。蝉蜻蛉が羽を休めている。下り坂は上り坂を呼び、上り坂は下り坂を誘って続く。



分け入って道を究めていけば、懸けた労力に応じただけの確かな手応えがそこに待っていそうだが、分け入っても分け入っても、そこにも青い山風が吹いているだけである。



面前しているのは青い山。突き放すのも青い山、山懐に掻き抱いてくれるのも青い山。山が問いを発し、山へ問いを発する。答えに窮した漂泊者は常に身心の憔悴を余儀なくされるが、分け入った青い山から一日分の活力の提供を受けて、今日を歩く。



この漂泊の自由律俳人は、俳句とともに自由の風趣をもっぱらにして歩いたが、ついに60の山坂を越えることはなかった。



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夏が深々と深まっていく

2014年07月24日 09時40分31秒 | Weblog
 栗の毬(いが)がふくらんできた。黄緑色だ。そこは一面が栗畑になっていて、樹齢を重ねて半径3m前後の半円球を作っている丹波栗が、もはや硬式テニスボールほどに成長した毬をたわわに着けている。夏は深々と深まっていくのがよく見て取れる。

 僕はここへ来て自転車のペダルを回すのを止める。流れて来た雲が一瞬の日陰を提供する。風が一陣吹いてくる。僕は思いきり元気な夏を呼吸する。そして大自然の颯爽とした健康体の、その一部になる。

 栗の畑の向こうには水田が広がっている。水路には水が溢れて、鮠(はや)を泳がせてでもいるように光をきらきら跳ねている。水量の分だけ瀬音が高い。僕の耳は清涼となる。ナツアカネが大群を作って飛び交う。僕はそこへいとも自然に、彼らに招かれた賓客になる。
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