<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

「これでいい」には自己努力がない

2014年07月20日 09時07分21秒 | Weblog
唐人の寝言は、何を言っているのかちんぷんかんぷんである。日本人の耳には、中国語も解せないし、おまけに寝言であればなおさらである。



三郎の書いていることもさしずめこの唐人の寝言のたぐいだろう。そもさん。そもさん。さもあらんかな。



読んだところでなんの益にもならない。社会人不的確者の考えることは、現実味にも欠ける。ふうらふうらしていて、たとえて言えばエノコログサの揺れる影の葉っぱだ。影の葉だから、実体もない。ふううらふううらしているだけである。



三郎は勉強をしない。怠け者だ。だから、知らないことだらけだ。人と話をしても話にならない。辻褄が合わない。知識の濃度が薄すぎるからだ。暇人三郎、おい、ちったあ勉強をしたらどうだ。



やあだね。勉強なんか御免被る。すたこらすたこら逃げに徹する三郎。エノコログサの揺れる影の、ふうらふうら三郎。お偉い先生方のご本を手にとっても、三郎の低脳じゃ、1ページも先へは進めない。



エノコログサ。狗尾草と書く。路傍の雑草。イネ科の1年草。犬の尻尾のような穂を出し、猫をじゃらすので別名ネコジャラシ。キンエノコロという別種もある。これは穂の色が黄金色。



ところが、このネコジャラシは生命力が旺盛である。野原いっぱいを風来の穂で埋め尽くしてしまう。しかもあっという間に。夏の野原の占領草。



三郎は夏蝉を聞いている。そしてすぐに、いつものことながら、All is right with the world の「これでいい」と思ってしまう。自力の力が極力低電圧なので、他力に頼ってしまう癖がある。



夏蝉を鳴かせている他力さまがご壮健であるのを蝉の鳴き声に確かめてそれで、これでいい、これでいいと安らいでしまって、自己努力がない。



それをそうせしめていてくださっているのは誰だ。宇宙の法(ダンマ)だ。人格化して親しもうとするが、これは宇宙のエネルギーであってパワーそのものだ。それが正しく美しく作動していて、三郎の処まで来て、夏蝉を鳴かせている。



三郎の処まで来て鳴かせているパワーを三郎は聞き逃さないでいる。そして、唐人の寝言のように、「これでいいこれでいい」を繰り返している。



なんのことはない。ふうらふうら草の三郎は自分のことで誇れることがなんにもないので、そうしかつぶやけないのである。
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吸えるよろこびというよろこびの技

2014年07月20日 08時12分26秒 | Weblog
わっはっは。おれは今朝は上機嫌だ。

なぜだ。

空が青いからだ。青々と青いからだ。澄み渡っているからだ。

これをおれは鼻から吸う。これがおいしい。醍醐の味がする。

鼻から元気を吸えるのは仙人の特技だから、おれはさしずめ仙人だ。

よろこびにして吸う。<吸えるよろこび>というよろこび技をおれは確保した。

夏空が広がる。しかも、おれをよろこばせるためにおれの頭上に広がっている。

次に、颯爽の青い夏空がひっくり返って戯(おど)けて見せる。天が地になる。

地上のおれが天空に跪(ひざまづ)かれている。(なんのことはない。おれが草原に仰向きで寝ただけだが)

おれは、あろうことか、仏陀と同格扱いであることを発見してしまう。

おい。おれは仏陀ではない。仏陀ではないおれがここでは仏陀と同待遇を受けているのだ。

わっはっは。これ以上の歓喜がどこにあろうか。
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歓を合わせる合歓の木の、花の歓喜

2014年07月20日 07時36分15秒 | Weblog
合歓の木に合歓の花が咲き出した。薄紅色の花房が木全体に彩雲のように咲いている。いかにも天上の国を思わせる。

合歓と書いて「ねむ」「ねぶ」という。どうしてだろう。辞書に頼る。マメ科の落葉小高木。葉は細かい羽状複葉。小葉は10~20対。葉は夜閉じて垂れる。花季は6~7月。夏を過ぎると莢をつける。莢は長くて垂れてくる。材は下駄の歯にする。「ごうかん」と音読みもする。

眠り草というのもある。含羞草、オジギソウの異称がある。これも夜になると葉を閉じて眠ってしまう。指先で触ると気持ちよさそうに葉を閉じてしまう。

合歓は歓を合わせるとも読めそうだ。眠っている小葉の様子が抱き合っているようにも見える。昼間の夏の暑さをものともせず、むしろ涼しい天国にして、花の歓喜をハミングして歌っている。

木は大木になる。これが結構な日陰を作るので、ここを緑陰にして憩うことができる。小生が小さい頃ここには日中、馬を繋いであった。

合歓の木がそうするように、生きていることがそのまま歓喜の表現でありたい。毒々しくなく、わざとらしくなく、うっすらと、身をピンクに染めて。
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