<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしの中に他人が同居している

2014年07月07日 20時11分35秒 | Weblog
三郎は、三郎の心臓に、「心臓よ動け」と言ったことがない。しかし、動いている。まるで三郎の力に従って動いているようにして、動いている。



三郎が、「三郎の心臓よ動け」と言ったくらいで、三郎の心臓が動くのではない。それだと四六時中そう命令をし続けていなければならないことになる。



三郎は、命令を下さいないで動いている三郎の心臓に手を当ててみて、しかし、何かがこれを動かしているのではないかと勘ぐっている。



これは到底、三郎一人の力ではないように思ってしまう。



三郎の心臓を動かしている大きな力。それがそこに来てはたらいているように思うことがある。そのときには、正直とまどってしまう。



三郎の中に他人が同居しているようなちぐはぐ感を持ってしまう。そしてそれから考える。



それをそうせしめている力。大きな力。大きな善意。そういうものがあるのではないか、と。すべてをそうせしめている大きな力というものがあるのではないか。あったとしたら、それはどういうつもりのものなのか。どういう力なのか。



三郎の心臓をのけ者にしないでいるというのはどういうことか。三郎の心臓に働きかけて来るこの大きな他なる力は、三郎のことをどう思っているのか。



心臓の正常なハタラキがあってもそこで終わりではない。これを受け継いだ大動脈、大静脈の血管が正常に作動をしていなければならない。これをも三郎の命令でそうしているのではない。そうせしめられている。そうせしめられて安定している。からだの全体と調和している。



それはなぜだ。なぜそうしているのか。そうしていることに何の得があるのか。得なんか何もなくともそうしているとすればそれはそれで、なぜなのか。



三郎は夕方まだ明るい内に、裸でお風呂に入っていてそんなことを考えてしまった。窓を開けて天空を眺めてみた。するとそこに三郎の心臓を動かしている天空の丈夫なベルトが回っているのが見えたように思った。
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実に不届きな男である 三郎は

2014年07月07日 19時44分50秒 | Weblog
京都三千院。金色の阿弥陀堂の天空に天女が待っている、いくたりも。

阿弥陀さまを迎えている天女であって、そこを尋ねてきた三郎を迎えているわけではない。

それはそうなのだが、三郎は親しげに天空の天女を見ている。

まるで、三郎をこそ迎えているとでも言いたげにして、見ている。

天女が欲しいのである。人間界の三郎を美しく思いたいのである。

阿弥陀堂にふさわしい天女である。それを三郎は勘違いしている。

人間界に下ろしてきて、あろうことか、美しい天女によって慰められようとしている。

三郎は実に不届きな男である。そんな男に天女がほほえみを投げかけることなどありえないのに。
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解決しないものは解決しない

2014年07月07日 19時35分40秒 | Weblog
ふ。なんてことだ。だらしない。

三郎は三郎をあざける。罵る。蔑む。

あざけっても罵っても蔑んでも、解決しないものは解決しない。

これを解決する力を持つのは絵のように美しい絵美さんひとりである。

三郎はもう4ヶ月以上も絵美さんを見ていない。

後ろ姿でも見ていない。(見ないでおいて、桔梗のような美しい匂いを、そこに嗅いでいる気になっている)

当たり前だ、絵美さんは非実在である。見えるはずはない。
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さぶしくなんかないはずなのに

2014年07月07日 19時32分37秒 | Weblog
絵美さんがいない。絵美さんがいないと三郎はさぶしい。神さまにも仏さまにもまもられている三郎だから、さぶしくなんかないはずであるが、さぶしい。絵美さんがいないとさぶしい。
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そうせしめているハタラキの中心にいる

2014年07月07日 19時03分05秒 | Weblog
お遍路さんのついている杖には「同行二人」と書いてある。一人は、遍路をしている行者である。もう一人は弘法大師空海である。南無大師遍照金剛を唱えて遍路をして行く、その返照金剛は弘法大師である。南無は帰依。一切をおまかせするゆえにそこに信が具わる。



遍照金剛の弘法大師がいっしょに歩いて下さっているという信を得たら心強いであろう。遍く照らす方である。金剛のダイアモンドの輝きを放っている方である。



だが、三郎は、敢えて言う。三郎には「同行1000兆億人」がいっしょに歩いていて下さる、と。



1000兆億人とは、三郎がかってに推量した人数である。三郎を守っている人数である。三郎を導いている人数である。三郎を後押ししている人数である。三郎がそうすることをよろこんでいる人数である。三郎によってかがやいている人数である。三郎をそうすることでよろこんでいる人数である。



三郎一人がよろこんでいるのではない。三郎がよろこんでいることで、それでよろこんでいる者が1000兆億人もいるのである。



それをそうせしめている働きがある。それをそうせしめている力がある。それをそうせしめてよろこんでいるよろこびがある。



三郎を動かしている者がいるのである。動かされてなんかいないぞ、おれは自分の力で、それで動いていると強気を言いたいところだが、それをも許容している寛大なハタラキがあるのであって、その寛大なハタラキの中で、そういう暴言をも言っているのである。



徹底してそうである。三郎を動かしているのは、三郎を動かしめている他力である。これを仏教ではダンマ=法=宇宙の原理と呼んでいる。



これがなければ、風ひとつ吹かないのである。水一つ流れないのである。太陽一つ月一つも天空に存在していることはできないのである。



宇宙を宇宙たらしめている力が宇宙の原理である。だが、原理を原理たらしめているもう一つ広大が原理が後ろに控えていることも忘れてはいけない。そして、その広大無辺な原理の原理を、そうせしめているさらに大きな力(ハタラキ)がある。



そして、それらがすべて三郎に集約されてくる。収斂されてくる。つまり、三郎を取り囲んでいる守りの輪の、外側の外側のまたその外側の、そのまた外側の、さらにさらにまた外側の輪の巨大な宇宙愛は、畢竟するに三郎ひとりの為なのである。



それで三郎がよろこぶと、そのよろこんでいる三郎をよろこぶのである。輪になってよろこぶのである。無限大の輪になってよろこぶのである。



だから三郎は、そうせしめられている割には、ものすごく威張っていてもいい存在なのである。
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そうだ、不足感を消し去ってしまえばいいのだ

2014年07月07日 17時41分03秒 | Weblog
そうなんだ、と三郎は思った。後に残すことはないのである。今を使い切ってしまえばいいのである。それで十分なのである。



不足はない。いただいているいのちの燃焼を燃焼しきって、それで不足があるはずはない。



不足を覚えなければ、燃焼しているのである。



不足を覚えたら、その不足分をその後で取り返したいという思いが募ってきて、それで、その後を確保しようと焦ってしまうのである。



不足が焦りのスタートになっているのであれば、不足を消し去ってしまえばいい。



すなわち、充足しきってしまうのだ、もう一本の蝋燭を立てることはないのだ。



三郎は、こう思う。自分をずっと守っているものがいる。守っている力がある。みちびいている者がいる。みちびいている力がある。



不足を覚えるのは、だから、この守りに不足を言うことになる。守っていてくれた力に不足を言うことになる。



不足を抱かせるほどにいい加減な守りではなかったはずなのに、それをいい加減に思ってあしらってしまうのは、三郎なのだ。



三郎がどんな人生を送ったか。それを問う必要などはない。三郎が問いただす必要はない。三郎ができうる最高を、力が与えたのである。守って導いている力が与えてくれていたのである。



それを最高としたらいいのである。三郎は、三郎が生きている間、常に最高最善に守られ導かれていたのである。

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いまここを満足して生きればいいはずである

2014年07月07日 15時41分14秒 | Weblog
人間としてここにいる。いまここにいる。



今はここにいるけれども、もうすぐにここにはいなくなる。これは避けられないことだ。



その先のことは杳として知れない。知ることができるのは今のここにいる間だけである。



ではその「今ここにいる」ことを大切にするほかはない。では、大切にしているか?



どうも、大切にしてはいないようだ。



どうやって大切にするかさえ分かっていない。だらだらとしている。ぐずぐずとしている。寝そべっている。



どんな活躍もしてはいない。活躍をすれば、「今ここにいる」ことが大切に扱われていることになる、はずだが、とそこまでは思いつく。



今日は大雨である。台風が来ている。それも超大型のようだ。明後日には九州地方に上陸を果たすかも知れない。お隣は、台風襲来に備えて、早々と対策を打っている。



お隣の住人は、従って、「今此処に居る活躍」をしていることになりそうだ。



三郎はいつもの腰痛がぶり返していて、お布団に横になっているきりである。鉛を腰にぶら下げているように重たい。トイレまで歩いて行くにも海老になって曲がっていなくてはならない。ひどく不格好だ。



不格好な三郎だが、頭の中では、もっと生き生きと生きていたいと思って過ごしている。張り切っていたいと思っている。



今日は7月7日。七夕さまである。幼い頃は里芋の葉に溜まった朝露をお茶碗に集めて回って、この朝露で墨を擦った。

五色の短冊に願いを書いて、笹の葉に吊した。天の川の両岸を隔てて牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬を楽しむ。




幼い頃にはわくわくして気分で七夕行事ができていたが、今はできない。してはならないということではないのだが、その気分にならない。



五色の短冊に書く願い事がもう見付からないのだ。



「死んでも生きていますように」という願い事ではどうだろう。しかしそれでは、「生きたという事実」が白んでしまいそうだ。不満足の生に継ぎ足すものは、やはり同じように不満足の曇りに曇っていることだろう。



わたしは満足して生きました、ということであれば、それ以上を望むことはないはずである。



であれば、今ここを満足して生きることに最大限の努力をすることだ。そうであれば、天の川にまで登って行って牽牛星にもならなくていいはずである。
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