吉野の金峯山寺の金剛蔵王権現像は釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の顕現でしたが、能『嵐山』でシテ蔵王権現と「同体異名」とされているのは「子守明神」「勝手明神」の二人のツレ(子方)です。この神様はいったい誰なのでしょう?
子守明神は吉野の「吉野水分(みくまり)神社」の「みくまり」が「こもり」に転訛したもので、水分神社は金峯山寺に属していた非常に古い神社です。また勝手明神についてはやはり金峯山寺のそばに「勝手神社」があって、ところがこちらは能にも大変縁の深い神社なのです。
まずは『国栖』に描かれるように壬申の乱で吉野宮の離宮に逃れた大海人皇子が、この勝手神社の裏山にあたる袖振山で天女に出会い、そのときに五度袖を翻す天女の舞の有様を写して現在も雅楽に残る「五節舞」を作った、とされる話で、これは『吉野天人』『国栖』をはじめ能ではとってもおなじみのお話でしょう。
つぎに少し時代が下って、源頼朝に追われて都を落ちて吉野に逃げ込んだ義経一行の物語。雪の吉野山で義経と別れた静が追っ手に捕らわれたとき、この勝手神社の神前で法楽の舞を舞った、とされているのです。この話は能『吉野静』にそのまま写されているほか、能『二人静』では、この勝手神社が能の舞台になっていて、勝手明神に仕える菜摘女(ツレ)に静の霊が憑依する、という物語です。
そうじて吉野という場所は往古からの聖地で、熊野もその延長上にあるわけですが、同時に古代から政争に巻き込まれた者が都を落ちて逃げ込むシェルターのような土地でもありました。やがて天子の地位に就いた天武天皇と、兄の嫌疑は晴れないまま非業の死を遂げることになる義経との違いはあるにしても。。
そして吉野といったら忘れてならないのが南北朝時代の南朝の最初の本拠地が、ここ、吉野だったことです。足利尊氏に追われた後醍醐天皇はやはり吉野に落ちて南朝を成立させ、以来半世紀に渡って幾多の戦乱が南北朝の間で繰り広げられ。。そして南北朝を統一させたのが足利義満だったわけですから、ここでも能とは関係がないわけではないのですね。
陰陽の両面がある吉野ではありますが、しかし聖地としての地位は中世まで揺るぎないものだったようで、能狂いとして有名な豊臣秀吉にも、彼が作ったいわゆる「太閤能」のひとつに『吉野詣』というのがあって、吉野に出かけた太閤・秀吉の前に蔵王権現が現れて秀吉の「治世」を言祝ぐ、というストーリーです。
→ 復曲された『吉野詣』の舞台
http://www.osaka-brand.jp/panel/entertainment.pdf
(この能は脇能であろうと思いますが、ここでは「不動」が使われていますね)
それほど蔵王権現への信仰は厚かったわけですが、じつは子守・勝手の二神はその蔵王権現の数多くある付属神のひとつで、その諸神の中では最高位の立場にある神なのです。蔵王権現と「同体異名」とは明言されているわけではないので、これは能の作者の創作であろうと思いますが、諸国に蔵王権現が勧請されるときは、多くこの二神もお供しているそうで、山形県・宮城県の県境にある蔵王山にも末社として二神がおられるのだそう。末社は主神が包括している、という考え方もありますから、まあ、同体異名でもあながち間違いではないのかも。
子守明神は吉野の「吉野水分(みくまり)神社」の「みくまり」が「こもり」に転訛したもので、水分神社は金峯山寺に属していた非常に古い神社です。また勝手明神についてはやはり金峯山寺のそばに「勝手神社」があって、ところがこちらは能にも大変縁の深い神社なのです。
まずは『国栖』に描かれるように壬申の乱で吉野宮の離宮に逃れた大海人皇子が、この勝手神社の裏山にあたる袖振山で天女に出会い、そのときに五度袖を翻す天女の舞の有様を写して現在も雅楽に残る「五節舞」を作った、とされる話で、これは『吉野天人』『国栖』をはじめ能ではとってもおなじみのお話でしょう。
つぎに少し時代が下って、源頼朝に追われて都を落ちて吉野に逃げ込んだ義経一行の物語。雪の吉野山で義経と別れた静が追っ手に捕らわれたとき、この勝手神社の神前で法楽の舞を舞った、とされているのです。この話は能『吉野静』にそのまま写されているほか、能『二人静』では、この勝手神社が能の舞台になっていて、勝手明神に仕える菜摘女(ツレ)に静の霊が憑依する、という物語です。
そうじて吉野という場所は往古からの聖地で、熊野もその延長上にあるわけですが、同時に古代から政争に巻き込まれた者が都を落ちて逃げ込むシェルターのような土地でもありました。やがて天子の地位に就いた天武天皇と、兄の嫌疑は晴れないまま非業の死を遂げることになる義経との違いはあるにしても。。
そして吉野といったら忘れてならないのが南北朝時代の南朝の最初の本拠地が、ここ、吉野だったことです。足利尊氏に追われた後醍醐天皇はやはり吉野に落ちて南朝を成立させ、以来半世紀に渡って幾多の戦乱が南北朝の間で繰り広げられ。。そして南北朝を統一させたのが足利義満だったわけですから、ここでも能とは関係がないわけではないのですね。
陰陽の両面がある吉野ではありますが、しかし聖地としての地位は中世まで揺るぎないものだったようで、能狂いとして有名な豊臣秀吉にも、彼が作ったいわゆる「太閤能」のひとつに『吉野詣』というのがあって、吉野に出かけた太閤・秀吉の前に蔵王権現が現れて秀吉の「治世」を言祝ぐ、というストーリーです。
→ 復曲された『吉野詣』の舞台
http://www.osaka-brand.jp/panel/entertainment.pdf
(この能は脇能であろうと思いますが、ここでは「不動」が使われていますね)
それほど蔵王権現への信仰は厚かったわけですが、じつは子守・勝手の二神はその蔵王権現の数多くある付属神のひとつで、その諸神の中では最高位の立場にある神なのです。蔵王権現と「同体異名」とは明言されているわけではないので、これは能の作者の創作であろうと思いますが、諸国に蔵王権現が勧請されるときは、多くこの二神もお供しているそうで、山形県・宮城県の県境にある蔵王山にも末社として二神がおられるのだそう。末社は主神が包括している、という考え方もありますから、まあ、同体異名でもあながち間違いではないのかも。