ぬえの能楽通信blog

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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その5)

2008-08-04 19:00:40 | 能楽
このあたりのシテとツレの謡の内容は、泰平の御代を満開の桜にたとえて言祝ぐもので、脇能の前シテの登場の場面では常套の文言でしょう。また、ここではワキの言葉と同じく天皇が名花として名高い吉野の桜が遠方のために見ることが出来ず、この嵐山に植えおかれた、という事が語られます。

また型としても、登場した前シテと前ツレが橋掛りで向き合って「二ノ句」を交えた「一セイ」を謡い、それより舞台に入って、ツレが舞台の中央、シテが常座に立って「サシ」「下歌」「上歌」を謡い、その終わりに立ち位置を変えてシテが中央、ツレが角に立つ、というのも脇能に共通した型です。考えてみれば、シテがツレを伴って登場する場合、ツレの方がシテよりも舞台の前方に立っている、という例は脇能以外ではあまり例がないのではないでしょうか。二人が座っている場合にはこういう位置関係もあるのですが、二人がこの位置で立ったままワキと問答するのは、『錦木』などを除いてあまり他に例がないように思いますが。。(詳しくは未調査ですが。。)

ワキ「不思議やなこれなる老人を見れば。花に向ひ渇仰の気色見えたり。おことはいかなる人やらん。
シテ「さん候これは嵐山の花守にて候。又嵐山の千本の桜は。皆神木にて候程に。花に向ひ渇仰申し候。
ワキ「そも嵐山の千本の桜の。神木たるべき謂れはいかに。
シテ「げに御不審は御理。名におふ吉野の千本の桜を。移しおかれしその故に。人こそ知らね折々は。子守勝手の神ともに。この花に影向なるものを。
ワキ「げにやさしもこそ厭ふ憂き名の嵐山。とりわき花の名所とは。何とて定め置きけるぞ。
シテ「それこそなほも神慮なれ。名におふ花の奇特をも。顕さんとの御恵み。
シテ、ツレ「げに頼もしや御影山。靡き治まる三吉野の。神風あらばおのづから。名こそ嵐の山なりとも。

さてワキは嵐山の桜を礼拝する老人夫婦を見て不審し、いわれを尋ねます。シテの答えには、そもそも吉野の桜が神木で、それを植え移したこの嵐山にも子守・勝手の二神が折々に影向するのだ、というのです。

ところが、これを聞いたワキは驚きもしなければ、感興を催すこともありませんですね。「ふうん」という感じで次の質問。ところで「嵐山」というのは桜にとっては不吉な名前であるはずなのに、なぜ花の名所と定めたのでしょうか? これに対するシテの答えは、そのまま地謡が引き継いで説明することになります。

地謡「花はよも散らじ。風にも勝手子守とて。夫婦の神はわれぞかし。音たかや嵐山。人にな知らせ給ひそ。

吉野の桜を嵐山という、花にとっては不吉な名の場所に植えたのは、嵐の風よりも神の力(神風)の方が強く、この治まる御代の下ではその力も増幅されて、風にも桜が散ることがない、という奇瑞を見せるため。そしてまた「風に勝つ」という言葉から、はやくも老夫婦は自分たちが勝手・子守のふた柱の神だと名を明かします。

前シテが自分の本当の名を明かすのは中入の場面の直前とは限りませんが、『嵐山』は自分の正体を明かすのがかなり早いと言えるでしょう。まあ、能にはほかにも早めに名乗る前シテはおりますですが。。『鍾馗』の前シテはワキとの会話の三度目の往復でもう正体を明かしていますし。。

それと、初同(しょどう。地謡がはじめて謡い出す小段)になるまでに、ほとんど和歌が出てこないのも『嵐山』の特徴ですね。上記では「さしもこそ厭ふ憂き名の嵐山 花の所といかでなりけん」という『新千載集』所収の藤原北家道隆流の藤原良基の歌のたった一首。。何気ないことのようですけれども、やはり『嵐山』は破格の能といえるのではないかと思います。