ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

絢爛豪華な脇能『嵐山』(その9)

2008-08-09 03:25:15 | 能楽
間狂言が退場すると、囃子方は「見合わせて」、「下リ端」という登場囃子を演奏します。

「下リ端」って、なんだか不思議な名前ですよね。似た名前の登場囃子に「出端」というのがありますが、ここで共通する「端」という言葉は広辞苑には「物の末の部分。先端」とあるほかに「あとが続く最初の部分。きっかけ」とあり、古語辞典でも「物事の端緒。発端。きっかけ」とあります。「出端」というのは即ち、役者が登場する(舞台に「出る」)端緒としての囃子、という、かなり大ざっぱな捉え方の名称なのでしょう。

ほかにも能の登場囃子は多岐に渡ってあるのですが、「一声」とか「次第」という名称は、なんとなく役者の発声や事件の顛末の暗喩というような、戯曲に切り込んだ意味を持つ名称だと思うし、そう考えるからかも知れませんが、どうも実演上も納得できる要素があると思います。「名宣笛」もこの仲間でしょう。また「早笛」「会釈」のように囃子の演奏上の特徴を名称にしてあって、そのままそれが登場する役のイメージに直結するものもあります。さらに「大ベシ」は役者が掛ける能面の名称で、これはまさしく役の性格を直接的に表現している名称です。

ところが「出端」となると、はなはだイメージが曖昧になってしまう。。それだからか、「出端」で登場する役は非常に幅広く、『実盛』も『高砂』も同じ「出端」で登場しますし、『安達原』だって「出端」で出ることもあるのです。当然それぞれの曲によって「出端」は「位」を変えて演奏されるのですが、そのことが「出端」のイメージをさらに不明確にしていると思います。

もちろん「一声」も「次第」もいろいろな役の登場に広く用いられる事は変わりがないのですが、この二つの囃子の名称から受ける、なんとなく、でしょうが、そのイメージは演者に「どう演奏され、どう登場すべきか」という想像力をかき立てます。さらに「次第」には前述の通り、登場した役者の演技を規定する作用もあるため、これがまた役者にとって「一声」と「次第」によって登場するそれぞれの役の相違というようなイメージ作りにまで影響を及ぼしていると思います。それに対して「出端」にはどうも「一声」「次第」のような明確なイメージがありませんね。。

ま、「出端」についての考察は後日に譲るとして、ところが同じような名称を持っているくせに、『嵐山』などに用いられる登場囃子「下リ端」にはハッキリしたイメージがあります。これはね。天から「天下ってくる」役のための囃子なのです。

空から「下ってくる」役が登場する「端緒、きっかけ」としての囃子。「下リ端」のイメージは、音楽的にもまさにそういう感じでしょう。フワフワと天から降りてくる飛天。宇治・平等院の鳳凰堂の阿弥陀如来の周囲で軽やかに飛び回りながら楽器を演奏する飛天。あんな感じを表現することを狙った囃子なのではないかと思います。現に「下リ端」が演奏される曲には『吉野天人』や『西王母』『国栖』など、泰平の御代を(または将来泰平の御代を治める帝を)祝福するために、いかにものどかに現れる天女の役に多く使われているのです。もっとも「下リ端」が用いられる曲の例外として『猩々』(およびその姉妹曲)があります。猩々は水の中から浮かび出てくるので、その登場囃子はむしろ“上がり端”と呼びたいくらいですが、実際には猩々の性格は天女と変わりはなく、祝福が主眼として登場する役だと言えます。

いや、むしろ、ぬえは『猩々』この「下リ端」という登場囃子を端的に捉えて表現しているのではないか、と思います。どうもこの囃子で登場した役。。神仙の役は、人間を祝福するのも目的なのですが、ややもすればそれ以上に、自分自身が楽しむために登場したフシがあります。

たとえば「出端」で登場するような天女・女神の役といえば、『龍田』の龍田明神や『竹生島』の後ツレの天女にしても、また『賀茂』や『難波』の後ツレ天女も、かなりシッカリした態度で衆生を救い、あるいは守ろうとする明確な意志が感じられます。それに対して『吉野天人』や『西王母』のシテは、もちろん天下を守護する大いなる目的はあるにせよ、どうも舞台づらでは、あるいは吉野の桜を愛でるため、あるいは帝に捧げ物をする、というセレモニーのために登場して、自身もそのシチュエーションを興じているという印象をぬぐえない。。

これは『猩々』のシテとも共通するイメージであるわけで、そうなると『下リ端』という名称も、「天から天下ってきた」、という役の個性が反映されて用いられているのではなくて、この囃子で登場した役自身が泰平の世を体現する、いわば平和の指針になっているような、そういう役に多く使われる囃子の名称と考えられるようです。このような役にはどうも衆生を守護する、というような積極的な運動をする神仏とはちょっと性格を異にしていて、主神に守護されているから自分も存在できる、というような、ある意味では泰平の世の無責任な享受者とも言え、神仏とはいっても人間にとっては身近な存在。その代表者が「飛天」で、だから天下ってくる彼らの役の登場囃子を「下リ。。」と大きく捉えたのではないかな? と考えるのです。

確証はないですが、ぬえは「出端」や「下リ端」が持つこういう捉え方の「大きさ」が、登場囃子としての成立。。少なくとも名称がそのように固定された時期が「一声」や「次第」よりも遡るのではないか? という印象を持っています。

ともあれ、「下リ端」には真摯な態度で衆生を守る誓いを決意するというよりも、このように登場した役自身が人が暮らすこの現世を謳歌するような趣があります。その意味では『嵐山』の後ツレ(子方)の登場にはまさにうってつけなのだと思います。