ぬえの能楽通信blog

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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その8)

2008-08-08 01:05:49 | 能楽
この『嵐山』の初同上歌の構成は『賀茂』によく似ている、と書きましたが、中入のシテの型は脇座の方へ行き正面へノリ込、幕の方へ向いてヒラキ、ここで箒を捨ててそのまま常座に到る、という。。どうもこの場面には『高砂』の影響があるようにも思えます。『嵐山』の作者は金春禅鳳と考えられていて、そうすると祖父・禅竹の作品である『賀茂』と、その禅竹が師と慕った世阿弥の『高砂』の両方の影響が見て取れるというのは、あながち間違いではないかもしれませんですね。ことに禅竹は世阿弥を非常に尊敬していたし、少年から青年に至る時期まで祖父の薫陶を受けた禅鳳に両者の影響が表れるのは当然かもしれません。

さて前シテとツレが「来序」で中入りすると、囃子は急に拍子を改めて「狂言来序」を演奏して間狂言が登場します。「狂言来序」で登場する間狂言の役は「末社の神」「木葉天狗」など、格がやや低めの神仙の役で、「立ちシャベリ」といって、立ったまま一人で物語を語り、所作をする。。自己完結型の演技をすることが多いのも特徴の一つです。

ちなみに『嵐山』の間狂言は末社の神で、吉野の桜が嵐山に移された事情を物語り、ついで勅使の到来を喜んで挨拶をし、ご機嫌がよさそうだ、と言うと勅使のお慰みに、と舞を見せる、という筋立てになっています(狂言のお家によって違いはあるかもしれません。。)。自己完結型、と言う割には勅使と交流があるように見えますが、じつは間狂言がワキの方へ向いて着座して挨拶をしても、ワキは間狂言の方を向きません。おそらく勅使には末社の神の姿が見えない、という設定なのでしょう。それでも舞を「見せる」というわけですから??なのですが、ともあれ末社の神は脇能の立ちシャベリの間狂言ではよく上演される「三段之舞」を舞います。『嵐山』に限ったことではありませんが、末社の神の役の間狂言は登場にも囃子が入り、また囃子の演奏で舞も舞うのですから、間狂言としては演技の時間も長く、またかなり派手な演技をすることになります。

「三段之舞」を舞い上げた末社はさらに「やらやら めでたや。。」と続くやはり常套のめでたい文句を謡いながら舞い続け、それが終わると静かに幕に退きます。

間狂言が幕に入るといよいよ後場なのですが、ここで桜の立木の作物を引っ込めることもあります。後場に登場するツレ(または子方)の演技によって、桜の立木との「絡み」のある型をしない場合は、立木の作物も必要としないわけです。もちろん型がないとしても風情としては作物は舞台にそのまま残して置いた方が春爛漫の景色を表現するのに有利でしょうが、やっぱり舞台が狭くなるしね。それにお客さまからも正先に出された作物は舞台を見るのを妨げる要因ですから、型がない場合は作物もここで退場させることになります。

で、今回は子守・勝手のふた柱の神は子方に勤めさせるのですが、桜の立木に絡む型をさせる事にしました。ありていに言えば、この型は常の能としては「替エ」の型でして、むしろ「白頭」の小書のときにもっぱら用いられる型です。

が、しかし。このたび『嵐山』を上演する『狩野川薪能』は、地元の子方を特訓して登場させるのがひとつの目的でもありますので、ここは師匠に相談して許可を頂き、あえて「替エ」の型、すなわち子方が桜と関係を持ちつつ舞う方の型で勤めさせることにしました。

いやむしろ、この型を子方にやらせたかったから、今回 ぬえは『嵐山』を上演することを決めたのです。この型ひとつのため、子方の演技のための選曲。。 稽古を始めてみたら、やっぱり。。だったんですが、シテはは子方より型が少なかったです。。(・_・、)

まあ、『狩野川薪能』は伊豆の小学生のための催しだもんね~。これはこれで初志貫徹、というか、目的に合致した選曲でしょう。おかげさまで、この薪能の発案者であり総合プロデューサーの役割をしておられる大倉正之助さんには、囃子方でありながら桜の立木の作物を東京から現地まで運ぶご苦労をお掛けすることになってしまいましたが。。m(__)m