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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

壮大な童話…『舎利』(その7)

2014-11-18 01:46:11 | 能楽
『舎利』に「出端」は重複しないのに、なぜこの曲では「出端」ではなく「イロエ」で後シテが登場するのでしょう。ぬえはそれは、『舎利』という曲が、後シテが積極的に登場しない、おそらく唯一の能だからではないかと考えています。

能の後シテは、多くの場合 執心のために浮かばれない魂をワキ僧に救済して欲しい、とか、帰らない昔の思い出に囚われたまま永遠にその思い出の中を彷徨っているとか。。はたまた神が人を救済しようと影向するとか、人に害を加えようと怪物が登場するとか、ともかく目標と対象を持って、何事かを「為す」ために登場して来ます。

ところが『舎利』のシテ・足疾鬼は、言うなれば前半。。前シテで自分の目的である仏舎利を強奪する事に成功しているのですよね。ですから後シテのこの登場は、人間の化身姿から鬼の姿に戻って、悠々と空中を引き揚げて行く様子なのです。彼がこれから何かをしようとするのではなく、彼の身にこれから何事かが起きる、そういう 戯曲上では中途半端な場面なのだと思います。

『舎利』の「イロエ」はそういう場面の感じを表現するために選ばれたわけですが、前述のようにこの「イロエ」は「出端」とほとんど替わらない楽曲です。こういう場面を修飾するのであれば、後シテの登場にはちょっと躍動的で積極性も感じられる「出端」よりももう少し静かな、抑揚のない平板な感じの音楽でもよさそうなものですが、また一方、どこまで行っても後シテは鬼神なのですよね。

鬼としてのシテの登場という、やはり物々しい威風の感じも欲しい場面で、そこで登場音楽としてはこの曲のために新たに作曲はされなかったけれど、事実上は「出端」を用いていながら笛が「イロエ」を吹くことで「出端」の積極性を抑制している、そういうように ぬえは考えています。

実際、師家の『舎利』の型付ではここはシテは「幕ヲ上 ソロソロト出ル」と書かれていました。些末になりますが「出端」で登場する場合の約束事である、シテが幕内で「右ウケ」する型もありません。どこかの解説書で、この後シテはゆっくりと登場するけれども、本当は疾風怒濤の勢いで天空を翔るのだ、というような説明を見ましたが、ぬえはそうではなく悠々と、散歩をするように空中を歩んでいるのだと思っています。

なお、今回 ぬえの『舎利』でお相手を願う笛方・森田流の寺井家では独自の伝承を保っていて、ほかの笛方の各流儀・家で「イロエ」を吹くところ、寺井家では『舎利』は「出端の替エ」と捉え、掛リと呼ばれる冒頭部だけ常の「出端」とは異なる「替エノ譜」を吹き、幕揚げの段は常の「出端」の通りとなるそうです。これまた解釈の違いで面白いことですね。

シテの扮装はシカミの面に赤頭、厚板の着付の上に法被・半切という、鬼神の典型の装束ですが、左手にさきほど奪った舎利を抱えています。もっとも前シテが奪うのは舎利塔で、後シテではそのうち塔の部分と宝珠に付けられていた火焔をはずした舎利玉だけを持っています。

さて「イロエ」で登場した後シテは「ソロソロ」と橋掛リを歩み、舞台に入ると段々と右へ廻ります。どうやら空中を進む彼の後ろから何者かが近づく気配。。 その刹那、囃子は突然 急速になって、「早笛」へと演奏を転じます。

「早笛」は極急調な躍動感にあふれた登場音楽で、龍神とか、そのほか勢いのある鬼神の役に多用されます。わくわくするような躍動感を感じさせる登場音楽としては随一の効果がある囃子でしょう。

シテはこれを聞いて(まあ戯曲的には遠くに自分を追い来る者の姿を認めて、ということでしょう)、急いで脇座の方へ走り行き、一畳台の角をぴょんと跳び越えて脇座のあたりに下居、右袖を被きます。

ここで一畳台について説明しなければなりません。前シテの場面ではこの一畳台の上に舎利台を置き、さらにそのうえに舎利塔が載っているので、一畳台は言うなれば舎利殿の中にある「須弥壇」と考えることが出来ます。ところが前シテが舎利塔を奪い去って幕の中に走り入ると、後見は踏み潰された台は引くけれども、一畳台はそのまま舞台に残しておきます。

後シテが登場する場面は天空なので、一畳台は要らないはず。。しかし実際の舞台では、この一畳台に乗ったり下りたり、シテとツレは組んず外れず、台を効果的に使って闘争のさまを見せます。要するに演技が印象的に見えるから一畳台は残されているのでしょうが、ぬえはこの一畳台を空に浮かぶ一片の雲だと考えています。

ですからこの部分も、シテは後から追いかけてくる韋駄天のスピードを見て、これでは逃げても追いつかれると観念し、雲の影に隠れたと ぬえは解釈しています。袖を頭に被くのも能では姿を隠した、という意味の定型の型です。

「早笛」に乗って後ツレ・韋駄天が登場しますが、この「早笛」、観世流の太鼓では「ハシリ」と言って、常より早く役者が登場するためのキッカケの手を打ちます。これは常よりも早く幕揚げをすることで、より急迫した登場をする意味が込められていて、能『安達原』『昭君』のほか『大会』やこの『舎利』など天神の面を掛けるツレの役に用いられます。

常座に立った後ツレ・韋駄天が謡い出し、シテも姿を見つけ出されてこれに応じます。

ツレ「そもそもこれは。この寺を守護し奉る韋駄天とは我が事なり。 とヒラキこゝに足疾鬼といへる外道。在世の昔の執心残つて。またこの舎利を取つて行く。いづくまでかは遁すべき。 とシテへ向きその牙舎利置いて行け。 とヒラキ
後シテ「いや適ふまじとよこの仏舎利は。 と立ち上がりながら袖を払い、ツレへ向き誰も望みの。あるものを。 と両者ヒラキ
地謡「欲界色界無色界。 と数拍子踏み

これより二人の闘争場面になります。

考えてみればこの後シテの場面、舞台となっているのは天空です。
言うなれば2機の戦闘機が空中戦を行っているのが後の場面で、こういう場面設定もほかの能には見られないものだと思います。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (ブログはどうなりますか?)
2025-06-23 13:48:29
画面上に2025年11月にブログ終了と表示がありました。
私は素人でお稽古をちょっとかじっている者ですが、お能を見たり調べたりするにつけ、よく参考にさせていただいていました。興味深い内容ばかりで楽しく読ませていただいたので今後が心配です。11月以降このブログはどうなりますか?読めなくなるのでしょうか。膨大な分量で急いで読んでも正確に記憶はしていられないと思います。これからも読めるようにしていただけましたら有り難く存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
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Unknown (ブログはどうなりますか?)
2025-06-23 17:16:29
はてなブログに引っ越しという記事を読みました。
早とちりですみませんでした。
今までのブログも読めるでしょうか。貴重な文献だと思いますので、ぜひ引き続き読めるようにしていただけましたらとても嬉しいです。
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Unknown (Re:ブログはどうなりますか?)
2025-06-23 17:22:18
ご愛読ありがとうございます!
でもあまり更新できておらず申し訳ありません。。
はい、お気づき頂きました通り、はてなブログに過去記事ともどもお引っ越しさせて頂きました。
gooブログと比べるとフレーム?の装飾が少なくてちょっと寂しい。。
今後ともよろしくお願い申し上げますーm(_ _)m
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Unknown (ありがとうございます)
2025-06-23 19:51:56
お返事ありがとうございます。
はてなブログに全部移してくださったのですね。
とても嬉しいです。ずっと続くと思っていたサービスが突然終わったりしてデジタルと言えど安心できないですね。

今までのgooブログはDOCOMO連携が出来ないのでいいねが押せませんでしたが、はてなブログはインストールいたしました!ゆっくりペースで充分です。今後もブログ楽しみにしております。

時節柄どうぞお体にお気を付けてお過ごし下さいませ。
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