ぬえの能楽通信blog

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三位一体の舞…『杜若』(その6)

2024-05-22 07:13:40 | 能楽
季節もちょうど合い、今日は催しの打合せを兼ねて茨城県潮来市の「あやめ園」に行ってきました。
今更ながら「あやめ」は現代では「アヤメ」「杜若」「花菖蒲」の類の総称で、見分け方は「花菖蒲」が花弁の付け根のところに「黄色い線」が入っているもの、「杜若」は同じところに「白い線」があり、「アヤメ」は「綾目」で網目状の模様があるものです。ここにあるのはすべて「花菖蒲」ですね。



咲きぶりは ちらほら、と言ったところ。ということは ぬえが「杜若」を舞う頃にはちょうど満開になっているでしょう。まだ時期は早かったけれどもワキ僧が「あら美しの杜若やな」とため息を漏らした気分をなんとなく思い浮かべてみました。





おっと、思いがけず「伊豆の国市」の文字が目に飛び込んできました。全国的に「あやめサミット」なるものがあるのですね。なるほど伊豆の国市は頼政の北の方の「あやめ御前」の出身地といわれ、「あやめ祭」も開かれているから、友好都市のような感じでお互いの街のあやめの株を交換したのでしょう。まだ開花は先のようでしたがこれらが咲き揃ったら圧巻でしょうね!

さて能「杜若」についてですが、ところで業平が「舞う」ということについて能の中で少々混乱があるようなのでひと言添えておきます。

「杜若」の詞章の中でも

シテ「またこの冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。

とあり、また別に

シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。
シテ「仮に衆生と業平の。
ワキ「本地寂光の都を出でて。
シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。
地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。


とあるので、これを読む限り「豊の明の五節の舞」を業平が舞い、今また杜若の精であるシテが業平の舞姿を再現する、というように読めるのですが、これには誤解があります。

「豊の明」(=とよのあかり)はそれ自体「宴会」を指す語で、宮中では古くから新嘗祭や大嘗祭のあとに行われる宴会を意味しました。能「卒都婆小町」に「豊の明の節会」と見えるように宴会とはいっても新嘗祭のあとの直会としての儀式で、能「梅」に「初春の。七日の豊の明には。舞の台の飾らひに。梅と柳を立てらるゝ」その作法が語られています。豊の明の節会には能「国栖」に描かれる国栖舞などが奉納されるわけですが、その中で奉納される五節の舞については能「関寺小町」に「むかし豊の明の五節の【舞姫】の袖をこそ五度返しゝが。」とあります。

天武天皇の御宇に吉野に天女が天下り、五度袖を翻して舞ったのが起源といわれ、能「吉野天人」はこのことを下敷きにしていますし、五節の舞姫の舞を詠んだ僧正遍照の歌「天つかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」は百人一首に採られ、能「吉野天人」や「羽衣」の詞章にも取り入れられています。

このように豊の明の節会で舞われた五節の舞は舞姫、つまり女性が舞う舞であって、業平がそれを舞ったというのは誤解なのです。その後豊の明の節会そのものが廃絶してしまい、近代(大正時代)に「大饗の儀」として再興されてから後も五節の舞は日本の雅楽の中で唯一女性が舞う舞とされています。

なので業平が豊の明の節会で五節の舞を舞ったのではなく、その舞を見たときに業平がかぶっていた冠、というのが正しいでしょう。実際に藤原高子は貞観元年(859)、17歳のときに後にその中宮となる清和天皇が9歳で即位した際の大嘗祭で五節の舞姫を勤めており、おそらく能「杜若」でシテが着る業平の形見の冠、というのはこの大嘗祭に参列していた業平が高子を見染めた、そのときにかぶっていた冠、という感じなのでしょう。

地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。
シテ「別れ来し。跡の恨みの唐衣。
地謡「袖を都に。返さばや。 【イロエ】


「遥々来ぬる唐衣。。」は「次第」という定型の章段で、しばしばワキや前シテの登場の冒頭で謡われますが、ときに能の中盤で地謡が謡うことがあり、「羽衣」などに類例があり「地次第」と呼ばれます。直後に地謡が同じ文句を低吟する「地取り」があるのが特長で、地謡が次第を謡う場合も続けて「地取り」を謡います。

ついで「別れ来し。。」は「一セイ」と呼ばれる拍子に合わずきらびやかな高音で謡う短い章段で、これに引き続いて「イロエ」というこれまた短い舞。。とは呼べないような所作があります。「イロエ」は「彩色」で、舞台の彩り、という程度の意味。大小鼓が地と呼ばれる定型の譜を打ち続け、笛が拍子に合わない譜を吹いて彩りを添える中、シテは静かに舞台を1周する程度。しかしながら「彩色」と呼ぶにふさわしいもので、とても神秘的な雰囲気が漂い、いかにも能らしい舞(?)と思います。

ところでこの「次第」「一セイ」「イロエ」というそれぞれ特長を持った短い章段の謡と短い舞の連続は、どうやら能ではない先行芸能「曲舞」の楽式をそのまま能に取り込んだものだと言われています。これにさらに「クリ」「サシ」「クセ」と謡による章段が続き、さらに「クセ」は「二段グセ」と呼ばれる長大なものであり、最初の「次第」の文句とクセの終わりの文句が一致しているのが正当な「曲舞」の楽式なのだとか。

能「山姥」に「百万山姥」という曲舞を舞うことを職業とする女性がツレとして登場しますが、彼女が舞う曲舞についてシテの山姥の化身である前シテが「まづこの歌の次第とやらんに。。」と言うのが、今は失われた曲舞の楽式が具体的に語られる例として注目されます。どうやら曲舞という芸能は、まず「次第」という短いながらもこれから演じる物語のテーマを暗示するような文言が観客に提示され、それから「一セイ」「イロエ」「クリ」「サシ」とそれぞれ特長を変えた短い謡や所作が次々に謡われながら物語の内容に迫ってゆき、最後に据えられた長大な「クセ」を舞うのが最大の見どころとなり、その終わりに再び「次第」の文句を唱えて終了する、というものだったらしく、能のように複数の役者が登場してその二者の間で事件が起こる演劇的なもの、と言うよりは、おそらく観客がすでに知っている事件なり人物に焦点を当てる、いわゆる一人芝居のようなものだったのではないか、と ぬえは想像しています。

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