古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

福岡県北九州市・荒神森古墳

2019-05-25 05:27:03 | Weblog
福岡県北九州市小倉南区中曽根3-1-32、周防灘を望む(かっては.....)砂丘上に築かれています。

全長68m、 後円部径41m・高さ8m、 前方部先端幅41m・高さ5.5m  三段構築の前方後円墳です。
後円部が大きく前方部が短い特徴があります。
本古墳の東南側にはトントンの森・カンカンの森と呼ばれていた2基、北側にもう1基の計3基の陪塚があったそうですが今は消滅しています。
前方部には「浮津島神社」の社殿が建っています。




北九州市最大の前方後円墳です。











円筒埴輪や朝顔形埴輪・切妻造家形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
墳丘の周りには前方後円形をした周濠があります。


                 (奥が前方部)

                 (奥が後円部)

周濠の外側には周堤があり、円筒埴輪が並べられていたようです。
平成14年の調査で、北西側の周堤から人物埴輪2体が出土しています。

1体は顔部分だけで頭部頂に髷のある「力士」で、北九州市では初めての発見だそうです。
内部主体部は未調査につき不明です。

古墳時代後期・6世紀中頃の築造と推定されています。


                 (かわご石)


                 (境内社・・・八坂神社)

東京都台東区・摺鉢山古墳

2019-05-18 06:15:03 | Weblog
東京都台東区上野公園5丁目の上野台(武蔵野台地末端の舌状台地)にあります。
上野公園・東京文化会館の裏で正岡子規記念野球場の南側です。
JR上野駅から徒歩5分ほどのところです。
「天神山古墳」と呼ばれることもあります。

全長70m、 後円部径43m・高さ5m、 前方部先端幅23m・高さ2m  二段構築の前方後円墳です。
前方部がかなり低くなっています。

発掘調査が行われていないため、埋葬施設がどんなものかは不明です。
葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪や須恵器などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。


                 (後円部)


(前方部)












この古墳の名前の由来は、その形状が擂鉢を伏せた形に似ていることから名付けられたそうです。
後円部墳丘上は平坦になっていて、前方部も含めかなり削平されています。
かって墳丘上に五条天神(1487年・文明19年)が鎮座、また1631年・寛永8年には清水観音堂が建立されたためです。
現在後円部には石製のベンチも置かれ、休憩所になっています。




古墳時代後期の築造と推定されています。

この古墳は史跡指定されていません。

東京都文京区・富士神社古墳

2019-05-18 05:34:30 | Weblog
東京都文京区本駒込5-7-20の台地縁辺、「六義園」南東の富士神社境内にあります。

全長45m、 後円部径?m・高さ5.5m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。
後円部墳丘上には富士神社の社殿が建っていて、大きく削平されています。
そのため古墳の面影はほとんどありません。

               (左後円部、右前方部)

発掘調査は行われていないようです。
埴輪や土師器が出土したといわれていますが、資料がほとんどなく詳細は不明です。

墳丘斜面には富士山麓から運んだ溶岩や、加賀鳶を始めとする鳶職の人が建てた「火消し組」の石碑が多数並べられています。


江戸時代中期以降「富士塚」ブームが起きていて、この古墳も富士塚に改造されたようです。
墳丘を富士山に見立てた山のうえに拝殿があります。
社殿は第二次大戦の空襲で焼失後、鉄筋コンクリート製で戦後再建されたものです。

               (後円部墳丘上です)


地元では「お富士さん」として親しまれているそうです。
ちなみに祭神は「木花咲耶姫命」です。


                 (盗掘坑or風穴?)


                 (後円部・・・社殿裏)



                 (前方部)



                (前方部への階段)


               (道路に墳形の名残が.....)

東京都世田谷区・野毛大塚古墳

2019-05-11 05:44:02 | Weblog
東京都世田谷区野毛1丁目36の玉川野毛町公園内にあります。
多摩川の支流、谷沢川が浸食してできた等々力渓谷の脇になります。
東急大井町線・等々力駅から徒歩10分ほどのところです。
「上野毛古墳」とか「西岡8号墳」とも呼ばれています。

全長82m、 後円部径68m・高さ10m、 前方部先端幅28m・高さ2m  後円部三段構築の帆立貝形前方後円墳です。
前方部が極端に低くて小さい特徴があります。





前方部脇には長さ・幅ともに10m、高さ約1mの造り出しがあります。





墳丘は平坦な地面に盛土をして築かれていて、復元整備のうえ平成5年から公開されています。











墳丘の周りには最大幅約13m、深さ約2mの馬蹄形をした周濠があります。
墳丘には多摩川の川原石を使った葺石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・形象埴輪(壺・家・鶏・盾)などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
造り出し部からは柵形埴輪も出土しています。
周濠からは、高坏などの土師器が採取されています。

埋葬施設が後円部墳頂に4基確認されています。







後円部中央にある埋葬施設は、粘土槨に割竹形木棺が収められていました。
内行花文鏡、長方板革綴短甲、三角板革綴短甲、頸甲、肩甲、鉄剣、大刀、鉄鏃、刀子、鉄鎌、銅釧、石製模造品、臼玉、堅櫛などが出土しています。
南東側にある埋葬施設には箱形石棺で埋葬されていました。
刀剣、鉄鏃、臼玉、ガラス製小玉、石製模造品などが出土しています。
北西側には2基の組合式箱形木棺が収められていました。
鉄剣、鉄斧、鉄鏃、鉄鎌、刀子、石製模造品、玉類などが出土しています。

古墳時代中期・5世紀初めころの築造と推定されています。

昭和50年2月6日、東京都の史跡に指定されています。


東京都大田区・宝萊山古墳

2019-05-04 05:48:00 | Weblog
東京都大田区田園調布4丁目4、多摩川台公園西端の標高37.5m付近にあります。
「西岡37号墳」とか「蓬莱塚古墳」と呼ばれることもあります。

全長約97m、 後円部径52m・高さ11m、 前方部先端幅38m・高さ8m  前方部二段・後円部三段構築の前方後円墳です。
前方部を東南方向に向けています。
亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られています。


                (右が前方部)

(後円部)













                (手前右が後円部)

埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。
後円部中央にある埋葬施設は、粘土槨に割竹形木棺で埋葬されていました。
昭和9年、後円部の土取り工事の際発見されたものです。
粘土槨の長さが2.1m、幅が0.8mあります。
倭製四獣鏡1、硬玉製勾玉4、碧玉製管玉67、ガラス製丸玉173、ガラス製小玉392、紡錘車形碧玉製品1、鉄剣身残欠5、直刀残欠7、ヤリ形鉄器残欠5、刀子1 などが出土しています。
平成7年の公園整備に伴う確認調査で、前方部にも埋葬施設のあることが推定できたそうです。

前方部の先端が撥状に広がる形から、古墳時代前期・4世紀前半頃の築造と推定されています。


大正15年4月に東京都の史跡に、平成8年3月18日に種別を変更して再指定されています。

荏原古墳群を構成していて、この地域最古の前方後円墳です。

かって墳丘上には、あの有名な建築家「ライト氏」が設計した邸宅が建っていたそうです。




東京都大田区・多摩川台1号墳

2019-05-04 05:21:47 | Weblog
東京都大田区田園調布1丁目の多摩川台公園にあります。
東急・多摩川駅近く、徒歩10分ほどのところです。
「西岡45号墳」とも呼ばれています。
亀甲山古墳前方部のすぐ前です。

全長39m、 後円部径19.5m・高さ5m、 前方部先端幅17m・高さ2.7m  の前方後円墳です。


               (右手前後円部・左奥前方部)

墳丘の周りには幅2mほどの前方後円形をした周濠があります。
円筒埴輪や形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
埋葬施設は二つ確認されています。
後円部中央にある埋葬施設は、横穴式石室です。
前方部にある埋葬施設は、竪穴式礫槨です。
鉄鏃、堤瓶や横瓶・高坏などの須恵器、土師器などが出土しています。
この古墳は、6世紀前半に築造された多摩川台古墳群2号墳を前方部に改造して利用し、1号墳を後円部とする1基の前方後円墳として、6世紀後半に築造されたものです。

多摩川台古墳群を構成しています。















東京都大田区・亀甲(かめのこ)山古墳

2019-04-27 05:37:51 | Weblog
東京都大田区田園調布1丁目63-1、多摩川台公園にあります。
東急・多摩川駅近く、徒歩10分ほどのところです。
「西岡46号墳」とも呼ばれています。



全長107m、 後円部径66m・高さ10m、 前方部先端幅49.5m・高さ7.5m  二段構築の前方後円墳です。
前方部がやや開いた形をしています。
昭和62年(1987年)から平成元年(1989年)にかけて測量調査が行われています。
後円部裾南端部が、調布浄水場の沈殿池工事で一部削平されています。


ちなみに調布浄水場は、大正7年から昭和42年まで周辺に水道水を供給していたそうです。
前方部も一部削平されています。


                 (前方部)



               (右側が後円部)


               (左側が前方部)


                 (後円部)


墳丘に葺石や埴輪の配列は確認されていません。
主体部は未調査につき、どのような構造かはっきりしていません。
盗掘も受けていないそうです。

荏原古墳群を構成していて、その支群である多摩川台古墳群の南側にあります。
古墳群中最大規模の前方後円墳です。
鎌倉時代の古戦場としても知られています。
現在古墳の周りには柵がしてあり、中には入れないようになっています。

古墳時代前期・4世紀末頃の築造と推定されています。

昭和3年2月7日、国の史跡に指定されています。

東京都大田区・浅間神社古墳

2019-04-27 05:16:51 | Weblog
東京都大田区田園調布1丁目の台地上にあります。
東急・多摩川駅の目の前です。

全長60m、 後円部径32m・高さ6~7m、 前方部先端幅30m・高さ4m  二段構築の前方後円墳です。
浅間神社境内にあり、後円部墳丘上には浅間神社の社殿がたっています。
そのため墳丘は削平を受けています。


             (階段を上ったところが後円部)











墳丘の周りには周濠があります。
墳丘には葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・男子埴輪・女子埴輪・馬形埴輪・猪形埴輪・小鹿形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

多摩川北岸台地上の、大田区田園調布から世田谷区尾山台・等々力・野毛にかけて分布している大小54基ほどからなる荏原古墳群を構成していて、その群れの東端にあります。

古墳時代中期・5世紀末から6世紀初めころにかけての築造と推定されています。

東京都港区・芝丸山古墳

2019-04-19 08:20:33 | Weblog
東京都港区芝公園4-8、都立芝公園内にあります。
標高約16mの台地端にあり、浄土宗大本山「増上寺」の南側です。

             (後円部墳頂からの増上寺遠景)

芝公園は明治6年までは全体が増上寺の境内でしたが、現在は東京都と港区が管理するエリアに分かれています。

全長106m、 後円部径64m・高さ8m、 前方部先端幅40m・高さ6m  の前方後円墳です。
南南西方向を向いてる前方部は、狭くて低くなっています。



                 (前方部先端部)


                 (前方部への石段)

その前方部には、虎の石造(政治家「大野伴睦」の句碑)があります。


東京都内では最大級の前方後円墳です。


            (くびれ部付近から後円部を見ています)


            (くびれ部付近から前方部を見ています)


                 (後円部)

墳丘の周りに周濠が廻っていたかどうかは不明です。
円筒埴輪や人物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

くびれ部付近には「円山随身稲荷大明神」が祀られています。


増上寺の裏鬼門に位置するそうで、山内鎮守の重要な位置を占めていたそうです。
この円山随身稲荷大明神は、江戸時代には後円部にあったそうです。
そのため後円部墳頂や後円部西側は大きく削平されています。




現在稲荷社があった所には古墳碑(「瓢形大古墳」と刻まれている)と呼ばれる石碑があります。


明治31年,坪井正五郎博士による調査が行われたそうですが、後円部中央にあったと考えられる埋葬施設(竪穴式石室か?)は消失しており、遺体や副葬品など不明だそうです。
他にも後円部には「伊能忠敬」の遺功表が設置されています。

17年かけて正確な日本地図を製作した人物で、芝(正確には高輪大木戸)が基点地ということで明治22年有志により設置、戦災後の昭和40年に再建されたものだそうです。

古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。

昭和54年3月31日、東京都の史跡に指定されています。

栃木県足利市・中日向2号墳

2019-04-13 05:48:08 | Weblog
栃木県足利市瑞穂野町1322の台地上にあります。
「中日向1号墳」のすぐ北東側で、姥川を眼下に見るところです。

全長35m、 後円部径18m・高さ3m、 前方部先端幅16m・高さ2.5m  の前方後円墳です。
前方部を東南方向に向けています。

          (くびれ部付近で、左が後円部・右が前方部)

その前方部は一部ブロック塀で切断されています。












墳丘に埴輪の配列がなされていたか、また葺石が施されていたかなどは不明です。

中日向古墳群を構成しています。
この古墳は、台地の東端部にある前方後円墳2基・円墳3基のうちの1基です。


                 (手前が後円部)




             (奥に見える橋は姥川にかかるもの)

古墳時代後期の築造と推定されています。

昭和58年12月21日、中日向1号墳ともども足利市の史跡に指定されています。