古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

福岡県行橋市・石並古墳

2019-07-13 05:32:33 | Weblog
福岡県行橋市稲童石並の標高約9mの海岸段丘上にあります。
「稲童20号墳」とも呼ばれています。

全長68m、 後円部径58m・高さ5.5m、 前方部先端幅20m・高さ?m  帆立貝形の前方後円墳です。
西側の後円部は二段構築です。
短くて低い前方部は自然地形を利用しています。















墳丘の周りには幅6mの二重の浅い周濠が廻っています。


墳丘には海岸から運んだ礫を使った葺石が施されています。




後円部の頂は径17mほどの平坦面があり、その周りで円筒埴輪や須恵器が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
主体部は未調査につき不明です。
ただ、昭和30年に墳丘測量調査が行われています。
墳頂平坦面の一部が窪んでいて、石室が崩れて凹んだのではと推測されています。




この石並古墳の周りには17・18・19・21号の陪塚とみられる4つの円墳があります。
北側にある直径22mの21号墳は発掘調査が行われていて(19号墳も実施されている)、未盗掘の竪穴系横口式石室が見つかっています。
金銅立飾付眉庇付冑(国内外初の出土例)、三角板鋲留短甲並びにその付属具、横矧板鋲留短甲、各種鉄製武器、鉄製馬具、農工具、内行花文鏡、玉類(勾玉11個・管玉26個)など多数が出土しています。



25基が確認されている「稲童古墳群」を構成していて、その盟主墓です。

古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。



「稲童古墳群」
行橋市稲童の海岸部・瀬戸内海西端の周防灘に面した、北から長井・石並・塚原・江ノ向と続く南北1.2Kの標高5~10mほどの海岸段丘上に築かれています。
一部破壊されたものもあるようですが、25基の古墳が確認されています。
昭和34年と39年に発掘調査が行われています。
その結果4世紀から6世紀にかけて「石並古墳」に眠る首長系譜の累積墓として、連綿として増墓されたようです。




福岡県苅田町・石塚山古墳

2019-07-06 05:55:31 | Weblog
福岡県京都郡苅田町富久町1丁目、周防灘を望む傾斜面にあります。
西側の山脈から延びた舌状低丘陵上の先端です。
苅田町役場の隣です。

全長約130m、 後円部径80m・高さ9.5m、 前方部先端幅40m・高さ3m  前方部二段・後円部三段構築の前方後円墳です。
前方部を海側(東)に向けています。
その前方部は、先端が撥形にやや広がっています。








(後円部)






前方部に浮殿神社拝殿が、くびれ部に本殿と境内社が建っています。

         (バチ形に開く前方部にたつ神社鳥井)


                   (拝殿)


                   (本殿)







造り出しはありません。
墳丘には人頭大の葺石が施されています。




埴輪の出土はありません。
ただ築造当時は、墳頂に複合口縁壺などの土器が樹立されていたようです。
後円部墳頂は径23mほどで平坦になっていて、その中央に埋葬施設(石室)があります。


石室は主軸を前方部に向ける竪穴式石槨で、割竹形木棺が納められていたようです。
寛政8年(1796年)4月21日に開口、銅鏡10数面・剣・矛・鏃などが出土したとの記録があるそうです。
現存する銅鏡(三角縁神獣鏡)7面・素環頭太刀片・銅鏃1は近くにある宇原神社が所属しています。


銅鏡はすべて中国製(魏代)三角縁神獣鏡で、京都府木津川市の椿井大塚山古墳、奈良県天理市の黒塚古墳、大分県宇佐市の赤塚古墳の出土鏡と同范鏡で、昭和28年(1953年)3月31日、素環頭太刀片・銅鏃を含め国の重要文化財に指定されています。
1987年の苅田町教育委員会の発掘調査では、石室は大破していたそうですが、銅鏡1面(細線式獣帯鏡片)・装身具(琥珀製勾玉1個・碧玉製管玉4個)・武具(小札革綴冑片・靫片)・土器(飯蛸壺など)などが出土し町の文化財に指定されています。
これらは町の歴史資料館に展示されています。
石室内は床や壁面が赤く塗られていたようです。

古墳時代前期・3世紀末から4世紀初頭頃の築造と推定されています。

昭和60年1月31日、国の史跡に指定されています。

福岡県苅田町・番塚古墳

2019-06-29 05:38:48 | Weblog
福岡県京都郡苅田町尾倉与原433-5、海岸線近く(築造当時)の丘陵上にあります。
国道10号線そばの住宅街の一角です。

全長50m、 後円部径25m・高さ?m、 前方部先端幅37m・高さ?m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
その前方部はすでに消滅していますが、先端が撥形に広がる構造だったようです。








造り出しはなかったようです。
葺石も施されていなかったようです。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

後円部にある埋葬施設は、初期の横穴式石室に組合式木棺が2基収められていて、遺体は頭を東に向けていたそうです。
追葬が行われていたようです。
昭和34年住宅地造成中に偶然、埋葬当時の状態で発見されたものだそうです。
昭和34年(1959年)と平成3年(1991年)、九州大学考古学研究室による発掘調査が行われています。
石室は西方向に開口していて、玄室の長さ約3.5m・幅約2m・高さ約1.8mあり、赤色顔料が塗られています。




石室入り口付近はレンガ造りの壁で保護されていますが、古墳の施設としては違和感を覚えました。




盗掘は受けていないそうです。
尚方銘神人歌舞画像銅鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製小玉、金環、腕飾り、帯金具、鉄刀、槍身、石突、鉄鏃、挂甲、胡録金具、鉄斧、轡、剣菱形杏葉、輪鐙、鉄釘、蟾蜍形飾金具、須恵器の坏、高坏、鳥形はそう、土師器の壺 などが出土しています。

古墳時代中期・5世紀終わりころから6世紀初めころの築造と推定されています。

昭和35年1月5日、福岡県の史跡に指定されています。

福岡県苅田町・御所山古墳

2019-06-22 06:14:32 | Weblog
福岡県京都郡苅田町与原御所山の丘陵上にあります。
国道10号線脇、当時の海岸線に沿って南北に延びた低丘陵上です。

全長約120m、 後円部径73m・高さ10m、 前方部先端幅82m・高さ11.5m  三段構築の前方後円墳です。
墳丘上には白庭神社の社殿が建てられています。
毎年2月12日には境内で、しめ飾りや古い神符を燃やして豊作と無病息災を祈る「どんと焼」が行われるそうです。
ちなみに祭神は、饒速日尊・大己貴命・罔象女命です。








                 (拝殿)





                 (本殿)













平成19年度から平成27年度にかけて発掘調査が行われています。
墳丘の周りには幅約5mの盾形をした周濠があります。

その外側には周堤があります。
くびれ部の両側に造り出しがあります。
墳丘には葺石が施されています。


円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部に割石小口積の横穴式石室があります。
北(前方部側)に向かって開口しています。
文政3年(1820年)に主体部が開口したそうです。
明治20年(1887年)、坪井正五郎博士による主体部の調査が行われています。
羨道は狭く、玄室は長さが4.7m・幅が3mあり、床面は長方形をしていて石障で屍床が別けられていたそうです。
南域に1体(成人)、外側に3体があり追葬を前提として造られていたようです。
石室壁面には赤色顔料が塗られています。
倭製銅鏡・四禽四乳鏡・硬玉製勾玉6個・硬玉製棗玉4個・碧玉製管玉83個・ガラス製玉4個・鉄鏃数個・甲冑・金銅製辻金具・金銅製雲珠など東アジア(高句麗~新羅)とのつながりを示す品々が出土しています。

古墳時代中期・5世紀前半から中頃にかけての築造と推定されています。

昭和11年9月3日、国の史跡に指定されています。
平成24年9月19日、史跡範囲の追加指定を受けています。

福岡県苅田町・神後古墳

2019-06-15 06:21:38 | Weblog
福岡県京都郡苅田町大字谷の丘陵先端にあります。

全長?m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。

資料がほとんどなく詳細は不明です。

墳丘も竹笹などが生い茂っていて、その形状を確認することもむつかしい状態でした。


















福岡県苅田町・黒添夫婦塚古墳

2019-06-15 05:46:44 | Weblog
福岡県京都(みやこ)郡苅田町(かんだまち)黒添の台地上にあります。
貴船神社の境内です。





全長40m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。

前方部と後円部それぞれに横穴式石室があります。
墳丘はくびれ部付近を中心に貴船神社の社殿が建てられていて、「コ」の字形に大きく削られています。





そのためか後円部の石室は開口部が露出しています。
石室は全長約6m、玄室は狭く2m四方ほどしかありません。










(入り口に竹笹が山積されていて、内部はよく観察できませんでした。)

前方部の石室は破壊されていて、その痕跡と石材が南側墳丘裾に散乱しています。





造り出しはなかったようです。
その他については資料が少なく不明です。

古墳時代後期・6世紀中頃から後半にかけての築造と推定されています。

福岡県北九州市・両岡様1号墳

2019-06-08 05:46:34 | Weblog
福岡県北九州市小倉南区中貫本町、曽根平野中央を流れる貫川右岸の貫山系から延びた丘陵先端部にあります。

全長27m、 後円部径18m・高さ?m、 前方部先端幅14m・高さ1.5m  の前方後円墳です。
後円部墳頂には、かって祠が建てられていたそうで、そのため本来の高さより低くなっています。
その後円部の三分の一は削平されていて、石室の石組みが露出しています。
埋葬施設は、発掘調査が行われていないためはっきりしませんが、横穴式石室とみられています。
くびれ部東側には隣接して円墳(2号墳)があるそうです。
ただ古墳の周りは竹笹などブッシュがひどくて近づけず、自分の目で墳丘を確認することはできませんでした。











造り出しはありません。
墳丘に葺石は施されていないようです。
埴輪の出土がなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

平成24年3月26日、「曽根古墳群」を構成する1基として福岡県の史跡に指定されています。

古墳時代後期・6世紀後半から末頃の築造と推定されています。

福岡県北九州市・茶毘志山古墳

2019-06-08 05:20:21 | Weblog
福岡県北九州市小倉南区東貫2-15、曽根平野中央を流れる貫川左岸の洪積低台地上に築かれています。
南西方向約100mにある「上ん山古墳」が築かれている同じ台地上で、国道10号線のすぐ脇にあります。

全長54m、 後円部径30m・高さ12m、 前方部先端幅44m・高さ7m  二段構築の前方後円墳です。
墳丘は地山を整形したのちに盛土して造られています。
前方部は昭和45年の採土工事で削平され消滅し、現在は後円部のみ残っています。

















墳丘の周りには周濠があったとも伝わっていますが、定かではありません。
造り出しはありません。
円筒埴輪や朝顔形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
併せて土師器や土製模造鏡も出土しています。
主体部の調査は行われていませんが、昭和45年の採土工事の際横穴式石室の羨道入り口部の石材が露出したことから、石室は埋め戻されました。
翌昭和46年4月21日、北九州市の史跡に指定されています。

平成24年3月26日、「曽根古墳群」を構成する1基として県の史跡に指定されています。

古墳時代中期・5世紀後半から末頃の築造と推定されています。

福岡県北九州市・上ん山古墳

2019-06-01 06:07:32 | Weblog
福岡県北九州市小倉南区東貫2-13、曽根平野中央を流れる貫川左岸の洪積低台地上に築かれています。



全長50m、 後円部径30m・高さ7.5m、 前方部先端幅31m・高さ5.5m  二段構築の前方後円墳です。
墳丘は大部分が盛土で造られています。
平成14年5月、大雨で後円部の一部が崩落(復旧済み)しています。


くびれ部の北西方向約10mのところに、径約7m・高さ約1mの陪塚とみられる小円墳状のものがあります。


                 (手前が小円墳)

















造り出しはありません。
円筒埴輪や朝顔形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
主体部の調査は行われておらず、どのような埋葬か不明です。

昭和51年3月22日、北九州市の史跡に指定されています。
平成24年3月26日、前方後円墳5基(荒神森古墳・上ん山古墳・茶毘志山古墳・両岡様1号墳・御座1号墳)・円墳4基からなる「曽根古墳群」を構成する1基として県の史跡に指定されています。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

福岡県北九州市・円光寺古墳

2019-05-25 05:59:24 | Weblog
福岡県北九州市小倉南区中曽根3-6-3、浄土真宗・円光寺の境内下にありました。
今は埋没していて、その墳形を見ることはできません。
荒神森古墳の南約250mのところです。









全長約42m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。

平成16年、本堂建設に伴い発掘調査が行われています。
調査の結果、後円部北西側から武人埴輪・馬形埴輪・家形埴輪などが、後円部南東側からは家形埴輪が、前方部西側隅角からが猪形埴輪の鼻の部分が出土しています。
墳丘上からは須恵器も出土しています。
埋葬施設は未調査のためはっきりしていません。

古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。


「丸山古墳」
北九州市小倉南区中曽根3-2にありました。
円光寺古墳のすぐ近くです。
全長約50mの前方後円墳で、円筒埴輪が出土しています。
円光寺古墳同様、6世紀後半頃の築造と推定されています。
昭和4年~5年ころに消滅したとのことでしたが、戦時中・曾根飛行場が建設され完全に削平されてしまったそうです。
その際鉄刀などが出土したと伝えられています。
現在は住宅地になっていて、その面影は残っていません。