福岡県行橋市稲童石並の標高約9mの海岸段丘上にあります。
「稲童20号墳」とも呼ばれています。
全長68m、 後円部径58m・高さ5.5m、 前方部先端幅20m・高さ?m 帆立貝形の前方後円墳です。
西側の後円部は二段構築です。
短くて低い前方部は自然地形を利用しています。
墳丘の周りには幅6mの二重の浅い周濠が廻っています。
墳丘には海岸から運んだ礫を使った葺石が施されています。
後円部の頂は径17mほどの平坦面があり、その周りで円筒埴輪や須恵器が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
主体部は未調査につき不明です。
ただ、昭和30年に墳丘測量調査が行われています。
墳頂平坦面の一部が窪んでいて、石室が崩れて凹んだのではと推測されています。
この石並古墳の周りには17・18・19・21号の陪塚とみられる4つの円墳があります。
北側にある直径22mの21号墳は発掘調査が行われていて(19号墳も実施されている)、未盗掘の竪穴系横口式石室が見つかっています。
金銅立飾付眉庇付冑(国内外初の出土例)、三角板鋲留短甲並びにその付属具、横矧板鋲留短甲、各種鉄製武器、鉄製馬具、農工具、内行花文鏡、玉類(勾玉11個・管玉26個)など多数が出土しています。
25基が確認されている「稲童古墳群」を構成していて、その盟主墓です。
古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。
「稲童古墳群」
行橋市稲童の海岸部・瀬戸内海西端の周防灘に面した、北から長井・石並・塚原・江ノ向と続く南北1.2Kの標高5~10mほどの海岸段丘上に築かれています。
一部破壊されたものもあるようですが、25基の古墳が確認されています。
昭和34年と39年に発掘調査が行われています。
その結果4世紀から6世紀にかけて「石並古墳」に眠る首長系譜の累積墓として、連綿として増墓されたようです。
「稲童20号墳」とも呼ばれています。
全長68m、 後円部径58m・高さ5.5m、 前方部先端幅20m・高さ?m 帆立貝形の前方後円墳です。
西側の後円部は二段構築です。
短くて低い前方部は自然地形を利用しています。
墳丘の周りには幅6mの二重の浅い周濠が廻っています。
墳丘には海岸から運んだ礫を使った葺石が施されています。
後円部の頂は径17mほどの平坦面があり、その周りで円筒埴輪や須恵器が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
主体部は未調査につき不明です。
ただ、昭和30年に墳丘測量調査が行われています。
墳頂平坦面の一部が窪んでいて、石室が崩れて凹んだのではと推測されています。
この石並古墳の周りには17・18・19・21号の陪塚とみられる4つの円墳があります。
北側にある直径22mの21号墳は発掘調査が行われていて(19号墳も実施されている)、未盗掘の竪穴系横口式石室が見つかっています。
金銅立飾付眉庇付冑(国内外初の出土例)、三角板鋲留短甲並びにその付属具、横矧板鋲留短甲、各種鉄製武器、鉄製馬具、農工具、内行花文鏡、玉類(勾玉11個・管玉26個)など多数が出土しています。
25基が確認されている「稲童古墳群」を構成していて、その盟主墓です。
古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。
「稲童古墳群」
行橋市稲童の海岸部・瀬戸内海西端の周防灘に面した、北から長井・石並・塚原・江ノ向と続く南北1.2Kの標高5~10mほどの海岸段丘上に築かれています。
一部破壊されたものもあるようですが、25基の古墳が確認されています。
昭和34年と39年に発掘調査が行われています。
その結果4世紀から6世紀にかけて「石並古墳」に眠る首長系譜の累積墓として、連綿として増墓されたようです。