私は一体どのような社会の実現を目指しているのか2ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう
(最初に一言)の前に前回記事での私の物言いについて一言
まあ、少々オーバーに言い過ぎたのかもしれない。私が勝手に作り上げていた理想像を相手に押し付けていた挙句に、騙されたとの物言いは、私自身が私を騙したというか、失望させたということであり、別に相手がどうのこうのということでもなかったのだ。私がこれまでできなかった社会変革?を目指す、そのささやかだとしても第一歩を踏み出しているかのように思って、それで期待し過ぎた感があったというただそれだけの誤解というか思い過ごしであったという話であったのだ。
本当に、「しゃーないなあ」、とのそれだけのことだったというしかあるまい。そう思うと、私も相当に読者を騙すような失望させる誤解させる記事を書き続けてきたとすれば、私自身それはそれで罪深いものではあるまいかと。そう考えると、これからはさらに気を引き締めて記事を書いていかなければとの思いが強まるばかりである。
(最初に一言)
上のタイトルにある問いかけは当然なことだと私は思うのだが、私の見渡す限り、こうした問いかけをしないままに、いきなり「あるべき社会」とか、「これからの日本は、世界はどうあるべき」とか等々の話ばかりが目に付くのだ。そんなもん、イカサマに過ぎない。私はそう見ているのだが、この世の中はそんな類の議論で溢れている。
たとえば、最近目に付く「グローバルサウス」にしてもそうだ。それがどうして急に、私たちの注目するところとなったのか。その歴史的背景とか過程についての真面目というかまともな分析に、私はほとんど出くわせないままなのだ。たとえば、福沢諭吉の説いていた〈文明ー半開ー野蛮〉の関係がどのように変化することによって、いわゆるグローバルサウスの台頭が実現されるのか。
その際、文明は「製物の国」が占め、野蛮は「産物の国」に押し付けられるとのかつての諭吉の分析であったが、これも当然ながら変化を余儀なくさせられることが推察される。それではそうした変化というか変動を引き起こすのは一体なんであったのかの分析が求められて然るべきではあるまいか。それが、これまたなにも論及されないままなのだ。おそろしく不思議なことではあるまいか。
たとえば、司馬遼太郎が後世の研究者にその究明考察を願っていた自由主義、民主主義、民族主義、帝国主義の「混然たる(一体的)関係」が、どのように変化した結果として、グローバルサウスの登場となっていくのかとの問題意識の設定も可能であると同時に必要ではあるまいか。さらに、そうした関係に加えて、当然ながら気候変動・温暖化問題や格差問題の顕在化とグローバルサウスの台頭は、どのように結びついているのかに関する問いかけにもこたえていかなければならないはずだ。
こうした点を鑑みるとき、私たちはそれではグローバルサウスの登場以前の段階において、どのような社会の中で暮らしていたのかを、先ずは押さえておく必要がある。先の福沢氏や司馬氏に従うならば、〈文明ー半開ー野蛮〉の関係から構成された社会において、自由主義、民主主義、民族主義、帝国主義の渾善たる関係はどのように描かれるのだろうか。私はそれをこれまで何度も語ってきたように、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉のモデルで示してきたが、私の見る限りでは、ほとんどの論者はこうした作業をすっぽかしたままで不問に付してきたのではあるまいか。
こんな現状では、私たちがいまどんな社会の中で生きているのかさえ、的確には描けそうにもない。その理由は、私たちがそれ以前においていかなる社会の中で暮らしていたかの分析ができないことが大きく与っているのではあるまいか。たとえば、それは以前のブログ記事で取り上げていた斎藤幸平氏の「人新世の資本主義」論やトマ・ピケティによる「21世紀の資本」論でもそうであったのだが、彼らの分析では、私たちが自由主義や民主主義、民族主義、帝国主義の混然たる一体的関係における、換言すれば、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」におけるどのような社会に、いかなる「段階」に生きているのか暮らしているのかを掴み切れないのである。
致命的な問題は、彼らが覇権システムを大前提とする「システム」の中で私たちが生きている、生きていかざるを得ないという現実を語っていない、語ることができないということである。それゆえ、脱成長を目指すべきとか、民主主義を取り戻せとかの提言をしても、1970年代以降の覇権システムと「システム」の歩みを前にしたとき、どれほど非現実的な話であると私はみているのだが、おそらく彼らはそんなことさえも思い至らないであろうと推察している。
(最後に一言)
ところで、民主主義の内実というか、私たちが今現在において享受している民主主義とはいかなるものなのだろうか。それに関しては、たとえば米国の大恐慌以降に米国で実現されたいわゆるニューディール時代に開花されたとされる「大きな社会」「偉大な社会」の時期の民主主義の黄金期のそれが引き合いに出され、今やその民主主義が失われてしまったことから、それを取り戻すべきとの議論となるのだ。この手の話のインチキさというかイカサマに関しては、それこそ私は自分の半生以上をかけて問い続けてきたのだ。
これから先において、おいおいと論じていきたいのだが、少しここで結論を先取りして言うならば、これまでの私の研究からわかったことは、私の語る「システム」を前提とする限り、あらゆる社会改革・改良や革命路線ではどうにもならないということであった。それは主権者である国民の選挙行動や議会制民主主義路線を始め、マルクス主義的革命路線等を含む政治活動の無意味さを意味している。それらは、「システム」の存続と維持・発展にもっぱら寄与するだけである。
もし私たちにとって意味のある有意義な政治の在り方を問われるとすれば、それは「システム」とは異なる新たに別の空間を求める以外に手立てはないということである。強いてあげるとすれば、「〈自―絆ー他〉給〈自ー絆ー他〉足」的な生活運動を中心とする生活空間を広げるしかあるまい。勿論、これは夢幻の話でしかないのだが、それでも身の回りにはそうした実践活動をもう何十年も継続されている人々も存在しているのは疑いない事実である。
誤解のないように付言すれば、今の私は、たとえどれほど理論的にというか私の語る「システム」論の立場から憲法や第9条を疑問視したとしても、それを擁護する立場にある。その理由は、私を戦争へと駆り立てる愚かな今の政治状況だからだ。覇権システムや「システム」を前にしたとき、敵基地先制攻撃とか、集団的安全保障・防衛論議の危うさというか愚かしさをことさらいう必要もないはずだ。それゆえ、たとえ「システム」の枠の中での選挙や議会制民主主義の意味のなさを痛感してはいても、私の反「システム」的行動としての選挙での投票をするしかないと考え行動している。
いずれにしても、この歯切れの悪い論の展開から一刻も早く私自身を脱却させるためにも、「システム」とは異なる別の新たな生活空間の実現を目指す必要があることだけは確かである。
(最初に一言)の前に前回記事での私の物言いについて一言
まあ、少々オーバーに言い過ぎたのかもしれない。私が勝手に作り上げていた理想像を相手に押し付けていた挙句に、騙されたとの物言いは、私自身が私を騙したというか、失望させたということであり、別に相手がどうのこうのということでもなかったのだ。私がこれまでできなかった社会変革?を目指す、そのささやかだとしても第一歩を踏み出しているかのように思って、それで期待し過ぎた感があったというただそれだけの誤解というか思い過ごしであったという話であったのだ。
本当に、「しゃーないなあ」、とのそれだけのことだったというしかあるまい。そう思うと、私も相当に読者を騙すような失望させる誤解させる記事を書き続けてきたとすれば、私自身それはそれで罪深いものではあるまいかと。そう考えると、これからはさらに気を引き締めて記事を書いていかなければとの思いが強まるばかりである。
(最初に一言)
上のタイトルにある問いかけは当然なことだと私は思うのだが、私の見渡す限り、こうした問いかけをしないままに、いきなり「あるべき社会」とか、「これからの日本は、世界はどうあるべき」とか等々の話ばかりが目に付くのだ。そんなもん、イカサマに過ぎない。私はそう見ているのだが、この世の中はそんな類の議論で溢れている。
たとえば、最近目に付く「グローバルサウス」にしてもそうだ。それがどうして急に、私たちの注目するところとなったのか。その歴史的背景とか過程についての真面目というかまともな分析に、私はほとんど出くわせないままなのだ。たとえば、福沢諭吉の説いていた〈文明ー半開ー野蛮〉の関係がどのように変化することによって、いわゆるグローバルサウスの台頭が実現されるのか。
その際、文明は「製物の国」が占め、野蛮は「産物の国」に押し付けられるとのかつての諭吉の分析であったが、これも当然ながら変化を余儀なくさせられることが推察される。それではそうした変化というか変動を引き起こすのは一体なんであったのかの分析が求められて然るべきではあるまいか。それが、これまたなにも論及されないままなのだ。おそろしく不思議なことではあるまいか。
たとえば、司馬遼太郎が後世の研究者にその究明考察を願っていた自由主義、民主主義、民族主義、帝国主義の「混然たる(一体的)関係」が、どのように変化した結果として、グローバルサウスの登場となっていくのかとの問題意識の設定も可能であると同時に必要ではあるまいか。さらに、そうした関係に加えて、当然ながら気候変動・温暖化問題や格差問題の顕在化とグローバルサウスの台頭は、どのように結びついているのかに関する問いかけにもこたえていかなければならないはずだ。
こうした点を鑑みるとき、私たちはそれではグローバルサウスの登場以前の段階において、どのような社会の中で暮らしていたのかを、先ずは押さえておく必要がある。先の福沢氏や司馬氏に従うならば、〈文明ー半開ー野蛮〉の関係から構成された社会において、自由主義、民主主義、民族主義、帝国主義の渾善たる関係はどのように描かれるのだろうか。私はそれをこれまで何度も語ってきたように、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉のモデルで示してきたが、私の見る限りでは、ほとんどの論者はこうした作業をすっぽかしたままで不問に付してきたのではあるまいか。
こんな現状では、私たちがいまどんな社会の中で生きているのかさえ、的確には描けそうにもない。その理由は、私たちがそれ以前においていかなる社会の中で暮らしていたかの分析ができないことが大きく与っているのではあるまいか。たとえば、それは以前のブログ記事で取り上げていた斎藤幸平氏の「人新世の資本主義」論やトマ・ピケティによる「21世紀の資本」論でもそうであったのだが、彼らの分析では、私たちが自由主義や民主主義、民族主義、帝国主義の混然たる一体的関係における、換言すれば、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」におけるどのような社会に、いかなる「段階」に生きているのか暮らしているのかを掴み切れないのである。
致命的な問題は、彼らが覇権システムを大前提とする「システム」の中で私たちが生きている、生きていかざるを得ないという現実を語っていない、語ることができないということである。それゆえ、脱成長を目指すべきとか、民主主義を取り戻せとかの提言をしても、1970年代以降の覇権システムと「システム」の歩みを前にしたとき、どれほど非現実的な話であると私はみているのだが、おそらく彼らはそんなことさえも思い至らないであろうと推察している。
(最後に一言)
ところで、民主主義の内実というか、私たちが今現在において享受している民主主義とはいかなるものなのだろうか。それに関しては、たとえば米国の大恐慌以降に米国で実現されたいわゆるニューディール時代に開花されたとされる「大きな社会」「偉大な社会」の時期の民主主義の黄金期のそれが引き合いに出され、今やその民主主義が失われてしまったことから、それを取り戻すべきとの議論となるのだ。この手の話のインチキさというかイカサマに関しては、それこそ私は自分の半生以上をかけて問い続けてきたのだ。
これから先において、おいおいと論じていきたいのだが、少しここで結論を先取りして言うならば、これまでの私の研究からわかったことは、私の語る「システム」を前提とする限り、あらゆる社会改革・改良や革命路線ではどうにもならないということであった。それは主権者である国民の選挙行動や議会制民主主義路線を始め、マルクス主義的革命路線等を含む政治活動の無意味さを意味している。それらは、「システム」の存続と維持・発展にもっぱら寄与するだけである。
もし私たちにとって意味のある有意義な政治の在り方を問われるとすれば、それは「システム」とは異なる新たに別の空間を求める以外に手立てはないということである。強いてあげるとすれば、「〈自―絆ー他〉給〈自ー絆ー他〉足」的な生活運動を中心とする生活空間を広げるしかあるまい。勿論、これは夢幻の話でしかないのだが、それでも身の回りにはそうした実践活動をもう何十年も継続されている人々も存在しているのは疑いない事実である。
誤解のないように付言すれば、今の私は、たとえどれほど理論的にというか私の語る「システム」論の立場から憲法や第9条を疑問視したとしても、それを擁護する立場にある。その理由は、私を戦争へと駆り立てる愚かな今の政治状況だからだ。覇権システムや「システム」を前にしたとき、敵基地先制攻撃とか、集団的安全保障・防衛論議の危うさというか愚かしさをことさらいう必要もないはずだ。それゆえ、たとえ「システム」の枠の中での選挙や議会制民主主義の意味のなさを痛感してはいても、私の反「システム」的行動としての選挙での投票をするしかないと考え行動している。
いずれにしても、この歯切れの悪い論の展開から一刻も早く私自身を脱却させるためにも、「システム」とは異なる別の新たな生活空間の実現を目指す必要があることだけは確かである。