日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

ロシアのウクライナ侵攻は、私の語る「システム」の関係がA、B、CからB、C、Aへと転換・変容する歩みの中で引き起こされた。それは「金の成る木」としての「システム」の「格差バネ」を最大限に働かすためで

2022-06-25 | 日記

ロシアのウクライナ侵攻は、私の語る「システム」の関係がA、B、CからB、C、Aへと転換・変容する歩みの中で引き起こされた。それは「金の成る木」としての「システム」の*差別と排除の関係をつくり出す*「格差バネ」の*「力量」を*最大限に働かす*(高める)ためである。すなわち、BとCによるAに対する差別と排除の関係を最大限に深化させることである。

そのために、{[B]→(×)[C]→×[A]}で描かれる「システムとその関係の歩みのますますの発展が求められたことから、「システム」全体の総力量と、B全体の力量が最大限に拡大される必要があったわけだ。たとえばロシアとウクライナ、そこに欧米諸国とが入り乱れた戦争が、Bで引き起こされたとすれば、B全体のエネルギー総量は増大するだろう。

たとえば、冷戦崩壊後の米国主導によるNATO加盟国の拡大は、ロシアに対する反撃能力を高めさせると同時に、ロシアが作り出す緊張状態がそのままBやCの緊張をもたらし、そのこと自体がBやCのエネルギー量を増大させるのは必至だろう。ただでさえ、Bの中国とAの米国との緊張状態の高まりによって、「システム」全体の総エネルギー量も高まっているのだから。

勿論、「金の成る木」としての「システム」がそれを狙っているのは間違いないことから、「システム」はことあるごとにB、C、Aの諸国を使いながら、そうした緊張状態を強めるように動いているのだ。ウクライナにおける米国政府が画策した民主化への強引な手引きは元より、先のNATOの拡大政策等々はその例である。

ロシアや中国がそうした米国の動きに乗ってくるのは避けられない。というのも、①②③の下位システムから構成される「システム」は、それ自体が差別と排除の関係を前提としてつくり出されたことから、絶えず何某かの緊張状態の中にあり、そのために、どこからかの横やりが入るや否や、それに対応するのが当然の務めであるからである。勿論、そこには、そのように各国が動くことを、「システム」が常日頃から教育・指導し訓練してきたということを看過してはならない。


今回記事において、私はこうした点を踏まえながら、これまでの話に関して、さらに「解説」してみたい。そのために、ここでこれまで数回にかけて述べてきた話を振り返っておきたい。

構造的暴力で描かれていた関係は、私のモデルで示す①②③の下位システムから構成される「システム」の下でつくり出された②の関係に見いだされたAの先進国によるCの途上国に対する差別と排除の関係であったとすれば、21世紀の今の構造的暴力は、どのように描くことができるのだろうか。

これまでの数回の記事で私が読者に伝えようとしていた内容の一つが、今回記事のタイトルで示されている。それに関して、以下でもう少し論及してみたい。ヨハン・ガルトゥングの構造的暴力は、私の「システム」を前提としてつくり出された当時の南北関係に見いだされた北の先進国と南の途上国との経済的な観点から見た構造的格差を導いた関係として、位置づけ理解できる。

だが、そこには付け加えられなければならない関係が存在していた、と私は考えている。すなわち、それは①②③で描かれる覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」を前提としてつくられてきた②の世界資本主義システムにみられた当時のAとCとの間に形成され発展してきた構造的経済的格差であった。

すなわち、私はガルトゥングの構造的暴力という概念を、私の語る「システム」との関連から位置付け捉え直したのだ。それは、1970年代前後の時代においては、有効な見方であったかもしれないが、1980,90年代から以降においては急速に説得力を失った概念であった、と私は理解している。それはA・フランクによる「従属論」にもそのまま該当する。

その理由として、私は構造的暴力が生み出されるに至った、私の語る「システム」という関係それ自体が、明確に捉えられていなかったところに、私はその原因を見ている。すなわち、私の語る{[A]→(×)[B]→×[C]}の関係から構成される「システム」は、確かに1970年までは続いていたのだが、次第に70年代を分水嶺とするように、{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係として描かれる「システム〉へと構造的転換・変容をするに至ることによって、これまでの構造的暴力という概念で語られてきた南北燗の経済的格差の関係が、次第に80、90年代以降においては、その説得力を失うに至るからである。

換言すれば、北の先進国のAグループによる南の途上国のCやBグループに対する差別と排除の関係が、次第に逆転し始めることとなり、これまで差別・排除されていた南が北を差別し、排除する側へと回っていくということである。そうした「システム」における地殻変動により、これまで有効とされた構造的暴力の概念も、その役割を終えることになる。

だが、たとえ「システム」の構造的転換・変容が導かれたとはいえ、構造的暴力で示される差別と排除の関係が消えてしまったわけではない・たとえ北の南に対する差別と排除の経済的関係が見えにくくなっていくとはいえ、やはりじゅうらうのような差別と排除の関係が継続している側面もあると同時に、新しい差別と排除の関係が導かれたということも否定できないのである。

それゆえ、問題は、そうした新しい関係をどのように描き直せばいいのかということであろう。そのためには、私の語る「システム」論で描く「システム」との関連から、構造的暴力を位置付け直すことが、先ずは必要である、と私は言いたいのだ。それに関しては、既にここまで数回の記事において、論述してきたとおりである。

それらの点を踏まえて付言すれば、今回のロシアのウクライナ侵攻は、このような「システム」の構造的転換・変容の歩みと結び付けて論じ直すことが大事であることを、私は強調しておきたい。私の語る「システム」の構造的転換・変容の歩みの中で、いわゆる南とされた途上国の興隆、とりわけ中国の世界の工場へと至る歩み、それを介しながら、これまでのA、B、CからB、C、Aへと「システム」が転換していく中で、米ソの対立・敵対といった「冷戦」構造も、その終焉を迎えることとなる。

それは同時にまた、新たな「システム」の形成と発展の歩みの中で、「金の成る木」としての「システム」が本格的に再稼働することになったのを意味している。そのB、C、Aから構成される「システム」の先頭に位置したBグループと、これまでの旧「システム」の先頭に位置したAグループとの間における形を変えた南北問題が勃発したとみることもできる。しかしながら、私が強調しておきたいのは、それは①②③の下位システムから構成される一つの「システム」の関係における構造的転換・変容という観点から考察する必要があるということである。

すなわち、覇権システムにおいても、世界資本主義システムにおいても、世界民主主義システムにおいても、それゆえ、「システム」においても、その関係はじゅうらいのA、B、CからB、C、Aへと構成される関係を基にしているということである。AのCやBに対する差別と排除の関係に代わるB・CのAに対する差別と排除の関係である。

こうした「システム」の関係を前提として、同じBグループのロシアとウクライナの敵対関係、そのウクライナを支援するAの欧米諸国とそれに激しく対抗するBのロシアといった関係がすぐ目に付くのではあるまいか。それはそうだとしても、そうした関係をつくり出すに至る{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係全体にこそまずは目を向けて考察することが何よりも大事であろう。


とくに、その「システム」全体において、B、Cにあっては「高度化」の歩みがこれからも続いていくのに対して、その逆に、Aにあっては、「低度化」の深化の歩みが今後も続くことに留意すべきであろう。確かに、これまでも何度も私が指摘してきたように、Bにおいて、モデルで示されるように、[経済発展→民主主義の発展]の関係が実現するに至るのは、2040,50年代までおそらく待たなければならないだろうが、今後もそうした段階に到達するように、「高度化」の歩みが続いていく、と私は確信している。 

その一方において、日本を含めたかつてのAに位置した諸国は、ますます「低度化」の深化の歩みを辿らざるを得なくなり、その意味において、Aに位置する多くの人たちの命と暮らしを守る安全保障は相当に困難を極めるとみておいた方がいいだろう。とてもではあるまいが、「金の成る木」としての「システム」が画策する戦争へとまんまと引きずり込まれるような、余裕などこの日本と日本人にはないことだけは、自覚しておいた方がいい。


(最後に一言)

すぐ上で、「自覚しておいた方がいい」と指摘したのだが、どうもこの国の指導者たちは自分たちだけは、戦争になっても安全だと言わんばかりに、忖度、忖度の連続でもって、米国政府が要求する以上に、日本の富を譲り渡しているのではなかろうか。自分たちの懐が別に痛むわけではないから、またその上前をちょろまかすことも容易だからと、せっせせっせと貢いでいるのに違いなかろうが、こんな連中が選挙のたびに力をつけるのだから、もういい加減にやめてくれよーと思うばかりである。

そうそう、彼らの存在自体も「システム」の総力量を増すのに貢献していることだけは確かである。それでは、Aの力量に対してはどうかって、それに対する私の答えは「あーかんべー」してくれよー!である。

 

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