超人少年伝説

源氏物語千年 紫式部が突然現れ 紫式部氏思想を書くことになった

人や社会の疲労破壊と脆性破壊

2009-02-03 08:27:59 | Weblog
人は組織、国家や文明に疲労破壊と脆性破壊がある。

例えば人の疲労破壊では、人の機能が劣化する。
脆性破壊では人格が壊れる。

疲労破壊でトラブルが頻出し、
脆性破壊で事故や事件となる。

人を疲労させたり破壊するのは、社会である。
現行法は、これを人の責任にする。

*。
法が人の不注意や責任にすることは、
社会の不注意や責任が先行する。

現行法では、文明は国家や組織の責任が不問である。
やっと酒を飲ませたものの責任を問うようになった。

国家は国家責任の立証不能性によって、
その責任を逃れる。

そうする限り問題を減らすことは出来ない。
酔っ払い運転で、酒を飲ませたもの責任を問わなかったことが、
国家の責任であった。

  *。
国家責任を問えない法、
個々の問題は発振した。

ここに問題を負帰還に使わなくてはならないことが分かる。

責任を問う方式は、問題を減らすのでなく、
問題を増やしていた。

*。
責任を問うのでなく、
問題を減らせばよい。

殺人を殺人で応じる。
これで殺人が減った事実はない。

問題対策は、市民的自由と人間的権利の確立だろう。
これが負帰還法である。
ここに社会と個人の安心・安定・安全がある。

制裁と復讐は必要であるが、
これで犯罪を減らした現実はない。

     *。
怖がって緊張し、犯罪機会を増やす。
少なくも怖がらせて、犯罪を減らせたとするなら、
それは人間を人間でなくし、
家畜化し、人の犯罪を家畜の犯罪に転換しとことだ。

すると認知症性犯罪があふれ出す。

これを国家は問えないので、
犯罪が少なく見えるだけだ。

かえってどうしようもない国家となる。

犯罪と狂気は社会が主犯である

2009-02-03 07:47:48 | Weblog
国家や権力は、その犯罪を隠蔽し強化する。
何故なら法によって、個人の責任にすればよいからだ。

即ち、国家や権力は、犯罪であり狂気である。

これは構造理性がなければ発見できなかった。

*。
国家や権力に任せ、世界は犯罪や狂気に溢れた来た。
国家や権力がその原因だったからだ。

国家は犯罪や狂気を製造販売消費していた。
権力は、国家を通して、
その犯罪を不問にさせ、
その責任を市民に取らせ、
市民の損害において、利益を上げていた。

   *。
国家ははじめは、人々の利益を代行していた。

しかし組織化が進むと、
国家産業は、個々の主体の差異を取り去り、
社会の機能に変えてしまった。

国家は人をモノ化し、記号化し、
国家と国民の差異をあいまい化し、
国民も国家も消滅させた。

その結果国家産業に完全に取り込まれた国家と国民は、
最早葛藤を覚えることなく、
犯罪と狂気を人間行為として、
楽しみそこに幸福と感動を覚えるのだ。

国家はと文明は快楽殺人に取り付かれた。

    *。
国家において、理論理性は発振した。

本来の機能を喪失し、
国益と権力を目的として完結した。
ここに良心良識も人間性も異物排除された。

一体何をやっているのだろう。
犯罪と狂気をやっている。
そしてその認識は出来ない。
認識判断機能が異物排除された。

即ち、国家や文明は、
民主主義や民主主義をモノ化し、記号化し、
それを楽しく消費する主体となった。

    *。
国家や文明は世界を食い、新陳代謝を始めた。
国家や文明は、国家や文明を食い始めた。

一体これなんだろう。
死の舞踏を踊る悪の華でもあり、
頭はファウスト博士で、体はフランケンシュタインでもあり、
人を食って生きるドラキュラでもある。

人には理解できない。
人間を畜生・鬼畜・餓鬼にしたことは確かだ。

これが西欧文明の結晶であることは確かだ。

エチケット不況

2009-02-03 06:48:32 | Weblog
ベストセラーや高視聴率狙いは金鉱掘りである。

感動と癒しの金鉱、
これが知れ渡ると、たくさんの人が集まる。
すぐ彫り尽くされる。
次の金鉱探しに行く。
残り少なくなって行く。

*。
一方金鉱を掘る生活は、不安定である。

その生活は社会や自己から疎外される。
当たれば金にはなるが、
だが当たっても自己は疎外される。

*。
だんだん刺激が強いものになっていく。

これは刺激だけで、実生活の役に立たない。

金融経済が実経済でないことと同型等価だ。

人間や社会に根付かない感動と癒しは妄想だ。

これは人格の正常性を異物排除する。

   *。
感動と幸福産業は、人間性破壊産業であった。

人間を疎外した感動と癒し、
これは推理小説やファンタジー文芸に対応しよう。

新しい世界への過渡現象成分もあろう。
だが自己否定自己破壊成分もある。

*。
進歩と退歩は対偶だから、両成分が並存する。

感動を求めるといい気分になれる。
だがその時自己が否定される。

感動によって自己破壊が起きる。
これは自己と人間性への犯罪だ。
これが識別されていない。

*。
感動と癒しなら何でもよいことではない。

人々が称え合う。
これは異常なことだ。

こうしないと関われない人々、
それは殺意と破壊の隠蔽だ。

  *。
即ち、感動と癒しは、殺意と破壊を実行強化しながら、それを隠蔽する。

現代文化はこの罠に掛かった。

*。
自動車文化も、消費文明も、
破壊と殺人を強化しながら、それを隠蔽する。

ここに精神と文明の破産が起きた。

*。
経済のメルトダウン、
実は文明の破産であったのではないか。

   *。
利益の対偶は損害である。

どんな利益にも損害が付いている。
それは対偶だから当然だ。

社会に利益だが、損害は個人に先行し現れる。

*。
社会は損害を個人に押し込め隠蔽する。

これが破産したのではないか。
環境問題になると、地球問題となる。
問題を個人に押し込められなくなった。

あらゆるものが不況になる。
消費が人間破壊であったが、
これが隠蔽できない時点に到達した。

即ち、文明は破産した。

*。
文明や企業が、過労死・自殺の時を迎えた。

税金を使って、死んだ企業に点滴する。

何をやっているのか分かっていないから出来ることだ。
ただ一つ正しいことは、それでは救われないことだ。

文明の解体再構築の問題だ。

   *。
旧文明は死んだ。
金融破産はその一部であった。

次世代に引き継ぐことだ。

文明にも国家や企業にも世代交代があった。

*。
出版不況などの不況は、
老人が何時までも現役を守ることだろうか。

努力は買うが、どこか間違っているのではないか。

*。
自分を変える生き方の時代が始まった。

快楽は不変でなく、
幸福にこだわると全体を壊す状態になった。

対偶文論 改革の対偶は破壊である

2009-02-03 05:33:51 | Weblog
ホワイトカラー・エグザンプションの対偶は、破壊である。
労働ビッグバンの対偶は殺戮である。

新自由主義の対偶は破壊と殺戮である。

グローバリゼーションの対偶は、権力集中である。
全世界から少数権力が利益を独占することだ。

*。
いろいろと社会的キャンペーンがある。
これに対し対偶を取る。

そしてキャンペーンを主語に、その対偶を述語とする。

するとこれが現実となる。
何かをやろうとすることを主語、
その対偶を述語とすると、
対偶が現実となる。

これが構造理性の世界である。

*。
立派なキャンペーンで犯罪が行われる。

人はキャンペーンが行われると思うのだ。

自由と正義で実際行われたことは、略奪と殺戮だ。

民主主義と資本主義で行われたことは人間疎外だ。

*。
現代文明に自由と正義を入力すると、
略奪を殺戮が出力してくる。

現代文明は、このベルトコンベアであった。

*。
略奪と殺戮側は、大きな利益を取り、
略奪殺戮される側は小さな利益を貰う。
そして無力は真綿で絞め殺されるように、じわじわと殺される。

先ず人間性を殺され、
快楽と殺人が対偶として行われる。
この哀しみが、事件や事故である。
これは人間性の疲労破壊と呼べる。

そして魂や生命の殺人が行われる。
この時の悲鳴が、通り魔やテロとなる。
これは人間性の脆性破壊と呼べる。

   *。
現代文明は自由と正義のベルトコンベアであり、
夢と希望を入力すると、
自己と世界の破壊と殺戮が出力する。

*。
自由と正義のゲームにおいて、
人々の利益を最大にする戦略は、
権力が無力を死に排泄する戦略である。

この時、強者は大きな利益を得、
無力は小さな利益と得る。

即ち、すべての人が最大の利益を得る。

大きな利益を得た人は、長く豊かに生き、
小さな利益を得た人は、苦しい短く生きる。

即ち、すべての人がその立ち位置に応じて最大の利益を得る。

権力は泥棒の利益に預かり快適に長生きし、
無料は乞食の利益に預かり、辛く短く生きる。

*。
すべての人は自助努力の成果を生きる。
快楽が大きいか少ないかは自己責任である。

自由競争の対偶は、弱肉強食であった。
エリートのなるかならないか。
肉食になるか草食になるかの違いだ。
それは自己責任の問題だ。
即ち、誰もが偉くなれる。
即ち、この世界はウソの世界であった。

*。
これが現代文明の構造だ。

自由と正義で行われた略奪を殺戮であった。

これが理論理性の成果であった。