超人少年伝説

源氏物語千年 紫式部が突然現れ 紫式部氏思想を書くことになった

waiting for Buddha

2015-01-31 05:34:04 | Weblog
日本の少女に人を殺すことが行われている。
即ち、人を殺したい気持ちが実行されている。

      
小学二年生の少女が、同級生を殺した。

高校生の少女が、同級生を殺した。

大学生の少女が、老婆を殺した。

      *
殺人に自己を表現したのだろうか。

美しい日本の反作用は、少女の殺人なのかも知れない。

人の物事は、反作用に現れる。
これが作用と反作用の関係である。

*
何故、人を殺す少女が現れるのだろうか。

かって日本は、世界と戦い全滅した。
その語りでいくと、殺人少女は、美しい日本殺しに自己を表現したのかも知れない。

*
仏陀を待ちながら、仏陀が来ないので、外国や日本の殺人に自己を表現する。
日本全滅の少女的実行かも知れない。

特攻少女の自爆攻撃かも知れない。
人を殺して、死刑になる。
少なくも美しい日本の全滅を語っているのかも知れない。

日本の感動文学は、日本現象を語れない。
証明終わり。

       *
こう考えると、
反対の出来ないスローガン、賛成するしかないスローガン。
これが美しい日本である。

*
そして日本は太平洋戦争に突入した。

今、アメリカが、実行している。

日本は、アメリカの先導役である。
日本は、世界を引き行く。
証明終わり。

善悪は お釈迦様だけが知っている

2015-01-31 04:50:45 | Weblog
言論は自由である。
しかし自由同士が、対立する。
すると喧嘩となる。

互いに負ける訳にいかない。
即ち、自由は喧嘩である。

    *
正義や人権も、パラドックスであり、それは喧嘩である。
すると軍事力の対決となる。

これは自由か。
これが正義や人権であるか。

*
日本仏教は、こういう悟りに達した。
善悪を決めるのは、お釈迦様である。

人をそれを決められない。

      *
自由・正義・人権などは、
人が手に入れた途端に、喧嘩となる。
人は喧嘩の強弱で決める。

*
即ち、自由・正義・人権などは存在しない。
喧嘩だけが実在である。

これがKleeneの定理の定理である。
ゲーデルの不完全性定理で言えば、その証明は決定不能である。
証明終わり。

       *
善悪は、非ユークリッド空間に存在し、ユークリッド空間に存在しない。

ユークリッド空間は、人が決めたことであり、
人の住む現実は、非ユークリッド空間である。

*
即ち、事の善悪は、仏陀だけが知っている。
人は善悪に関われない。

これが日本仏教の結論である。
証明終わり。

善悪は お釈迦様だけが知っている

2015-01-31 04:50:45 | Weblog
言論は自由である。
しかし自由同士が、対立する。
すると喧嘩となる。

互いに負ける訳にいかない。
即ち、自由は喧嘩である。

    *
正義や人権も、パラドックスであり、それは喧嘩である。
すると軍事力の対決となる。

これは自由か。
これが正義や人権であるか。

*
日本仏教は、こういう悟りに達した。
善悪を決めるのは、お釈迦様である。

人をそれを決められない。

      *
自由・正義・人権などは、
人が手に入れた途端に、喧嘩となる。
人は喧嘩の強弱で決める。

*
即ち、自由・正義・人権などは存在しない。
喧嘩だけが実在である。

これがKleeneの定理の定理である。
ゲーデルの不完全性定理で言えば、その証明は決定不能である。
証明終わり。

       *
善悪は、非ユークリッド空間に存在し、ユークリッド空間に存在しない。

ユークリッド空間は、人が決めたことであり、
人の住む現実は、非ユークリッド空間である。

*
即ち、事の善悪は、仏陀だけが知っている。
人は善悪に関われない。

これが日本仏教の結論である。
証明終わり。

主張と批判のパラドックス

2015-01-30 05:12:16 | Weblog
主張と批判は、作用と反作用の関係である。
それを同一化する言論である。

それは死である。
これを無や空にする東洋文明である。
だがそれをし損なった東洋である。
即ち、主張と批判は、パラドックスである。

     *
主張と批判は、パラドックスであり、行き着く先は自己否定の肯定となる。

これが理性のゲーデルの不完全性定理である。
即ち、理性は成り立たない。
それを追求すれば、破壊となる。
これが作用と反作用の法則である。

*
それは自己や文明の破壊である。
即ち、パラドックスに絞め殺される。
証明終わり。

ブランショとバルト

2015-01-30 04:51:23 | Weblog
Maurice BlanchotやRoland Barthesの死を無や空に入れ替えよう。

即ち、無私の世界に潜り、即ち、非対称、即ち、人称無き世界に潜む。
この文学空間を言葉にする。
それが日本仏教を言葉にすることである。

それは無や空を、修行者が、自己内の現象として、創造的に語ることである。

         *
西洋文明は、死を問題とする。

魂の日本文化は、無や空を意識の対称とする。

*
即ち、日本文化は、無や空を夫々体験することである。
これは魂を生きる問題である。

これが芭蕉の俳句や小津安二郎の映画である。
証明終わり。

無は 空である

2015-01-29 05:55:55 | Weblog
人類には、色々の障害や病気がある。

理想追求の生き方は、これを排除・削除する。
それでは、障害や病気が可哀想である。
病気や障害も、それなりの存在理由がある。

    *
病気や障害も、人類には必要である。
これが相対化世界観である。

*
病気や障害を、絶対悪として排除する。
これがユークリッド空間である。

この考えの収束することは、人類絶滅である。
それが病気も障害もない世界である。

        *
これはいいことなのか。
目標として追求する。

それは憎しみではないか。

*
憎しみや怒りを越える従容とした生き方こそ、日本仏教の求めた道ではないか。

これが色即是空は、無の思想である。
証明終わり。

日本条理

2015-01-29 05:29:43 | Weblog
近代文学は、線型である。
ポストモダン文学は、非線形である。

即ち、人の頭にすっぽり入る近代文学である。
生きること生きた近代文学。
即ち、愛だとか友情を問題にした。

     *
だが自殺だとか殺人だとか、論理で書けない世界がポストモダン文学である。

だが感動を追う日本文学は、日本一家殺しを問題に出来ない。
人を殺してみたかった。
この非線形をどう掬い取るか。

*
これがカミュとサルトルの問題であろう。
非論理と論理の抗争。

これがポストモダン文学であろう。

     *
これが非ユークリッド世界の問題である。
即ち、善悪の問題を超えた。

*
善悪では把握できない。
善悪は仏陀だけが知っている。

殺人や自殺、反抗や嫌がらせが、悪いでは済まなくなった。
即ち、法律で対応できない世界である。

       *
どんな人も救う日本仏教の世界である。
即ち、善悪で見ない人の世界である。

これが実在の日本である。

*
西洋化されたものの見方の通じない非ユークリッド空間である。

善人も悪人も、救われる。
これが日本仏教である。

*
西洋化を止め、日本を生きよう。
日本には、日本の法がある。

善人も悪人も救われる。
これが日本である。
善悪で考えない日本条理である。
証明終わり。

人種差別

2015-01-29 04:58:15 | Weblog
正義とか人権を言いながら、人種差別が人類を襲っている。
これが白人原理主義である。

このブログは、英語で発表しない。
削除されるからである。

    *
例えば、性奴隷の問題では、韓国の抗議は採用される。
日本側の主張は、排除される。

*
何故か。
韓国は被害者であり、日本は加害者であるからである。

欧米は日本の主張を排除する。
ここに白人原理主義が検出される。

     *
テロ撲滅。
だが白人宗教は、有色人種を人間と認めない。

これがイスラーム教祖の冒涜を許すのである。

*
即ち、有色人種は野蛮人であり、白人は文明人である。

これが現代世界の状況である。
即ち、有色人種に人権はない。
これが白人文明である。
証明終わり。

      *
有色人種にのしかかる人種差別。

だが東洋の魂には、この問題は存在しない。

*
人権と人種差別は、作用と反作用の関係である。

西洋の法は、この二重基準にある。
即ち、法律も憲法も、Kleeneの定理で成り立たない。

西洋法は、この二重基準のパラドックスに絞め殺された。
これがテロの実相である。
証明終わり。

日本規格

2015-01-28 05:23:51 | Weblog
日本では、okami=stateは、shimojimo=nationを棄民する。
悔しかったら、役人になれ。
すると上等国民となる。

        *
shimojimo=nationは、国家の棄民である。
棄民は、卑しい人たちである。

*
役人・議員・大会社経営者は、貴い人たちである。

卑しい人の生きる道は、
上等国民になるか、過労死特攻するか、水俣病障害者となるかである。
これが日本規格である。
証明終わり。

明治憲法原理主義

2015-01-28 04:56:51 | Weblog
明治憲法に「国家無答責の原則」がある。
即ち、国家は責任を問われない。(仲正昌樹)

       *
日本は、太平洋戦争後も、明治憲法が適用されていた。

軍人は元より、官僚や議員・大会社の経営者は、責任を問われない。
彼らの責任意を問うたアメリカなどは、日本に対して許されないことをした。
日本は依然、明治憲法原理主義である。

*
日本は現在も、明治憲法で運営されている。

役人などの立てた計画は、その責任を問われない。
日本経済を破壊した役人・議員などは、その責任を問われない。

       *
無実の人を死刑にする司法も、その責任を問われない。

警察の検察も裁判官も弁護士も、その責任を問われない。
これが国家無責任の原則である。
これが冤罪司法の原理である。

*
日本は現在も明治憲法で運営されている。
証明終わり。