源氏物語をこう読んでみよう。
光源氏はすべてを愛した。
光源氏はすべての女性を愛した。
あらゆることに愛を籠めた。
紫の上は神を愛した。
*。
その結果、光源氏は淫乱と言われた。
すべての女性を愛するとこうなる。
*。
紫の上は光源氏ただ一人に関わった。
すると何で光源氏と離婚しなかったかといわれる。
情けない女といわれる。
*。
すると光源氏と紫の上は人の両極端で、
その間に適当がある。
*。
一方、光源氏は超美男で、天皇の息子で、超エリートで、セレブで、
この世のすべてを手に入れた人だ。
紫の上は光源氏の妻として栄華を極めたが、
自身の幸福が何一つがない人だ。
しかしこの世のものとおもえない美しい人となった。
神になったといっているのではないか。
ここにも両極端がある。
*。
即ち、紫式部は対偶構造で源氏物語を書いている。
光源氏は無限大、紫の上はゼロといっていいのではないか。
この世のすべてを手にした光源氏と、
神の世界に同一化した紫の上である。
*。
放蕩と純潔、豪華と清潔、悪魔と天使。
そういった世界を書いた源氏物語だ。
これが人の全宇宙のスペクトラムだ。
人はこの世界を運動する。
*。
この人間運動空間に、特異点に落ちないように、
不動点を輝かせる世に生きることが人間だ。
源氏物語はそう総括出来るのではないか。
*。
すべての女性を愛した光源氏、
すばらしい人という人もいれば、
不潔という人もいる。
清潔な紫の上を立派という人もいれば、
情けないという人もいる。
*。
源氏物語はあらゆる人に自分を見せてくれる。
人間世界の真相を見せてくれる。
*。
こう読むと多くの女性が出家することは、
天に帰るに、
心の垢を落とす、
即ち、心のお風呂に入ることではないか。
*。
男の汚されれた体を清めるという人もいる。
だが自分はどうか。
自分を探せる源氏物語ではないか。
自分はどこにいるのだろう。
いやどこのおくことがいいのか。
源氏物語はいろいろと使える。
光源氏はすべてを愛した。
光源氏はすべての女性を愛した。
あらゆることに愛を籠めた。
紫の上は神を愛した。
*。
その結果、光源氏は淫乱と言われた。
すべての女性を愛するとこうなる。
*。
紫の上は光源氏ただ一人に関わった。
すると何で光源氏と離婚しなかったかといわれる。
情けない女といわれる。
*。
すると光源氏と紫の上は人の両極端で、
その間に適当がある。
*。
一方、光源氏は超美男で、天皇の息子で、超エリートで、セレブで、
この世のすべてを手に入れた人だ。
紫の上は光源氏の妻として栄華を極めたが、
自身の幸福が何一つがない人だ。
しかしこの世のものとおもえない美しい人となった。
神になったといっているのではないか。
ここにも両極端がある。
*。
即ち、紫式部は対偶構造で源氏物語を書いている。
光源氏は無限大、紫の上はゼロといっていいのではないか。
この世のすべてを手にした光源氏と、
神の世界に同一化した紫の上である。
*。
放蕩と純潔、豪華と清潔、悪魔と天使。
そういった世界を書いた源氏物語だ。
これが人の全宇宙のスペクトラムだ。
人はこの世界を運動する。
*。
この人間運動空間に、特異点に落ちないように、
不動点を輝かせる世に生きることが人間だ。
源氏物語はそう総括出来るのではないか。
*。
すべての女性を愛した光源氏、
すばらしい人という人もいれば、
不潔という人もいる。
清潔な紫の上を立派という人もいれば、
情けないという人もいる。
*。
源氏物語はあらゆる人に自分を見せてくれる。
人間世界の真相を見せてくれる。
*。
こう読むと多くの女性が出家することは、
天に帰るに、
心の垢を落とす、
即ち、心のお風呂に入ることではないか。
*。
男の汚されれた体を清めるという人もいる。
だが自分はどうか。
自分を探せる源氏物語ではないか。
自分はどこにいるのだろう。
いやどこのおくことがいいのか。
源氏物語はいろいろと使える。